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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

進学しないという選択

2015-01-21 07:48:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「進学しないという選択肢」1月14日
 『大学卒業要件厳格化へ』という見出しの記事が一面トップで掲載されました。記事によると、『国は大学入試と大学教育の一体改革を目指しており、「入り口」の入試改革を進めると同時に「出口」である卒業要件を厳格化。卒業する学生の質も確保することが狙いだ』とのことです。その結果、『水準に達していない学生は留年させたり卒業見送りにしたるするなどして、安易に卒業させない大学づくりが進む』ことになるのだそうです。
 もし、私の学生時代にこうした制度が導入されていたら、私は卒業できなかったように思います。でも、賛成です。私が賛成する理由は、この新制度によって大学改革が進み、各大学が質のよい人材を社会に送り出すことができるようになることを期待してのものではありません。
 3流の国立大学にやっと合格した私は、卒業要件が厳格化されていれば卒業できなかっただろうということは先に述べました。では、私はどうしただろうと考えてみると、大学進学を諦めていたと思うのです。我が家は裕福ではありませんでしたから、何年も留年することは経済的に許されなかったでしょう。それでも6年、7年かけて卒業し、大卒の資格を得られればまだしも救いがありますが、結局卒業できなかったとなれば、何の資格も肩書きもにままに社会に放り出されることになってしまうわけです。それから、何とかどこかの企業に就職できたとしても、高卒で入社していた同級生とは6、7年のキャリアの差ができてしまっています。もしかしたら、新入社員とその教育係くらいの差ができてしまっているかもしれません。それどころか、係長と新入社員という関係で、毎日怒鳴られている状態かもしれないのです。
 そんな未来を想像してみれば、私は大学進学を断念し他の道を模索していたと思うのです。我が子のことをよく知る両親も、進学断念に賛成したはずです。私のような中途半端な成績の者の多くが、進学を断念して別の道を歩み出すとすれば、「世間体」の問題も解消されます。「どこでもいいから大学ぐらい出ていないとつぶしがきかない」というような見方はなくなり、「どうしてお宅の息子さん大学に行かれなかったの」などという質問に怯えることも、結婚申し込みの際に相手の親御さんから「娘の結婚相手には、大学ぐらい出ていて欲しかった」などと言われることを心配しなくてもよくなるでしょう。
 そして将来的には、大学は真に最高学府にふさわしい能力・資質をもった若者だけが学ぶ場になっていくのです。そうなれば、高校以下の学校教育も変わります。小中学校においても、いわゆる受験の弊害はなくなり、子供の知的好奇心を生かした問題解決学習に多くの時間をかけることができるようになります。それは、いじめや不登校などの諸問題の緩和にもつながるはずです。つまり、大学進学を断念するという選択肢が一般的になることこそが、最も効果的な小中学校教育改革になる可能性が高いということです。
 以上が、私が大学卒業要件厳格化に賛成する理由です。ですから、新方針が、3流、4流の卒業基準をもった似非大学が増えるだけの結果に終わるのであれば、反対です。実際にはそうなりそうな懸念が強いのですが。

 

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政治家ではなく学者として

2015-01-20 07:50:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知事の一言」1月14日
 毎週掲載される「知事会見 ダイジェスト」に、桝添都知事がパリのイスラム過激派によるテロ事件に関わって語った、『フランスで残念なテロ事件が起きた。最近は読書する機会がないと思うが、古今東西の古典はそれなりの意味がある。しっかりとした教養を身に着けることが基本的人権を守ることにもつながる』『古典の素読、そういうことをしっかりやることがテロリズムとの戦いになる』という言葉が紹介されていました。
 桝添氏といえば、今の若い人には政治家というイメージしかないかもしれませんが、元々は国際政治学者です。その本領発揮ともいうべき言葉だと思いました。今、小学校から大学まで、学校教育に「即効性」、すなわち何の役に立つかはっきりとしたものだけを重視する風潮が広まっているように思えます。その究極の例が、大学を2分化し、高度な研究機能を持つ大学と、資格や技能の習得に特化した専門学校的な大学に構成し直すという案が検討されていることです。
 しかし、桝添氏の発言は、企業に就職してもすぐには役に立たない「教養」の意義を再評価するものです。また、民主主義や自由、人権などを守ると言うことは、社会を、国家を強く豊かなものとして成り立たせる上でもっとも大切なことなのですから、国民として必須の素養だと言っても間違いではないはずです。
 我が国における義務教育のねらいを端的に言えば、民主的で自由で平和な市民社会の形成者としての基礎的基本的資質を培うこと、となります。その目的を達成するためには、桝添氏の指摘に沿えば、古典や教養といった、今現在軽視されているものを、もう一度小中学校の教育糧の中に取り戻す試みが必要になるのです。実際には、高校までが準義務化しているので、高校までの12年間に教養教育を位置づけていくことになるでしょう。
 その際、桝添氏の話の中にあるように、素読ということがキーワードになります。国語の授業を中心に、古典の素読を学習活動として取り入れることを検討・研究すべきだと思います。意味も分からず素読させることへの反対意見もあるかもしれませんが、私自身の朗読を中心に据えた国語の授業の経験から判断して、「声に出して繰り返し読む」ことの教育効果は確かにあると考えます。
 蛇足ですが、「スピードラーニング」が英語の習得に効果的であるならば、初めは意味が分からなくても人類共通の財産である古典の素読も、気が付けばその精神が頭の中に焼き付いていたということになるはずです。

