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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

間違いがあれば許される?

2013-07-11 08:09:44 | Weblog
「間違いがあれば許される?」7月6日
 『自民 取材拒否撤回』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『自民党が、TBSの報道内容が公平さを欠いていたとして取材を当面拒否する』としていた問題が、TBSの謝罪を受け入れ解決したということです。もっとも、TBS側は謝罪はしていないというコメントを発表しており、「真相」は不明です。
 私は、自民党とTBSのやりとりに関心はありません。ただ、政党助成金を受けている公の組織である政党が、取材拒否できるという事実に関心があるのです。政党ができるのなら、学校や教委も取材拒否ができるのか、ということです。以前もこのブログで述べましたが、いじめや体罰、児童虐待、教員の不祥事などが起き、学校や教委が取材を受けるとき、メディアは、自分たちが事前に描いた物語に当てはめて報道しようとする「クセ」があります。その結果、事実とは異なる報道内容となることがあります。そうしたとき、報道内容に間違いがあるという理由で以後の取材を拒否できるのであれば、正直な話、助かります。
 しかし、実際には、報道内容の一部が正確ではないと抗議したところで無視されるか、教委側の説明の不十分さに原因があると非難されるのがオチです。取材拒否などといえば、隠蔽だと書き立てられかねません。公立学校の教育活動は国民の税金で営まれる公的なもので国民の関心も高いというのはよく分かります。しかし、その点についていえば、国政の政権与党のほうが公的性格は強いでしょうし、国民全体の関心も高いはずです。教員には高い倫理観と責任感が求められますが、与党の国会議員にはそれ以上の倫理観が求められるはずです。
 私は、教委や学校にとってメディア対応が負担だとか面倒臭いといっているのではありません。可能な限り情報提供をするのが公務員としての務めであるとも考えています。ただ、懸命に問題解決に取り組んでいる最中に、学校の通常の機能さえ麻痺させるような取材活動が、子供の学びを阻害し、直面する問題の解決を遅らせることがあるのも事実だといいたいのです。そして、取材拒否という武器を適正に使うことによって、誤報を正し、過剰な取材活動を制限することができるのであれば、それは学校教育にとってプラスであるはずだと思うのです。

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視るものでも聴くものでもない

2013-07-10 07:45:21 | Weblog
「視るものでも聴くものでもない」7月3日
 教育改革活動家の藤原和博氏が、オンライン講座について書かれています。その中で藤原氏は、『なぜ、日本の小中学校ではこうしたオンライン講座への取り組みが遅れているのかということ。もじボクが「一流の講師によるビデオ授業は、ヘボな教師の生の授業に勝る」と言ったら保護者や先生方は怒るでしょうか?日本中からその単元を教えるのに一番うまい先生を募集してその授業をビデオに撮り自由にオンライン視聴できるようにしたら、キミたちはどうですか?学校のあり方はどう変わるでしょう?』と書かれています。
 なお、ここでいうオンライン講座とは、米国の大学で『授業力の高い教授の、世界中からアクセス可能な無料オンライン講座』をイメージしているようです。藤原氏が提唱するようなシステムが構築されれば、様々な活用法があると思います。費用対効果の面からの分析はできませんが、一定の効果があるのは間違いありません。
 ただ、以前にもこのブログに書いたことですが、藤原氏は、「授業」というものについてきちんと理解されていないようで、氏の影響力の大きさを考えたとき、その点が大変残念です。
 藤原氏が書かれているように『黒板に分かりやすくカラーチョ-クで描きながら解説する語り口が絶妙』というのは、教員にとって大きな武器であり、優れた授業力を構成する大切な要素です。しかし、板書を視せたり、解説を聞かせたりするのが授業ではありません。授業を行う上で大切なのは、子供の反応を正しく見取る能力、子供の反応に合わせて瞬時に的確な助言や資料提示、学習活動の指示を行う能力、つまり一人一人の子供とのコミュニケーション能力なのです。同じ子供でも、子供たち一人一人の興味・関心も、持ち合わせている知識や経験も、理解する能力も、理解する枠組みも、考え方の筋道もみんな違いますし、一人の同じ子供でも昨日と今日では学習に向き合う姿勢は違うのです。そうした中で、1度の授業の中で、30人の子供の発言やノートの記述だけでなく、子供の表情や仕草にまで目を配り、対応していくことができるのが良い教員であり、そうしたことがきちんとなされて初めて、「今日の授業はうまくいった」と言えるのです。
 私は先ほど、オンライン講座が役に立つと言いました。それは、授業の中で、ある部分を「視聴覚資料」として活用できるという意味です。オンライン講座で、ビデオの中の解説を聞いて板書を視るだけのことで、良い「授業」が受けられたとするのであれば、それは小中学校、特に小学校を崩壊させる愚行にしかなりません。
 小学生を相手にどの子供にも45分間集中して視聴させることの難しさ、授業中の評価をどうするのかなど、細かな疑問点はたくさんありますが、まず、授業とは、という根本的なことについて理解した上で、教育改革活動家としての活動をしてほしいものです。

