「何回目になるか分からないが」1月6日
専門編集委員の玉木研二氏が、『それは晴れた日に』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、戦前の我が国の様子について、映画「小さいおうち」の中の登場人物のやりとりを引用しています。『にぎやかで楽しい都会生活をタキが振り返ったのを、血縁の大学生健史がいぶかる。「間違ってるよ。昭和11年の日本人がそんなに浮き浮きしているわけがないよ。2・26事件の年だろう?だめだよ、過去を美化しちゃ」健史は「あのころは軍国主義の嵐が吹き荒れていた」と信じている。タキや言う。「吹いていないよ。いい天気だった。毎日楽しかった」』。
そして、先の戦争に転げ落ちていった時代について、『教科書と年表によれば、健史の理解が正しいのだろう』としつつも、『国民が油断している間に軍閥の策略で-などという構図だけでは説明できない』と述べています。つまり、軍国主義の嵐の中で戦争に落ち込んでいったのではなく「晴れた日」に戦争への道を突き進んでいたと言っているのです。
今年は戦後70年。おそらく先の戦争を振り返って様々な立場の方が様々な発信をなさることでしょう。その中には、いわゆる「平和教育」「反戦教育」のさらなる充実を主張する声も多いことと思います。大変重要なことです。しかし、私は70年という機会に、戦争を一つの歴史事象としてある程度客観的に見ることができ、それが許されるときだからこそ、玉木氏が指摘する「軍閥の策略で-などという構図」ではない戦争学習を構想、展開していく契機にしてほしいと思うのです。
もう何回目になるか自分でも分からないくらい、私はこのブログで情緒に流れることのない戦争学習の必要性を言い募ってきましたが、また繰り返したいと思います。戦争学習は、軍国主義者という悪がいて、善良だけど非力な庶民を引きずって戦争に巻き込んでいったというような分かりやすい勧善懲悪てきなストーリーを捨てること、愛する家族との穏やかな生活を願っていた庶民が真珠湾攻撃の一報に歓喜したように戦争支持者でもあった事実を踏まえること、戦争はある日突発的に始まるのではなく後から振り返れば悪性の腫瘍がじわじわと体を侵していくように自覚症状のないまま進行していくことに気付かせることを重点に据えなければなりません。
いわば、自分たちこそ、次の戦争の旗振り役になってしまうかもしれない可能性を自覚させることがスタートなのです。そして、その自覚を基に、なぜ戦争が起きたか、どこでどうしていれば戦争を防げたのか、どの決定、どの判断が戦争への道を進めることになったのか、なぜ戦争をやめることができなかったのか、ということについて、我が国だけでなく、米国や欧州の主要国をも視野に入れた冷厳で非情緒的な、客観的で第三者的な学習が必要なのです。情緒では戦争への熱気に対峙できないのですから。
「見つける達人」1月6日
精神科医の香山リカ氏が、『ちょっとニッコリノート』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、『私は、昨年から「ちょっとニッコリ」したできごとをメモ帳に書いておくことにしている』と告白し、その具体的な内容として『「お昼ごはんの定食、サービスで納豆をつけてくれた」「期待せずに見たテレビの映画、意外に面白かった」「枯れたと思った鉢植えに新しい芽を発見」』などと紹介しています。
香山氏は、このノートの効用を「心の体力づくり」であるとしていますが、私は香山氏のコラムから、教員時代に作っていた個人カルテを思い出してしまいました。教員にとって子供理解は必須であり、子供理解に基づいたコミュニケーションこそが、学級経営、生活指導の土台となるのです。
しかし、30人以上の子供を理解するのは容易ではありません。そこで先輩のアドバイスを参考に取り組んだのが、子供たち一人一人の行動や発言を記録しておく「個人カルテ」だったのです。
話は飛びますが、私は子供を叱るのも下手でしたが、褒めるのはもっと下手な教員でした。褒めるに値する行為が見つけられない教員であったというのが正確な言い方かもしれません。子供が何か良いことをしても、そんなことは当たり前でわざわざ褒めるようなことではないと思ってしまうのです。真面目に掃除をしているのも当たり前、宿題をやってくるのも当たり前、授業中におしゃべりをせずにノートをとるのも当たり前、という調子ですから、1日子供たちといても1回も褒めることがないということも珍しくありませんでした。