 

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小さな一歩を踏み出すとき

2015-01-19 07:41:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「戦争経験を伝える」1月13日
 俳優仲代達矢氏と作家柴崎友香氏による対談が掲載されました。戦後70年にあたっての対談ということで、両氏は主に戦争体験の伝承について語られています。戦争経験者である仲代氏は、『空襲に遭い、近所の女の子と手をつないで逃げました。すると、手が突然軽くなった。彼女が焼夷弾を直接受けていたのです。~』と。また戦争の結果である戦後の生活についても、『甘いものが欲しいと思うと歯磨き粉をなめたり~』と語れば、柴崎氏も仲代氏の著書で印象に残った場面として、『先生たちが、給仕をしていた仲代さんにコロッケを買ってくるよう頼んだのに、その買ってきてもらったコロッケを仲代さんには分けなかった話です』と飢餓の記憶に同調するといった具合です。
 私も戦争経験の伝承は必要だと考えています。学校で行われる「戦争学習」においても貴重な学習材になると考えています。ただ、伝えるべきは、家族や知人の惨たらしい死や生活の困難さではないと思います。それは、子供の中に「戦争ってイヤだな」という感情を植え付けるでしょうが、それだけです。こうした学習をした子供は、戦争を防ぐには、平和を維持するにはどうすればよいかというノウハウをもつことも、戦争に向かって進みつつあることを察知するアンテナをもつこともできません。
 戦争は、平和を愛する善なる自分とは異なる「悪」、好戦的な人間が起こすもの、ではないのです。いみじくも柴崎氏が『戦争は攻撃目的でなく「守るため」と言って始まる』と語っていらっしゃるように、大事な家族を、君が愛する人を、君を育んでくれたふるさとを守ろうというスローガンの下、平和を愛する普通の人々が戦争に駆り立てられるものなのです。
 ですから、伝えるべき戦争体験は、社会が戦争に向かって初めの小さな一歩を目立たない形で踏み出したとき、自分は何を感じていたか、何をしていたか、隣の小父さんや学校の先生は何と言っていたか、新聞やラジオは何を報じていたかということなのです。それらを語ることは、自分の不明を曝すことであったり、親しい大人を責めることであったり、極端な場合には自分たちを戦争加担者、戦争賛美者として断罪しなければならないかもしれません。しかし、そうした戦争経験でなければ、次代を担う子供たちが、戦争を止める能力を身につける助けにはならないのです。
 「僕もまだ小学生だったけど、アメリカをやっつけなければならないと思っていた。アメリカ人は根性なしで、戦場で一騎打ちになれば大和魂をもつ日本人が勝つと思っていた。戦争に負けたらどうなっちゃんだろう、と言った友達を非国民と言ってぶん殴ったこともあった」というような戦争体験こそ貴重なのです。
 