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学校の「道徳」

2013-07-09 07:51:47 | Weblog
「学校の道徳」7月2日
 アサヒグループホールディングス相談役の福地茂雄氏が、寄稿なさっていました。その中で福地氏は、『それをお金で買いますか』(マイケル・サンデル著)を取り上げ、『市場は道徳から遊離してしまったため、どうにかして両者をふたたび結びつける必要がある』『あるものが商品になると、大事なものを失う』という言葉を紹介しています。また、『市場至上主義は正義ではない。私たちには他に守るべき価値がある』という同教授の対談での言葉も記しています。
 「学校に競争原理を」と主張する人々にこれらの言葉を噛みしめてほしいと思います。
上記の言葉を学校教育に当てはめれば、学校教育を市場原理の導入によって改革しようとすれば、学校がもつ「道徳」を損なってしまう危険性があるということになります。もちろん、この場合の「道徳」とは道徳教育のことではなく、モラルという意味です。地域社会や企業・官庁などといった他の組織とは異なる、学校が長い年月を掛けて培ってきた文化ともいうべきものです。その中には、確かに非効率で非合理的なものもあるでしょうし、変化する時代から取り残された時代遅れな考え方が含まれているかもしれません。しかし、学校という組織がもっている、目の前の子供のことを第一に考える、子供の行動を否定することがあっても存在は受け入れる、といった「美風」を失ってしまうことの損失は、そそれらの欠点を解消するメリットよりも大きいと思います。
 人々が学校の思い出、心に残る教員について語るとき、それらはけっして競争原理に則った、数値に換算できるようなものではありません。それは、競争原理の信奉者であっても同じです。そのことこそが、企業などとは異なる独特の雰囲気のようなものが「学校」にとって欠かせないものであるという証拠なのです。
 学校を営利企業にしてはなりません。教育を商品にしてはなりません。教員をセールスマンにしてはなりません。

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あれもこれも

2013-07-08 08:01:27 | Weblog
「あれもこれも」7月2日
 順天堂大学准教授の鯉川なつえ氏が、『複数スポーツのススメ』という標題でコラムを書かれていました。その中で鯉川氏は、『子どもたちは季節に応じてスポーツを楽しむ。春は陸上、野球、ラクロス、夏は水泳、秋はサッカー、フットボール、冬はスキー、スケート、バスケットボール~(中略)~多くのスポーツに出会い、好きなスポーツや得意なスポーツを選択できる』と外国の状況を紹介する一方で、『何か一つのスポーツを始めたら、シーズンに関係なく一年中それを練習する』という我が国の状況を対比させています。
そして、『子どもたちを一つの競技に縛るのではなく、幼少期から高校までに複数のスポーツを経験』させることを推奨しています。要するに、高校までは、いろいろなスポーツに対応できる「基礎」作りの期間で、それ以降を一つのものに特化する期間と位置付ける発想です。以前から同様な指摘がなされていますが、なかなか実態は変わらないようです。それが「我が国の文化」なのかもしれません。
 一方で、これとは逆の動きが見られる「分野」もあります。それはキャリア教育です。従来は、小中学校では将来に備え基盤となる普遍的な能力や知識を身に付けさせることを目指し、高校から進路別の特化が始まるというのがシステムでした。もっとも実際には、進学率の上昇、高校の準義務化が進む中で職業高校よりも普通高校の比重が高まり、進路別の特化が始まるのは高校卒業後というのがより実態に近かったのですが。これは、「複数スポーツのススメ」の考え方に近いものでした。私の中学校時代の恩師も、「今、何になるなどと決めずに、大学に行っていろいろな知識を身に付けてから将来のことを考えた方がよい」と言っていました。
 しかし、近年は、中学校ではほぼ悉皆に、中には小学校でも職業体験をさせる取り組みが見られるようになりました。これは、早い段階で特定のスポーツに集中させるという考え方に近いのです。早くから「なりたい職業」を決めさせ、その実現に向けて努力を促すということなのですから。
 同じ日の別のコラムでは、夕刊編集部の小国綾子氏が、『「将来の夢」で幸せに』というタイトルの下、『子供時代に「なりたい職業」を考え、夢や目標を抱き努力したことは、何十年も先の生きがいや幸福感、希望にまでつながっている』とキャリア教育の成果をあげています。
 つまり、スポーツの分野では、「絞り込みは高校以降に」という方向での改善が必要とされ、キャリア教育では「早期絞り込み」という方向で改善が望ましいとされるという状況なのです。どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。スポーツの職業も、それまでに築いた基盤の上に何かを成し遂げるという意味では共通点が多いと思うのですが。