そんなある日、「先生は怒ってばかり」という子供の不満を聞かされました。それでまず褒める前段として、褒めるようなことを見つけるということに取り組んだのです。最初は何も書けませんでした。同じ学年の先輩に相談すると、廊下を走らずに歩いてた、靴の踵をつぶさずにはいていた、授業が始まる前に席についていた、などということを書いていけばよいと言われました。そんなことなんかでいいのか、と内心で反発を覚えながらも続けていくと、少しずつ子供の行動が見えてくるようになりました。
香山氏の「ちょっとニッコリ」も些細なことです。しかし、教員は、些細なことに目を向ける姿勢が大切なのです。そうすれば、自分が頭の中で観念的に作り上げてきたその子供の子供像が溶け、新しい子供像が立体的に浮かび上がってくるようになるのです。
「個人カルテ」という名称は堅苦しいです。香山氏に倣って「子供のにっこりノート」と名付けて、若い教員の皆さんに取り組んでほしいものです。
「便利な袋」1月5日
『小中学校で起業家教育』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『政府は来年度から、小中学生を対象にした「起業家教育」の導入を全国の学校に促す取り組みを始める』とのことで、『起業家教育は、総合学習の時間などを使って模擬の「株式会社」を設立する体験をしたり~』とされています。この取り組みの性質を象徴するのが、『経産省は「自ら考え、主体的に判断する能力など、生きる力を養うことができる」との教育効果も期待している』という記述です。要するに、文部科学省ではなく、他の省庁主導の施策なのです。
わたしはこの方針に反対です。理由は2つあります。その一つが、この他の省庁主導で学校に新たな教育課題が持ち込まれるということです。こうした形が主流になっていけば、経産省以外の省庁も自分たちの施策に沿った方向で新たな教育課題を学校に押し付けるようになることが予想されます。そして各省庁は、「一つぐらい新しい課題を受け入れる余地はあるはず」と考えるでしょうが、各省庁が一つの教育課題を提案しても、全体では数十に膨れ上がり、学校を圧迫することになってしまうのです。
もう一つは、「総合的な学習の時間」の根本に関わる問題です。「総合的な学習の時間」については、創設当時、「「各学校が創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する」ことが大原則であるとされ、そのために「国がその基準を示すにあたっては、授業時数などを示すにとどめ」ることが適切であるとされていたのです。さらに、「児童・生徒の興味・関心等に基づく」学習課題の設定が求められ、「(児童・生徒が)自ら課題を見つける」ことが重視されているのです。
創設時には、学校も不慣れであり、学習の例示という形で、「国際理解、情報、環境、福祉」などが示されましたが、これとてあくまでも例に過ぎず、学校や教員の自由裁量に多くの部分を委ねていたのです。それなのに、再三批判してきたように、国際理解が本来の趣旨である異文化理解や交流から英語教育に矮小化されてしまったように、徐々に本来の趣旨が捻じ曲げられてきたのが「総合的な学習の時間」の歴史なのです。今回の経産省主導(官邸主導のような気もしますが)の企業家教育は、こうした改悪をさらに押し進めるものだと思います。
もちろん、導入から15年、時代の変化に合わせて「総合的な学習の時間」を見直すことはあってよいと思います。ただそうであるならばきちんと議論した結果を示して、変更を明らかにすべきなのです。制度は変えずにいつの間にか中身を変えてしまうという姑息なやり方は教育という営みに相応しくはありません。
「別の論理」1月5日