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今度こそ共通理解を

2015-01-18 08:16:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「やはり正しかった」1月12日
 『児童に強制 共に批判 実用か教養か平行線両氏』という見出しの特集記事が掲載されました。上智大学名誉教授渡部昇一氏と鹿島平和研究所会長平泉渉氏の間で行われた英語教育のあり方に関する激論に触れる記事です。
 私もこのブログで再三、英語教育のあり方について意見を述べてきました。専門家である両氏とは比べるのもおこがましい浅薄な意見ではありましたが、今回、両氏の主張の中に私の主張と重なる部分があることを発見し、意を強くしました。
 平泉氏は、『高校の外国語過程は志望者のみ』『志望者には毎日2時間以上、毎年1カ月以上の集中訓練を行う』『国民の5%が英語の実用能力を持つことが望ましい』という趣旨の提言をなさっています。また、渡部氏の『「お父さんとお母さんは昨日、浅草に行って牛肉を食べました」は、「ファーザー、マーザー、ゴー、アサクサ、オックス、イート、イエスタデー」。これは通じるんだよ。「ピジンイングリッシュ」(西洋人相手の商売で生まれた不完全でなまった英語)だ』という指摘も重要です。
 私は、小学校から英語教育を導入して目指す到達点は、ビジネスや学術研究等の分野で世界の人々と渡り合う人を想定した英語力なのか(渡部氏はそれを『英米の大学で卒業論文が書けるレベル』という言い方で示していますが)、道を尋ねたり買い物をしたりする程度の英語力なのかを明確かつ共通に理解することが、英語教育について話し合う大前提であると言ってきました。
 そして、前者のような英語力をすべての国民が身につけることは不可能であると同時に、必要でもなく、それは選抜教育で行えばよいという主張をしてきました。平泉氏の提言は、選抜制という意味で私の主張と同じですし、渡部氏の指摘は、英語、特に英会話力においては単語の羅列ですむようなレベルがあることを示しています。これなら、従来通り、中学校からの英語授業で十分すぎます。
 見出しにもあるように、両氏の論争は『「実用」か「教養」かをめぐる論争』とされていますが、この点についても私は、今月初旬のブログ「英語と教員」において、単にツールとしての英語であれば、現在の小学生が社会人として脂ののった時期を迎える20年後には、コンパクトな自動同時翻訳機が開発されているはずであるという予想を示し、狙いを明確にすべきだと指摘しておきました。
 両氏の論争は、40年以上昔に行われたものです。しかし、現在もこの論争が重要な意味をもっているということは、40年間、有意義な議論、目的を明確にした議論が行われてこなかったということの証明でもあります。小学校における英語教育導入は決まってしまいましたが、今後の改正のためにも、今度こそ、きちんとした共通理解を図ってほしいものです。

 

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耐える、頑張る、習慣にする

2015-01-17 07:54:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「耐える、頑張る、習慣にする」1月11日
 書評欄に、『インターネット・ゲーム依存症 -ネトゲからスマホまで-』(岡田尊司著)が取り上げられていました。書評を担当した佐藤優氏はその中で、『岡田氏は、インターネット依存を抑制する要因として勤勉性に着目し、<勤勉性の高い人では、自己コントロールが高く、他の依存症にも陥りにくい。小さな頃から勤勉性を養うことは、依存に対する抵抗力をつけることになるだろう。勤勉性とは、少ない報酬で努力する能力だと言える。幼い頃からゲームのような強い報酬を与えてしまうと、勤勉性の獲得が難しくなる>と強調する』という記述を紹介しています。
 インターネット、特にゲームについてはほとんど知識がないので、ここでは触れません。私が着目したのは、「勤勉性」に対する再評価です。今、「再」評価と書きました。私はこのブログで、再三、我が国の国民性の強みは勤勉性であり、勤勉性を培ってきたのは小中学校教育であるという趣旨の主張を繰り返してきました。それは、近年我が国において勤勉性が軽視され、現在進行中の教育改革でも勤勉性は視野の外にあるように思われて仕方がないからです。その流れを受けての「再」評価です。
 勉強という熟語は、元々、勉める(=努力する)ように強いる、強制するという意味です。学ぶという行為においては、楽しい(=強い報酬)ことはよいことではありますが、それだけでは必要な学びが完成するはずもなく、楽しくない(=少ない報酬)でも努力するということが必要なはずです。つまり、学校では、楽しい授業の追求と同時に、頑張らせる授業、耐えてやり抜く授業の工夫も必要であるということになります。
 言い方を変えれば、覚える授業、反復練習で身につける授業、発見や解決ではなく定着や修練を重視した授業や機会について、指導法を深めることが教員に求められるということだと思います。
 これは、今、評判の悪い授業です。3日前にこのブログで取り上げた「アクティブ・ラーニング」の対極にあるとも言えます。それだけに、こうした指導法を取り上げる研究はほとんど行われていませんし、若い教員は拒絶反応を示します。でも、漢字の書き取りを頑張らせる指導法が必要なことは、小学校の教員であれば誰しもが知っているはずです。そして、それが難しいことも。
 文部科学省には、リピティーション・トレーニングに留意した指導法の研究も推進してほしいと思います。