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情報の精査

2013-07-07 08:24:03 | Weblog
「学校がもつ情報」7月1日
 『「忘れられる権利」EUが提言』という見出しの記事が掲載されました。記事では、『フランスでは、過去の犯罪歴を報道機関に公表されない権利があるとの考え方がある。それを基に「忘れられる権利」が考えられている』とあります。インターネットの普及を背景に、ネット空間に漏れだした本人にとって不都合な個人情報の削除を求める権利が、「忘れられる権利」のようです。
 確かに必要な考え方だと思います。私も犯罪歴はありませんが、いくつか知られたくない「過去」があります。そのことを知っている知人や友人が、そんなことをブログに書いたという状況を想像すれば冷や汗がでます。まあ、冷や汗がでて済む程度の「過去」なのですが。一方で、『個人情報について、要望すればすべて消せるということでは社会が成り立たない』という指摘もあり、今後更に議論が続いていくのだそうです。
 ところで、学校は、子供や保護者についての膨大な個人情報が集積されているところです。その個人情報の中には、成績や非行歴・補導歴、病歴、家庭環境など、他人に知られたくないものも含まれています。子供や保護者にしてみれば、「忘れられる権利」を行使したいものもあるはずです。
 また、指導要録のような公式な記録ではなくても、教員のメモのような形で残されている情報もあります。これらは公務員が公務中に作成した「文書」ですから、開示請求の対象になります。もちろん、現実には子供の進級や卒業を契機に廃棄されてしまっていることがほとんどですが。
 かつて指導要録は、「学籍の記録」も「指導の記録」も20年保存でした。その後、後者は5年間保存となりました。余分な情報はもたない、という情報管理の原則に照らした改善だったのです。現在では、ネット社会の拡大を受け、万が一学校から情報が漏れた場合、「子供」が受ける被害はとても大きくなっています。実際、本ブログで取り上げたように、子供の成績管理を小中9年間にわたって電磁記録媒体で管理活用するような取り組みが始まっています。今、改めて、学校が集め保存する個人情報について、今までの規定でよいのか見直す必要があるような気がします。
 「指導の記録」でいえば、実際に活用されるのは、卒業生が事件等に関わったとき在学中の行動について家裁などから問い合わせが来るというようなケースに限られています。国語の成績や栽培委員会での活動の記録が必要になるケースは考えられません。どのような情報を保存しておくのか検討の余地はあるはずです。
 また、中学2年生が補導されたとして、小学校の記録が必要なのか、過去1年間の中学校の記録があれば十分なのではないか、高校生の事件では小学校の記録よりも中学校のときの記録の方が意味があるのではないか、と考えれば保存期間は5年間も必要なのか、ということになるはずです。
さらに、忘れてならないのは、教員についての個人情報です。毎年の業績評価は在職中は保存しなければなりませんが、その下資料となる副校長や校長の「メモ」の管理はどうなっているのか、という問題があります。私の経験では、記録の消去について厳格なチェックシステムは整っていなかったというのが実態です。見逃しがちですが、この面にも配慮が必要です。