『ガラスの天井 女性と政治』の連載特集の第4回目は、『議会「弁当は親の愛情」」』という見出しで、横浜市の学校給食問題に関する市議会のあり方を取り上げていました。記事では『「1000人のお母さんに聞けば1000人が、1万人に聞けば1万人が中学校給食を望んでいる」と伊藤大貴市議は言う。「弁当は親の愛情、という意見を聞いたお母さんは『子育てしたことのない人の異見ではないか」とあきれていました』という給食導入派議員の声を紹介し、女性の声が反映されない議会の体質を糾弾していました。
私はこのブログで再三給食廃止を唱えてきました。つまり、古いオヤジ体質の議員と同じ立場ということになります。しかし給食の問題を、導入・拡大派を働きながら子育てをする女性の理解者、反対派を守旧派のオヤジ体質という色分けで考えるのは間違っています。
私は学校教育に次々と新しい教育課題が持ち込まれている現状、教育においては学校・家庭・地域がそれぞれの役割を果たすことが望ましいとされているにもかかわらず学校教育に過重な責務が負わされているという状況から、このままでは学校教育がパンクしてしまうという危機感から給食廃止を主張してきました。学校は何でも吸い込むブラックホールではありません。限られた時間で、限られた教員が教育活動を行うのですから、ある限度以上に負担を強いるのであればその分何かを削減していかなければならないのです。我が国の教員が、他国に比べて多忙であり、本業である授業の準備に費やすことができる時間が少なく、疲弊しているということは各種調査で明らかになっているのです。
何を削るかについて、様々な意見があると思いますが、私は給食と部活を削減すべきだと考えたのです。いずれも、必ずしも学校教育が担うべきものではないにも関わらず、教員にとって大きな負担となっているからです。先進国でも、給食や部活がない国は少なくありません。学校というものの本質を考えても、授業や学級指導、生活指導を削ったり、外注することはできないのですから、給食と部活という結論にならざるを得ないのです。
もちろんこれはあくまでも私個人の考えですから、別の意見があることは当然です。ただし、給食問題を思想問題にすることだけはやめてほしいと考えます。それでは不毛の対立が続くだけです。
「自分さえよければ」1月3日
『政府は全体像調査を 地方移住「奪い合い」は無意味』という見出しの記事が掲載されました。政府が決定した地方創生5カ年計画「総合戦力」で柱の一つとされた地方への移住に関する記事です。記事の中に、『一部ではまるで移住者を奪い合うサービス合戦になっている』という記述がありました。
いかにもありそうなことです。移住者○名という形で、自治体の努力が計られ、それが担当部署の評価、国からの予算の多寡に影響するとなれば、何が何でも数値を上げたいと考えるのが人情というものです。そこで、本来ならば大都市圏から地方というかたちでの移住を目指すはずが、とにかく他の自治体から一人でも多くという発想にすり替わり、同じような条件の近接自治体間での奪い合いになっているという指摘です。
多くの事象において、「需要と供給」という原則が当てはまります。自治体の「是非私どもところに移住を」という思いが強くなればなるほど、移住を考える人の立場は強化され、記事のあるように『隣の自治体はこんな支援をしてくれたのに』と移住者が条件のつり上げを計るというような事態が生じてしまうのです。
同じことが学校評価や学校選択制の導入でも起こってしまう可能性があります。自校の学力テストの結果を上げたいというとき、正道は授業を充実させることですが、最も手っ取り早いのは、他校の成績の良い子供を転校させることです。しかし公立校では制度的に難しいので、入学時の学校選択において、出来る子供の争奪戦を行うのです。面接を行い、成績の良い子供には好条件を提示するという形になるでしょう。
「部活は形式的に加入すればよいので塾に通う時間が確保できます」「表向きは平等な学級編制となっていますが、成績の良い子供だけ集めた学級を編制し高度な授業を行います」「長期休業日の課題は免除するので受験勉強に集中できます」等々。成績の良い子供を引き付ける条件はいくらでも考え出すことができます。
こんなことをする校長がいるとすれば教育者失格ですが、追い込まれれば弱いのが人間というものです。こんな「空想」が現実となることがないように祈りたい気持ちです。
「英語と教員」1月3日