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ここだけの話

2015-01-16 08:04:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ここだけの話」1月10日
 『細野氏と岡田氏の論争場外に』という見出しの記事が掲載されました。民主党の代表選についての記事です。細野氏が、代表選討論会で、先の総選挙前の日本維新の会幹部との話し合いの中で、『維新側から一つのサインとして「関西を切り離すことも考える」という話が来た』と説明したことに対して、維新側が『非公開の場の他党の話を表で言うのが一番問題だ』と反発しているという内容です。
 民主党の代表選も維新の会にも、関心はありません。ただ、政治家の公的な活動における言動については、情報公開の対象にならないのだろうか、という素朴な疑問が湧いただけです。政党の幹部同士が選挙協力について話し合うのはどう考えても「私的」な活動ではありませんから。
 私が教委に勤務しているとき、勤務した自治体は、特に情報公開について積極的な取り組みをしていました。住民の意識が高く、情報公開請求が何件も出されその対応に苦慮したものでした。勤務中の「私的」なメモでさえ、情報公開の対象であるという認識の下、できるだけメモを取らない、取ったメモはできるだけ早く廃棄するという習慣が身に付いてしまいました。メモがなければ、「存在しない」という回答で切り抜けることができるからでした。もちろん、情報公開の趣旨からすれば本末転倒のような対応であることは分かっていましたが、現実問題として仕方のない側面もありました。
 また、特に対応に困ったのが、政治家(首長や与党議員)との会話についてでした。彼らは、とても公にはできないような話をします。例えば、「○○党を支持する団体に所属する教員はどれくらいいるのか。他の地区に異動させられないのか」、という話があったとします。口頭で報告するのですが、そうすると今度は年度末に、「何人異動させたか。何人他地区から押し込まれたか」と訊かれ、結果として外に異動させた人数の方が多いと「よくやった。腕がいいな」と褒められ、逆だと「もっとしっかりやってくれ」と言われてしまうわけです。こんなこと表に出せません。しかし、こちらにしてみれば、相手が首長や議員だから情報提供をしているのであって私人としてのAさんやB氏には情報提供はしません。ですから、これも政治家の公的活動の一環であると思うのです。それなのにこうしたことは情報公開の対象にはなりません。
 私も子供ではありませんから、綺麗事だけで世の中が動かないことは承知しています。それでも、今後、教育行政に首長が権限をもつようになるとこうした政治家マターは増えていくのは確実であり、その分、教育行政の不透明さがますのではないかと危惧するのです。こんな点も、私は教委制度を改革して首長に権限を集中するということに反対する理由の一つなのです。

 

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1分で終わっちゃう

2015-01-15 08:11:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「少しは考えろ」1月8日
 『課題解決授業法 開発へ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『文部科学省は来年度、未来型授業「課題解決型学習(アクティブ・ラーニング、AL)」の指導法を研究・開発する「次世代型教育推進センター」を新設する方針を決めた』とのことです。そのこと自体に反対するものではありませんが、『従来の授業は教員が知識を一方的に教え込む形式が主で、ALのような「双方向型」授業は歴史が浅い。タブレット端末などICT機器を活用した指導力も求められる』という記述には呆れてしまいました。
 さらに、分かりやすく説明しようという意図からでしょうが、添えられている「図」がお粗末すぎるのです。『従来の教え込み授業』というイラストには、台形の面積について、黒板の前に立った教員が『(上辺+下辺)×高さ÷2と覚えておきなさい』と指示しているのです。もう頭がクラクラしました。
 この記事を書いた三木陽介記者は、少しは自分の頭で考えたのでしょうか。台形の面積の求め方を指導するとき、公式を知らせ「覚えておきなさい」という授業をしている教員が本当にいると考えているのでしょうか。それでは授業は数分で終わってしまいます。
 通常、台形の面積を求める方法を学ぶ授業は、1~2時間の授業時数が充てられます。小学校の授業は45分ですから、45~90分費やされることになります。もちろん、公式を当てはめて求積問題を解く時間もありますが、子供が図形を操作したりして試行錯誤する時間が45分以上はあるのです。覚えておきなさいの一言で終わるのなら、後の時間は何をしていると考えているのでしょうか。こんな調子で授業をしていけば、1学期の半分ほどですべての学習内容は終わってしまいます。実際に教科書を見て少し考えれば、このおかしさに気付くはずです。全国紙の教育担当の記者がこれではがっかりしてしまいます。
 また、タブレットを使うと「課題解決型学習」になるといわんばかりの記述も問題ありです。タブレットはあくまでも一つのツールに過ぎません。学校教育には今までも、多くの教育機器が導入されてきました。私が教員になった35年以上昔には、OHPが使われ始め、研究授業などでも使用されました。スライドやビデオといった映像機器も備え付けられるようになりました。先進校ではアナライザーを使った授業も行われましたし、実物投影機を使った授業を目にしたこともありました。
 私は記事のように『「双方向型」授業は歴史が浅い』とは考えていませんが、もしそうであるならば今まで、次々に新しい教育機器が導入されても、教え込み授業は改善されなかったことになるではありませんか。それなのになぜタブレットだけは革命を起こすと考えるのか、理解できません。
 課題解決型授業は、教育機器によるのではなく、子供の興味関心を把握し、子供の知的好奇心を刺激して追究意欲を高め、途中で息切れしないように適切な助言や条件整備によって意欲の持続を図る教員の手腕、つまり授業力に負うものなのです。