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混乱の種

2013-07-06 07:20:02 | Weblog
「混乱している」7月1日
 『第三者委に多くの課題』という見出しの記事が掲載されました。記事の冒頭には、『いじめや体罰の原因を調査し、対応を勧告するため自治体が有識者らによる「第三者委員会」を設置するケースが増えている。しかし、真相究明に至らず、責任の所在が不明確なまま調査を終える例も少なくない』と書かれています。
 私は、上記の記述にこそ、「第三者委員会」が機能しない理由が隠されていると思います。それは一言で言うと、「第三者委員会」の目的や役割について、関係者の間で混乱が生じているということです。
 調査するのは「原因」なのでしょうか。そうではないと思います。調査対象は「事実」であるべきです。いつ、誰が、どこで、誰に対して、どのような行為をしたかということを時系列で明らかにし、不明な点は不明であるとして報告することを役割とすべきなのです。そうした事実を基に何が原因なのかを判断するのは、調査とは別のことです。
 さらにより根元的な問題として「原因」とは何か、という問題があります。体罰のケースで考えてみます。体罰があったこと自体は確認ができたとして、その「原因」とは、子供がいうことを聞かなかった、子供が教員をバカにして腹の立つようなことを言った、教員が家庭の問題でイライラしていた、たまたま近くに1mの物差しがあった、というような「直接的」ことなのでしょうか。こんな「原因」が判明したところで有効な防止策は打ち出せないと思います。教室には物差しを置かない、という対策を提言したら笑いものです。
 それとも、教員は従わせるためには叩くことも許されると考えていた、校内に体罰容認の雰囲気があった、校長が以前の体罰時に毅然たる対応をしていなかった、保護者の中に体罰を含む「厳しい指導」を望む声が強かった、というようなことなのでしょうか。こんな類型的な「原因」を指摘したところで意味があるとは思えません。つまり、「原因」というイメージが曖昧なのです。 
 要するに、「第三者委員会」は、その役割が曖昧だったり、本来複数の組織が果たすべき役割が混在していることから、成果を上げられずに終わってしまうことになるのです。
 役割を明確にし、分業体制を整えることができれば、委員の人選も的確に行うことができます。事実関係の調査ということでいえば、警察OBや弁護士などが適任でしょう。しかし、対応策の立案ということになれば、学校や教育行政に通暁している者でなければできません。
 最後にもう一つだけ問題点を指摘しておきたいと思います。それは、「真相究明」という概念についてです。真相は究明できません。いじめや体罰があり、被害者とされる子供の自殺という事実があったとき、その因果関係はけっして明らかにはなりません。自殺した本人にさえ分かっていない場合さえあるはずです。「真相究明」というのは、あくまでも残された第三者が行う合理的推論に過ぎません。その限界を弁えておくことは必要です。真相とは分からないものであるからこそ、真実に一歩でも近づくために、しつこいくらいの事実確認が求められるのです。
 私は、「第三者委員会」は、教委から独立した事実確認の専門家集団による徹底調査の機関とし、その調査結果には教委からの異議は認めず、そこでの調査結果を基に対応策を創り上げ実施するのは教委の責任とし、定期的な報告という形で議会が監視するという分業制度が望ましいと思います。
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実現への筋道

2013-07-05 07:20:39 | Weblog
「筋道は」6月30日
 7月4日に公示される参院選に向けた各党の公約が発表されました。その中で日本維新の会の教育政策が気になりました。紙面には、『教育行政に対する首長の責任を明確にするため、教育委員会制度を廃止する。民間参入を促し、公教育の場にも競争原理を導入する』と書かれていました。
 教委廃止については、既に何回も触れてきたので、ここでは触れません。今回は、公教育への民間参入について考えてみたいと思います。端的に言えば、企業立学校の設置ということでしょう。公設民営学校もここに含まれます。
 疑問はいくつかありますが、特に気になるのが、教員の確保という問題です。民間という以上、その学校で働く教員は公務員ではないはずです。現在、公務員として公立学校に勤務している教員が、それなりに安定し、慣れ親しんだ職場を離れ、実態の分からない民間校に勤務することを希望するケースはほとんどないでしょう。そうした状況の中、新たに設置される民間校は、どのように指導力のある教員を確保するのでしょうか。教育学部を卒業したての未経験の教員だけで学校が成り立つとは思えません。また、比較的高齢の退職者ばかり集めるのも問題ですし、教員免許を持ちながら教職に就いていない人を集めても戦力になりません。教員は、授業の職人なのですから、免許だけあっても未経験者は素人同然です。
 教員の人事管理や組織運営、授業に直接関わらない校務の処理などは民間人で行うことができるでしょうが、肝心の教員が揃わないのでは、民間校の実現は、難しいと思うのですが。
 あるいは、民間校に在学する児童・生徒数に見合うだけの教員を分限免職し、それを充てるという構想なのかもしれませんが、そうなれば地位保全を求める裁判が起こり、長期化することは必至です。しかも、敗訴する可能性も高いでしょう。
 それ以外には、民間への出向という形が考えられます。現在、中央官庁や各自治体で、数こそ多くはないものの広く行われている制度です。ただこの場合は、期限が来たら元の職に戻るということが前提となっています。そこに骨を埋めるという心境にはなりにくいでしょう。そのことが子供や保護者にどのような影響を与えるか、検討はされているのでしょうか。
 さらに、出向が前提となったシステムの場合、今後の教員志望者の動向に与える影響についても検討しておく必要があります。不安を覚え優秀な人材が集まらないというのでは困るのですから。
 詳細なイメージが知りたいものです。