『米で開発コンテスト 軍事利用懸念も』という小見出しのついた記事が掲載されました。ロボットの研究開発についての特集記事の一部です。記事の中で、『50%の確率で、28年までに人間の頭脳を超えるAI(人工知能)が生まれる』という専門家の言葉が紹介され、『ロボットは記事を書き、ウィキペディアを改定し、同時通訳をこなす。5年以内には医療診断でさえ人間を上回ると予想されている』という未来像を提示しています。
この記事を読んで私は2つのことを考えました。まあ、新年の初夢のような話ですが。一つは、AIが高度化した社会で教員という職はあり続けるのか、ということです。理数系の教科においては、AIが問いを提示し、子供の予想の中で問題解決に資すると思われる見方考え方、失敗例などを抽出し、さらに焦点化した質問を発し、最終的に正しい考え方を説明するというようなことは可能になると思われます。
さらに、小説を書くロボットの開発が進められていることからすれば、文化系の教科においても、教員不要時代は案が近いようにも思われます。私は教員は授業の専門家であり、言葉では説明できない暗黙知をもつがゆえにロボットでは代行できないという考え方でしたが、こうした記事を読むと不安になってきてしまいます。
実は、私は指導主事時代に、学習過程と学習活動を縦軸と横軸に置き、その場その場で見られる子供の行動によって学習状況を把握するという「評価支援表」を作成したことがあります。経験の浅い教員が、授業中の子供のつぶやきや私語、よそ見や手いたずらなどといった行動がどのような内面を語るサインなのか看取るための参考に、という発想でした。もちろん、大変不完全なものでしたが、こうした発想を精緻に極めていけば、ロボットのセンサーが、「この子がペン回しをしているのは自分のリズムで考えており、順調に予想の検証が進んでいる」などと見抜き、それに基づいた適切な言葉かけや援助ができるようになるかもしれないと考えると、ロボット教員も夢物語ではないと思えてくるのです。いずれにしても、現職の優れた教員の協力なしには実現しない話です。もし、ロボット研究者から、ロボット教員を作成するのであなたの知見を提供してほしいと言われたとき、協力する教員はいるのでしょうか。それが将来自分たちの首を絞めることになっても。
2番目は、記事の中にあった「同時通訳」をこなすロボットの開発ということについてです。5年後、10年後に英語と日本語の同時通訳をすることができるロボットが開発されるとしたら、そのとき英語教育はどうなってしまうのか、ということです。小学校において英語を正式教科とすることに象徴される現在の英語教育改革は、本人の教養を高めるということではなく、国際社会において国際社会の共通言語化しつつある英語を使ってビジネスや高度な研究などの面で戦っていける戦士を育てるという発想で進められています。つまり、あくまでも「道具」としての英語力です。しかしその道具がロボットで代行できるようになってしまうとしたら、もっと別の能力開発に教育資源を投入した方がよいということになるはずです。
ロボットというと大規模なものを連想してしまいますが、携帯電話やコンピューターがかつての数十分の一から数千分の一のサイズに小型化されたことを考えれば、腕時計ぐらいで5カ国語の同時通訳機能などという製品ができるのは火を見るよりも明らかです。英語教育推進論者は、この問題をどのように考えているのでしょうか。
「教委でも見習って」1月3日
『阪神大震災20年 自衛隊OB雇用拡大』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『沖縄県を除く全46都道府県に、自衛隊OBが防災や危機管理の担当職員として在籍している』のだそうです。その中でも、部局長級が2都県、課長級が29府県、課長補佐級が6道県ということで、管理職としての雇用、活用が進んでいる実態が明らかになっています。
私が教委に勤務していたのは、中学生の非行問題が深刻化している時期に重なっていました。私はその対応策として、地元警察署の生活安全課の係長を嘱託として雇用することを提案し、教委の幹部に働きかけをしたことがあります。残念ながら私の力不足もあり、この構想は実を結びませんでした。
