goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

当たり前の状況

2013-07-21 07:41:54 | Weblog
「当たり前のこと」7月17日
 『接客業の分配金もめる?』という見出しの記事が掲載されました。広島県呉市の山中に若い女性の遺体が遺棄され少女が自首した事件についての記事です。記事によると、『少女は接客業のまとめ役をしていて、利益の分配などを巡り、女子生徒との間でもめていた』そうです。
 この殺人事件の真相は分かりません。ただ、明らかになっているのは、現在は実際には登校していないものの広島市内の高等専修学校に今も籍がある被害者の女子生徒も、「接客業」に関わっていたということです。この「接客業」が16歳の生徒が学校の許可を得てアルバイトとして従事するのに相応しいものであったとは思えません。私は、この高等専修学校の校長以下、学校側の反応に関心があります。
 かつて都教委は、入学間もない1学期、高1の生徒が親を殺した事件に際して、「生徒一人一人をよくみつめ、その心に寄り添う指導が不足」していたという趣旨の見解を発表し、各校長に対して「生徒理解の深化」を求める通知を出したことがありました。私は、その事件は家庭の問題であり、学校が責任を負う必要はないという意味のことをこのブログに書きました。学校や教委の、過剰に自己反省する性癖が、教育における学校依存を強めてしまうという批判でした。
 だからこそ、今回、自校の女子生徒が「接客業」に関わり殺されるほどの事態を迎え、在籍校の校長が何か「自己反省」、例えば生徒の実態把握が不十分だったとか、生徒の変化を見逃していたとかいうコメントを出すかと注目していたのです。
 しかし、私の知る限りでは、校長のコメントもなければ、学校の所為と理解不足を責めるメディアの報道もありませんでした。私はこのことを責めているのではありません。当然だと思っているのです。教員は神様ではありません。学校に来ない生徒、放課後の生徒の行動についてすべてを把握し、指導することなど期待されては困ります。誰も学校の「責任」や「対応」に触れようとしない状況に密かな満足感を得ています。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

職場復帰

2013-07-20 07:53:18 | Weblog
「職場復帰」7月17日
 『育休職員にiPad貸与』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『日本政策金融公庫は、出産・育児休業中の職員に米アップルのタブレット型多機能携帯端末「ipad」の貸与を始めた』のだそうです。その狙いは、『手軽に社内ネットワークに接続して情報を得やすくし、職場復帰に対する不安を解消』することだそうです。
 時代はそこまできたか、という思いとともに、職業の特性ということについても考えさせられました。公立学校の教員は、民間企業に比べて育休がとりやすく、実際の取得率も取得期間も民間以上です。産休と合わせて1年以上というケースも珍しくありません。ですから、育休から職場復帰する際の不安も大きいはずです。
 しかし、iPad貸与のような発想は浮かびません。それは、教員の仕事は、情報を得ることで不安が解消されるようなものではないからです。私は子供がいないので、育休をとったことはありませんでしたが、研修等で2年間、授業を受け持たなかったことがあります。その間も、学校には顔を出していましたし、職場の仲間とは私的な飲み会等で親しく情報交換していました。それでも、2年ぶりに教壇に復帰し、子供たちの前で話すときには非常に緊張しました。
 不安の源は、自分の授業勘が狂っているのではないか、ということでした。私は、教員の仕事は職人芸だと考えています。理屈ではなく、毎日毎日子供と向き合い、授業というぶつかり稽古を通して体で、感覚で授業力を維持し高めていくものなのです。それだけに、ブランクに対する不安は、「情報」では解消も、軽減もされないのです。それこそが、教員という仕事の特性なのです。
 にもかかわらず、育休明けの教員の職場復帰を円滑に進めるための方策という発想は、学校にも教委にも乏しいのが現実です。育休明けの教員の学級が「学級崩壊」に陥ればその影響は他の学級や学年にまで及び、対応に大きな労力と時間を費やすことになります。危機対応の基本である事前防備という面からも、育休明け対策の充実に取り組むべきです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