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期待させるな

2013-07-04 07:59:28 | Weblog
「実現可能という幻想をもたせるな」6月29日
 『校外での対策難しく』という見出しの記事が掲載されました。練馬区立大泉第一小学校の児童が下校途中に襲われた事件に関わって、対応策の難しさを述べた記事です。記事では、文部科学省が以前出している通知の内容『見通しが悪いなど要注意場所の把握と周知徹底△警察と登下校ルートや時間の情報を共有△低学年児童が1人にならないよう、集団登下校や保護者の付き添いを実施△不審者情報の共有』を紹介しています。確かに無意味ではありません。しかし、その効果は知れたものです。だからこそ今回事故が起きたのです。
 また、記事では、立正大学教授の小宮信夫氏の、『大人の目が届かないところが狙われる恐れもある。英国では集団登下校中、親やボランティアが付き添う「ウオーキングバス」という方法を取っている地域も多い』という指摘も取り上げていますが、これも先の通知と大同小異の内容です。考えてみれば当たり前です。都内の標準的な規模の小学校の場合、児童数は400人程度になります。低中高と3つの時間帯に分かれて下校するとして、130~140任程度が一斉に下校することになります。それだけの人数に対して死角をつくらないようにするには、数十人の「大人」が必要になります。私の住む区にあてはめれば、全校分で2000人以上になります。それだけの人手を雇う予算を確保できる自治体はありません。仮に保護者やボランティア等で確保できたとしても、実際には「大人」がいても事件は起きるのです。今回も、1mの長さの棒をもつ交通安全指導員がいたにもかかわらず、犯人は児童に襲いかかったのです。「武器」をもたない女性や高齢者では、抑止効果は薄いでしょう。
 そうした状況にもかかわらず、都教委は『登下校時の子どもの安全確保徹底を求める通知を各区市町村教委に出した』のだそうです。『保護者や地域住民との連携について再確認を促す』内容だそうです。機械的対応、形式主義だと感じてしまうのは私だけなのでしょうか。残念ですが、実効性に乏しいということを理解しながらも、通知を出したことで都教委として迅速に対応しましたというアリバイ作りをしたと見えてしまうのです。
 私は都教委が対応をサボっていると言いたいのではありません。できないことはできないと言うべきだと考えているのです。都議会で、「子供の登下校の安全確保については」と訊かれたとき、「各教委に対して、対策の徹底を指示し、安全を確保していく覚悟であります」と答えるのではなく、「現在のシステム、予算から考え、実効性のある対策を打ち出すことは不可能だと考えます。この問題については、教育委員会だけで解決できることではなく、議員の皆様のお知恵も拝借しながら、国への働きかけを含み、行政全般で対応策を考えていただく必要があると考えます」と「開き直る」ことが必要だと思うのです。
できないことはできないと言い、余計な期待をもたせない方が、関係者が真剣に考え出すと思うのです。
 首長の教育政策への関与を強めるという主張も、こうした教委だけでは解決不能なシステム作りに部局の壁を乗り越えたリーダーシップを発揮するためというのであれば、すこしは頷けるのですが。
 