今冷静に当時のことを振り返ってみますと、そもそも嘱託という位置づけに問題があったように思います。週に4日程度の勤務で教委を代表して事に当たる権限もないような立場の職員では実効性が期待できず、必要ないというように、部長や教育長に受け止められてしまったのだと思います。私自身も、あくまでも自分たち指導主事の補助業務として考えていたのですから、それも当然です。
普段私はこのブログで、教員は専門職であり、専門職への一定の敬意が必要だという主張を繰り返していました。それなのに、長年警察という組織内で少年非行問題に向き合ってきたという「専門性」を軽視し、軽く扱ってしまったということです。思い切って、問題行動対策官というような職を新たに設けるような覚悟で臨むべきだったように思います。
かつて我が国では、進歩的立場の人を中心に自衛官に対する拒絶意識が存在しました。学校においても、警察との連携を「教育の敗北」「学校の自殺」などと考え、拒否する体質がありました。しかし、大規模災害時の自衛官の活躍を目にした国民の間で、自衛官への拒否反応は急速に薄れつつあります。それが、今回の記事のように自衛隊OBの活用拡大に結びついていったのだと思われます。同じように、学校でも警察との連携の必要性が浸透しつつあります。今こそ、教委と警察の連携強化の具体的な取り組みとして、警察官OBの採用を検討してみるべきだと思います。危険ハーブや振り込め詐欺など、新たな少年非行、少年犯罪が拡大しそうな状況なのですから。
「逆の場合でも支持しますか」12月30日
『マンガと戦争 身近で生々しく伝わる』という表題の社説が掲載されました。その中に、『若い世代のマンガ家たちが想像力を駆使して、戦争を表現している』現象に着目し、『体験記や記録に接することはきわめて重要だが、奔放なイメージによってこそ表せる戦争の恐怖もある。様々な表現に親しむことで、戦争への想像力を鍛えたい』という記述がありました。
大変危険な発想だと思います。社説を書かれた方が具体例として取り上げているのは、いずれも戦争を否定的に描き、戦争のマイナス面を強調する作品ばかりです。しかし、マンガ家が想像力を駆使して描いた作品を参考に学ぶことを認めるのであれば、戦争賛美の作品についても認めていかなくてはならないことになってしまいます。そうではなく、戦争を否定的に描いている作品だけに価値があるという立場に立つのであれば、逆の立場の人、いわゆる自虐史観撤回を主張する人々から、「偏向」という非難を受ける可能性があります。結局、泥沼の思想論争に陥っていってしまうでしょう。
また、とにかく戦争は駄目だという立場で戦争を学ばせること自体にも疑問があります。第二次世界大戦がなぜ起こってしまったかというとき、当初見せた英仏のナチスドイツに対する融和的妥協的態度と小国の権利を無視した譲歩、米国の一国平和主義的な不関与がヒットラーの冒険を誘発した側面は否めません。歴史に「もし」はありえませんが、英米仏の3国1930年代半ばからはっきりとナチスに対峙する決意を見せていれば、第二次大戦は避けられたかもしれないと言う歴史家は少なくありません。
具体的事実を丹念に負う「戦争を避ける教育」こそが大切なのだと思います。安易に想像を頼るのは有害です。以前もこのブログで学校における「戦争に対する学び」のあり方について私見を述べましたが、繰り返したいと思います。情緒に訴えかけて作られた反戦非戦感情は、巧みなアジテーターの一声で好戦感情に転化しやすいというのは歴史の教えるところです。教員はこのことを忘れないでいてほしいものです。
「先進的取り組み?」12月29日
社会部の東海林智記者による『時給800円だけど仕方ない?』という見出しの記事が掲載されました。『学校現場でワークルールを教えようという動きが広がり、労働教育研究会も結成されています。どんな授業が行われているのでしょうか』というリード文に期待して読んでみると、『高校で広がるクイズ形式授業』というサブタイトル通りにクイズを使った授業の様子が紹介されていました。
私はワークルールを教えたこともそうした授業を参観したこともありません。ですから、授業の内容については触れる資格はありません。ただ、高校で取り組みが始まっており、その先駆的な実践として紹介されるのが、「クイズ形式」というところに強い違和感を感じるのです。