したくてもできない

2013-07-19 08:26:28 | Weblog
「したくてもできない」7月17日
 『臨床データ操作 元社員関与否定』という見出しの記事が掲載されました。降圧剤の臨床試験疑惑についての記事です。記事の中に『元社員は大学側の聴取に応じておらず、批判が集まっている』という記述がありました。また、販売元のノバルティスファーマ社の『退職した社員に対応を強制できない』という弁明も掲載されていました。
 この記述を読み、教委に勤務し、痴漢や体罰などの不祥事を起こした教員の担当をしていたときのことを思い出してしまいました。例えば、教員が体罰で停職処分を受けたとします。問題はここからなのです。停職期間中の教員に対しては、教委も校長も、何も指導することができません。なぜなら、上司である校長も教委も、教員に命令できるのは勤務時間内に限られているからです。停職中であるということは、勤務についていないということですから、教員は自由に過ごす権利があり、その行動を拘束することはできないのです。映画を見に行こうが、昼間から酒を飲もうが、恋人とデーとしようが、一切制約を課すことはできないのです。もちろん、実際には、新たな批判や誤解を受けることがないよう行動を慎むように「助言」をし、多くの教員は「謹慎中」に相応しい行動をとりますが、制度上は本人の意思に任せるしかないのです。
 そして、教員に対して、体罰の違法性、指導力不足、教育公務員としての自覚、保護者や子供との信頼関係の重要性などについて説諭したり、反省文を書かせたり、関係法規についてレポートさせたり、効果的な授業法を研究させたり、というような「再発防止研修」は、停職期間を終え、勤務に復帰し、給与が支払われるようになってから、勤務時間に行うことになるのです。こうした仕組みを説明すると、「泥棒に追い銭」というような批判をする人がいます。甘やかしすぎ、という人もいます。
 しかし、今回のノ社の「弁明」にもあるように、道徳的にはどうであれ、警察のような捜査機関でもない教委や企業には、「個人の自由時間」に対する強制力はないのです。それでも、上記の例は処分が決定した後のことなのでまだしも救いがありますが、体罰発覚後、教員が体調不良を訴え休暇を申請したりすれば、教委や校長はもっと困った事態に直面します。
 休暇中であるということで、事情聴取すらできなくなるのです。自宅や病院に押しかけても、面会を断られればそれ以上打つ手はありません。その結果、保護者やその意を体した議員から、事実を隠蔽しようとしている、真相究明を先延ばししてほとぼりが冷めるのを待っているというような見当違いの攻撃を受けるのです。
 それなら、休暇を認めなければよいという方がいるかもしれませんが、病気という診断書をもってきたものに休暇を認めないということになれば、重大な権利侵害として厳しい非難がなされます。正に八方ふさがり状態です。
 今回の事件の舞台となった、京都府立医大もノ社も、元社員を庇う気持ちなど無いでしょう。世間からの批判を受けながら庇うメリットは皆無です。むしろ、早く事実を明らかにし組織ぐるみという汚名を返上したいのは、関係者なのです。それなのに、元社員を庇っているという疑いの目で見られる悔しさ、想像するに余りあります。それは、私が味わってきた悔しさでもあります。
 私が、深刻ないじめ問題や体罰問題では、警察の捜査力を活用すべきと主張してきたのは、こうした制度の壁に直面してきたからです。学校や教委に誠意はあっても制度上できないことがあることを理解してほしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それは良いこと?

2013-07-18 07:55:38 | Weblog
「成果なのか?」7月14日
 『不登校の中3、85%が進学』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『2006年度に中学3年で不登校だった生徒のうち、卒業後に高校などに進学したのは85%で、1993年度の前回調査に比べ20ポイント上昇したことが文部科学省の不登校追跡調査で分かった』とのことです。
 さらに記事では、その原因として、『スクールカウンセラーの配置やフリースクールの活用で、不登校生を社会で支える仕組みができた結果』という見解が紹介されていました。この記事からは、進学率の上昇が「良いこと」という考え方が感じ取れます。そうなのでしょうか。
 不登校の生徒が進学したいという希望をもち、それに相応しい学力をもっていた場合、進学率の向上は「良いこと」だと思います。しかし、そうではなく、義務教育である中学校卒業に相応しい学力を身につけないまま、高等学校に進学しているのだとすれば、それは単純に「良いこと」にはならないと思います。 
 進学した高等学校で、「授業が分からない」「授業についていけない」「授業時間が苦痛だ」というような理由で学校生活に適応できなくなり、結局は中途退学という結果に陥ってしまう可能性が高いからです。私の経験からすると、不登校状態が長期化した生徒の場合、学力はかなり低くなってしまっているケースがほとんどでした。中には、どの程度の学力があるのか学校側が把握できていないにもかかわらず、保護者と本人が希望しているので卒業証書を渡しているというケースさえ珍しくはありませんでした。今回の調査ではどうだったのでしょうか。
 こうしたケースが頻発するのは、我が国の義務教育制度が、習得主義ではなく、履修主義だからです。学習内容を理解していようがいまいが、規定の時間教室の椅子に座ってさえいれば、履修したことになり、進級や卒業を認めるというのが履修主義です。私は、我が国の学校教育の充実のためには、履修主義から習得主義への転換が必要だと主張してきました。それこそが真の教育の姿であり、学校教育が国民に対して責任を負うという意味でも正しいと思うのです。橋下大阪市長が唱えた「留年制」についても、そうした意味で賛成してきました。
 しかし、履修も習得もしていない生徒を卒業させ、それを高等学校が受け入れるということを「良いこと」とするのでは、それは学び不要論であり、学校を学歴付与機関として位置付けていることになります。不登校生徒の進学の内実を知らせてほしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道徳的自己規制