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自由裁量という名の強制

2013-07-03 07:14:56 | Weblog
「自由という名の強制」6月28日
 『土曜授業実施しやすく』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文部科学省は、『公立小中高校での土曜授業について、来年度から自治体独自の判断で実施しやすいよう省令改正を行う方針を明らかにした』ということです。「実施しやすいように改正」するのですから、文部科学省は、土曜授業が望ましいと考えていることになります。しかし一方で、『一律実施は、週5日制が定着していることや、教職員の勤務体制の再整備に課題が多いことから、検討課題とした』ということなのです。
 つまり、土曜授業を増やしなさい、ただしそのための面倒な課題は各教委で解決しなさい、ということです。このように言えば、文部科学省は、「増やせとは言っていない。あくまでも各教委の裁量権を拡大するもので、教育における地方自治の拡大という大きな流れの沿ったものだ」と答えることでしょう。また、「国民の多くが土曜授業の拡充により学力を向上させることを望んでおり、民意に沿う改革が行いやすいように配慮しただけである」とも言うことでしょう。
 しかし、実際は、各教委に裁量の余地はほとんどありません。隣の○○市では、月に2回土曜日の授業をしているのにどうして我が市は、月に1回だけなんだ」という市民からの突き上げ、民意を代弁する議員の批判を受け、すべての教委が何らかの土曜授業拡充策をとらなければならなくなるのです。
 私は、学校週5日制の趣旨は間違っていないと思っています。ですから、安易に土曜授業を復活させることには反対です。しかし、そうした立場とは別に、文部科学省の「無責任」なやり方自体に疑問を覚えます。文部科学省が、我が国の現状と将来像から週6日制復活が必要だと考えるのであれば、様々な課題を掲げて復活を渋る教委に対して、きちんと説得すべきなのです。そして、国会を納得させて必要な予算措置、法整備を行うべきなのです。それなのに、地方の裁量という形をとりながら、市民や議員の圧力を利用して「全国でほとんどの学校が…」という既成事実を作り、そのことをもって改革を実現させようとするという手法で論議を省略してしまうというやり方は、我が国の学校教育政策を空疎なものにしてしまいます。

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都教委と文部科学省

2013-07-02 08:00:54 | Weblog
「正当な権限行使」6月27日
 『都教委「教科書使うな」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると都教委が、『高校で使う特定の日本史教科書に国旗国歌法に関して不適切な記述があるとして、各都立校に「使用はふさわしくない」とする通知を出すことに決めた』ということです。
 不適切な記述とは、『国旗国歌について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」』というものだそうです。この記述について都教委幹部は『「公務員への強制」という表現は明らかに間違っており、採用するわけにはいかない』と述べている一方で、教科書検定では、『「政府は国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし現実はそうなっていない」との記述に文部科学省の意見がつき、後半を「公務員への強制の動き」などと書き換えて合格』という経緯があることも報じられています。
 この問題については、「都教委の不当な介入であるという批判」(市民団体「子どもと教科書全国ネット」)や「都教委としての見解はあって然るべき」(猪瀬都知事)という肯定派の意見が湧き起こっています。法的には、不当な介入でないことは明確です。採択の最終権限は各校ではなく教委にあるのですから。
 それよりも私は、文部科学省と都教委の間で、教科書の記述について正しいという意見と間違いだという意見があるということの方が問題だと思います。都教委の見解が正しければ、教科書検定に重大な問題でミスがあったということになります。これは教科書検定の信頼性を大きく損なうものです。
 今までにも教科書の記載に間違いがあり、検定後に発見されるということはたくさんありました。決して珍しいことではありません。むしろ、検定の度に見られる恒例の光景といってもよいくらいです。しかしそうしたミスのほとんどは、教科書調査官が不注意で見逃した結果によるものです。人間にミスはつきもの、仕方がないと思います。ですから、指摘を受けた後、スムーズに訂正されます。
 しかし今回は、文部科学省がその箇所に着目し、書き換えさせているのですから、うっかりミスではあり得ません。ミスではないのですから、都教委の指摘を受けて訂正するということにはなりません。つまり、ある事実についての評価を巡って対立が続くことになります。
 教科書検定制度は、うっかりミスはあっても、間違いはないということが前提となっています。学問の進歩や社会の変化により、ある記述が正しくなくなることはあっても、それが明らかになった時点で訂正されるということで信頼性を保ってきたのです。異なる見方が存在する場合は、両論併記などの形で処理をするということで公平性を維持してきたのです。
 ある「変わり者」が反対意見を述べているのではありません。文部科学省と都教委という学校教育における公的かつビッグパワー同士が対立し合ってしまうのです。この対立を放置しておくことは、検定制度を崩壊させかねないと思います。何らかの調整は始まっているのでしょうか。

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