小学校の教員にとって、クイズ形式の授業といえば、初歩中の初歩です。指導の工夫とさえ呼べないというのが一般的な認識です。研究授業などでクイズ形式を授業の工夫として取り扱う授業をすれば参観者の失笑をかうでしょう。
もちろん、クイズ形式を取り入れてはいけないと言っているのではありません。指導の工夫とは、学習者である子供の既成概念や知識と矛盾する事実、解決不能な課題を設定し、子供の知りたいという欲求、どうしてなんだろうという疑問を高め、それを問題追究の動力源として、子供に主体的に仮説を立てさせ、ねばり強く調査させるための仕掛けのことを言うのです。クイズからそうした展開に入っていくのであればよいのですが、記事を読む限り、そうはなっていません。クイズを提示した後、教員の解説、資料の説明になってしまっているのです。
この原因は、小学校と高校の間にある授業観、教員観の違いにあります。小学校では如何に教えるかに重点を置いて授業というものを捉え、教えるための工夫こそ教員の仕事と考えるのに対し、高校では何を教えるかに重点を置いて授業を捉え、教える内容についての知識を深めることこそ教員の仕事であると考える傾向が強いのです。ですから、ワークルールの授業についても、どのように生徒を学習に取り組ませるかという視点が弱いのです。
今まではそれでもよかったかもしれませんが、大学入試でも思考力、問題解決能力が問われる方向で改革が進められようとしている現在、クイズ形式の実践を臆面もなく「先駆的な取り組み」として発表するような神経ではいけないのです。
東海林記者は、「15歳からの労働組合入門」という著書もあるワークルール教育の先駆者の一人です。学習内容や対象だけでなく、生徒が主体的に問題意識をもって取り組むことができるような実践を後押ししてほしいものです。
「だから駄目なんだ」12月28日
仏文学者鹿島茂氏が『学者・研究者の真の快楽とは』という標題でコラムを書かれていました。その中で鹿島氏は、幕末期、諸大名に雇われることを目的としていた江戸の蘭学者とそうした目的がなかった大阪の蘭学者では、後者のレベルが格段に高かったという事実を指摘した上で、2つのことを述べています。
『学問・研究においては真理の追究というそのこと自体が快楽と直結しており、もうかるとか就職に有利かなどということは学者や研究者の関心の中心ではない』『学問研究のレベルを高めるのは~(中略)~真理追究によって自尊心を満足させることができるようなシステムがどこかに働いていなければならない』の2点です。
鹿島氏は、現在進行中の大学改革を論じるためにコラムを書かれていますが、私は小中学校の教育改革を考える際にも、適応できる考え方を含んでいると思います。最初の「快楽云々」については、子供と教員の2つの立場から考えることができます。
まず、子供にとって楽しい授業とは、純粋に新しいことを知る、今まで分からなかったことが分かるというものであり、将来○○になるのに役立つというような功利的な動機付けは望ましくない、という授業観に結びつきます。そう考えると、将来英語が使えないと不利だという理由で行われる「小学校における英語教育導入」や、自分にあった職を探すための「キャリア教育」などは、この王道からはずれていることになります。
また教員の視点で見ると、教員にとって指導法を研究するということは、出世や昇給などという経済的利益を求めて行われるものではなく、純粋に「今日の授業で子供が嬉しそうに、分かった!と言ってくれた」「いつも授業を聞いていない○○君が、先生もっとやろうよ、とやる気をみせてくれた」というような「手応え」を求めて行われるものだという考え方につながります。
そして鹿島氏の2番目の指摘である「自尊心云々」を重ねてみると、教員を昇給や昇進で意欲づけようとするよりも、教員が授業の手応えに自尊心を刺激されるというシステムを構築することこそが、教員の指導力向上、そして子供の学力向上につながる改革となるということになります。この脈絡で言えば、業績評価を導入し給与に差をつけることで教員の向上心に火を点けようという手法は有効でないことになります。
実際、教委で業績評価を担当したものとしての実感では、業績評価による差別化で成果は上がっていないように思えました。どう思われるでしょうか。