2013-07-17 07:25:17 | Weblog
「道徳偏重」7月12日
 専門編集委員の近藤勝重氏が、『心に正直な作文』という標題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、知人の経験談として次のような出来事を紹介しています。『国語の時間に「お手伝い」という題の作文を書かされた。Aさんは風呂に入った後、洗面用具をきちんと片付けて出たところ、次に入ったお父さんが「気持ちよかったよ」と喜んでくれたことを書いた。ただしAさんは、これからずっと風呂場を片づけなければいけないのか、と思い、作文の終わりにこう書き添えた。「風呂場をきれいにするのも、毎日はしんどいと思います」Aさんは正直に書いたわけだが、先生は「こんなにも家族を喜ばせることができるなら、毎日きれいにしようと思います」と書き直した』。
 この経験からAさんは作文が嫌いになった、と続くのですがそのことはここでは触れません。現在では、こんな教員はいないでしょう。子供の作品に勝手に手を加えるという行為は許されないという「常識」が広く認識されているからです。ただ、私は今後こうした行為が復活するのではないか、という恐れを感じています。
 それは、道徳教育強化という昨今の風潮が原因です。私は、道徳教育を否定するものではありません。むしろ、道徳教育には関心をもち、熱心に指導してきたつもりです。また、元々が保守主義者でもあり、道徳教育を修身の復活、国家主義の地均し、と捉えるような感性もありません。
 ただ、いじめ対策として道徳教科が打ち出されているように、道徳に過剰な役割を期待している政治家が増えているようなのが気になるのです。道徳への過剰な期待は、学校教育におけるあらゆる場面に、「道徳」を持ち込んでくる動きとなって表れるのではないかという危惧が捨てきれないのです。
 もちろん、道徳教育は、学校の全教育活動を通して行われることになっていることは百も承知です。しかし、社会科の時間に行われる道徳教育は、あくまでも社会科という教科のねらいを達成した上で、そこに付加されるものなのです。歴史上の人物の行いを「道徳的基準」で評価することはあってはなりません。同じように、国語の時間の作文が、「道徳的基準」で評価されることがあってもいけないのです。つまり、「親孝行」という徳目から見て大変よい、という理由で評価が行われ、子供が、高評価を得たいために、作文をAさんの担任がしたように自ら進んで「本意」ではないことを書くというような「自主規制」を行うようになっては、本来の国語教育は成り立たなくなってしまうのです。
 今の、道徳を過剰に重視する姿勢からはそんなことを考えてしまうのです。もちろんそれは本当の意味で道徳教育ではありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名門校は素人の集まり?

2013-07-16 07:48:26 | Weblog
「本当は素人集団?」7月11日
 『浜松の中学では生徒22人を搬送』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『静岡大付属浜松中で、肯定で持久走をしていた3年生ら22人が熱中症の症状を訴え、病院に搬送された』ということです。150字足らずの小さな記事ですが、この記事を書いた荒木涼子記者は、疑問を感じなかったのでしょうか。
 公立学校の場合、学校の授業は、前年度末に教委に届けた教育課程届に基づいて行われます。学校は教育課程を作成するに当たって、事前に各教科の年間計画を作成します。そこでは、○月の3年生の保健体育では、バスケットボール△時間、水泳◇時間というように授業時間数と、ぱす、ドリブルシュート、3対3の攻防など大まかな内容が記されています。年間計画とそれを踏まえた教育課程届は校長が認め、教委に提出されます。教委では、専門職である指導主事が1校ごとに教育課程届を精査し、副校長や教務主任に疑問点を問い質しながら、修正を指示し、学校側は修正した届を再度提出するということを繰り返した後、正式に受理されることになります。
 こうしたシステム下では、毎年、真夏日が続く7月中旬に「持久走」が行われるというような指導計画が認められることはあり得ません。あくまでも「準備運動」としての持久走だったのかもしれませんが、そうであっても前週末に校長に提出される保健体育を指導する教員の週案簿には、「持久走」が記載されていたはずで、それを副校長と校長が2人とも見逃すはずはないのです。つまり、この酷暑の時機に「持久走」はあり得ないのです。
 今回、この不始末を起こした学校は、国立の付属中学校です。教育課程を届け出る教委はありません。そこに問題点があるのです。しかし、付属小中学校は、先端的な教育実践を試行する役割があり、いわば教育研究の場として、教員の専門性は公立の小中学校の教員よりも高いという「想定」になっています。そこで、先端研究を担う能力の高い専門家集団なのだから、猛暑の季節に持久走などという初歩的ミスを犯すはずがないという発想で、チェックが甘くなっているのです。さらに、付属小中学校の場合、校長は大学の教授が兼任することが多く、学校の実務に疎いというケースも少なくないのです。これも、チェック不全の原因になっているのです。
 今回の記事が語っているのは、猛暑日続きの中、学校でも熱中症、という一見ありふれた出来事ではなく、外部からは有能な専門家集団によって構成されているはずの付属学校が実は素人の集まりでチェック機能も働かない欠陥組織であったのではないか、という問題の示唆だったのかもしれないのです。同様な問題は、教委のチェックを受けない私立学校にもあり得るのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反対の理由が違う