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業界用語

2015-01-14 07:35:24 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「業界言葉」1月7日
 社会活動家の湯浅誠氏が、『引き立て役に徹しよう 「予防的支援」の拡大』という表題でコラムを書かれていました。湯浅氏は、社会保障について論じていらっしゃるのですが、そこでは『「支援」「支援者」と言ったとたんに、どこか「手とり足とりお膳立てすること、あるいは人」または「できないことを指導し、教えてやること、あるいは人」というイメージがまとわりつく』のだそうです。
 そしてそのことが『「他人のお世話になりたくない」「まだ自分でやれる」という反発』を引き起こしてしまうのだそうです。私はこのコラムを読んで、業界によって同じ言葉でも異なるイメージで使われ、異なる問題を生じさせているものだと思いました。
 学校教育においても、「支援」や「支援者」という用語は使われています。元々は学校現場にはあまりなじみのない言葉だったのですが、「ゆとり教育」が始まり、生活科や「総合的な学習の時間」など新しいタイプの学びが導入されるに従って、子供の自主性、主体性を尊重するという考え方の下、「指導ではなく支援」「教員は、指導者から支援者へ」というような言い方がされるようになっていったのです。
 そしてそこで問題になったのは、社会保障分野とは逆に、支援とは相手が助言や援助を求めてくるまで手を出さないこと、相手が求めていないのに教えることは悪いことといった感覚が教員の間に広がり、分からない子供をそのまま放置し、子供の誤りを修正せず、間違ったやり方を個性として認めてしまうというような弊害が生じてしまったのです。
 こうした教員側の誤解が、その後の低学力批判、「ゆとり教育」批判の原因ともなり、現在のような、子供=人材視する教育改革へと結びついていったのです。要するに、社会福祉分野では「支援」が過剰介入という問題に転化しやすく、学校教育では「支援」が放任という問題に結びつきやすいという違いがある訳です。別の言い方をすれば、「支援」という言葉にはそうした曖昧さがあるということです。
 「ゆとり教育」の実質的な提唱者とも言うべき元文部官僚の寺脇氏は、「ゆとり教育は正しかったが、その趣旨が一人一人の教員に正しく伝わらず、指導放棄と誤解されたことが成果を挙げられないまま打ち切られる原因となった」という趣旨の発言をなさっています。新しい概念を打ち出すときには、関係者全員が、正しいイメージを共有することが大切だということです。

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愚かな要求

2015-01-13 07:52:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「我に返って」1月7日
 読者投稿欄に千葉県の坂本雅優氏の『首相もゴルフを楽しんでいい』というタイトルの投書が掲載されました。以前掲載された『首相のゴルフに激しい憤り』という当社への反論ともいうべきものです。その中で坂本氏は、『首相は国政のかじを取るという一般人とは異なる重要な責任を負っていますが、それでも人間です。仙人のような禁欲的な日々を送っていたら、それこそ精神的に参ってしまい首相としての責務を果たせなくなってしまう』と述べています。
 私は、首相が経済団体のトップとゴルフを楽しんだというニュースを見て、こうしたニュースがこのタイミングで流されることが国民にどのような思いを抱かせるか想像できない安倍氏の感性に違和感を感じ、家族とも話題にしていただけに、このゴルフ論争には関心がありました。
 私は安倍氏の行動に違和感を持つ者ですが、そうした思いとは別に教委勤務時代のある出来事を思い出しました。私の勤務する区の隣の区において、中学生が警察官を刺すという事件が起き、メディアにも大きく取り上げられたことがあったのです。当時私は、事件のあった区も含め、近隣5区の教委でつくる生活指導担当指導主事会の代表を務めていたこともあり、隣接区の指導主事とも頻繁に情報交換をしていたものでした。
 隣接区の議会では、文教委員会を中心に激しい教委批判が行われました。与野党を問わず議員からは、教委の無能を責め、対応の遅さを責める声が寄せられました。客観的に見て、当時の隣接区教委の対応は素早く、警察との連携や各中学校への指導と調査、メディアへの対応、保護者や生徒への説明など、正直「自分が当事者だとしたらここまでできるだろうか」と思わせるレベルでしたが、議員たちはそんなふうには思わないようでした。
 連日開かれる文教委員会で、ある議員が、「何をもたもたしているんだ、室長も指導主事も寝ないで対処しろ」と発言しました。そのとき、指導室長が答弁に立ち、落ち着いた声で、「私も指導主事も適切な対応をするために睡眠は取っておりますが、今までもこれからも全力で問題の解決に当たるということはお約束いたします」と話しました。一瞬、委員会室は静かになり、議員が「失礼しました。一刻も早い解決をという思いが失礼な発言になってしまいました。頑張ってください」と発言し、それから議会の雰囲気が変わったのです。
 人は感情の生き物です。しかし、感情をむき出しのままぶつけるだけでは事態は改善しないことの方が多いものです。もちろん、中学生が警察官を刺すというショッキングな事件が起きているにもかかわらず、指導主事や室長が定時に退勤し居酒屋で酒を飲んでいたというのであれば非難されて当然です。しかし、生身の人間に超人的な要求を突きつけるのも愚かなことです。
 「寝るな」な発言をした議員がすぐに非に気付き前言撤回をしたのは、日頃から室長以下指導室のメンバーの働く姿を知っていたからです。そうした意味では、日頃の行いが大切だという当たり前の結論になってしまうのかもしれません。安倍氏の日頃への評価がどうなのかは分かりませんが。

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漢字を読めない修士

2015-01-12 07:55:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逆方向への」1月6日
 作家の奥泉光氏が、『学生の出欠の電子管理は必要か』という表題でコラムを書かれていました。奥泉氏は男子管理の反対の立場を表明し、『学生が身につけるべき知識や技能を獲得しているかどうかを確認するのなら、試験やレポートで十分なはずだ』と述べられています。
 私は奥泉氏の考え方に共感する立場です。といっても大学教育についてはよく分からないので、あくまでも自分が関わってきた小中学校教育にあてはめてのものです。私は以前から、履修主義を脱却し習得主義へと転換を図るべきだという主張をしてきました。履修主義とは、授業を受けているかいないかが最重要視される考え方です。極端な例をいえば、中学校の1年生にもなって2桁の引き算もできなくても毎日授業に出席してさえいれば進級できるということです。
 一方、習得主義とは、その学年その教科において到達すべきとされるレベルの学力さえあれば、出席日数が半分に満たなくても進級させるというシステムになります。学校という場所が、子供に将来最低限必要とされる知識や技能を身につけさせる場であるという原点に立ち返れば、また、分数の計算もできないまま高校生の資格だけ得るという場合の子供の辛さを考えれば、小中学校においても習得主義を取るべきなのは明らかだと思うのです。この点については、日本維新の会の橋下徹氏が留年制を打ち出したときのブログで細かく述べているので、ここでは詳しくは述べませんが。
 しかしこうは言っても、留年制への反対意見の多さを見れば、習得主義への転換が容易ではないのは理解しているつもりです。あくまでも、長期的にそうした方向を目指すというのが現実的だと考えています。ただ、奥泉氏曰く『知的で創造的な場』であるはずの大学でさえ、出席を電子管理するのでは、履修主義を大学まで広げることになり、私の理想と逆方向に進んでしまうと考え、危機感をもってしまうのです。
 そのうち、大学院でも、休まず出席したという理由で知的に磨かれないままの若者が修士の資格を得て世の中にでるというような笑い話が現実になってしまうような危惧を覚えてしまうのです。分数のできない修士、漢字が読めない修士、日米が戦争をしたことを知らない修士、悪夢です。

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