2013-07-15 07:45:28 | Weblog
「理由が違う」7月10日
 『教科書の選定介入 都教委に撤回要求』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、大学教授や市民団体が、『教科書採択は学校現場の意見が最大限尊重されるべきだ』という請願を提出したということです。そして、記事の最後は、『都教委の見解を巡っては、これまでも日本出版労働組合連合会などが抗議文を出している』と結ばれていました。
 この記事を読んだ人は、今回の請願と先の抗議文とが同じ趣旨でなされたと思うのではないでしょうか。しかし、抗議文は、「文部科学省の検定で認められた記述なのに、文部科学省の見解を否定する二重基準だ」という趣旨の批判でした。決して、「教科書採択は学校現場の意見を尊重すべき」という主張ではありませんでした。つまり、都教委の行為に対する2つの批判は、批判であるという共通点はあっても、その理由は異なっているということなのです。その点を誤解させるような記述の仕方には大きな疑問を感じます。とにかく反対する人が多いのだ、都教委は間違っているのだということを印象づけたいという思いがあったのではないかと疑われても仕方ないように思います。
 ところで、今回の請願の中核をなす主張である「教科書採択は学校現場の意見が最大限尊重されるべき」について考えてみたいと思います。学校現場の意見とは、何を指しているのでしょうか。当然校長の判断と決定です。教員の多数意見を意味するものではありません。職員会議を初めとする学校内に設けられている諸会議は、意思決定機関ではないのですから。今回の請願をした教授や市民団体は、教科書採択は校長が決定しろといっていることになります。
 「最大限尊重」とは、どのような意味なのでしょうか。最大限という言葉がついてはいても、「尊重」とは絶対に従うという意味ではないのですから、最終決定権限は学校(校長)にはないということを認めていると考えられます。当たり前でしょう。教委の権限を定めた地教行法23条6では、「教科書その他の教材の取扱に関すること」が掲げられ、その解釈として、「教科書採択の責任の所在は、教育委員会にあると解される」という文部省(当時)の初中局長通達があるのですから。
 つまり、都教委管轄下の高等学校等が使用する教科書については、校長の意見に耳を傾けながら都教委が決める、というやり方を主張していることになります。そうであれば、決定権者である都教委が予め採択しないと決めている教科書を除いて検討するように指示するのは、余計な手間を省くという意味で何ら問題ないことになります。むしろ、親切というべきでしょう。
 実におかしな請願です。法に従えば、都教委は校長の判断には一切左右されずに教科書の採択を行ってよいにもかかわらず、校長の判断を参考にしようという姿勢があるからこそ、多忙な校長に無駄骨を折らせないように事前に方針を伝達したわけで、何ら批判されるべきではないと思ういのですが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーマンたれ?

2013-07-14 08:17:00 | Weblog
「先生も学んで」7月8日
 スクールソーシャルワーカー(SSW)育成の現状と課題を取り上げた特集記事が掲載されました。その中に、「先生も学んで」という小見出しがつけられた部分があり、『学校では、社会福祉の観点から課題解決を図る発想や経験がまだ不足している。不登校やいじめの背景には、貧困や児童虐待といった家庭の問題が潜むケースも少なくない』という指摘がなされていました。
 まったく同感です。これこそが学校の、教員の弱点です。しかし、『学校の先生が社会福祉分野の知識も身につけておく必要がある』とし、『教員志望の学生に対する社会福祉教育の充実』を求めるとなると、ただちに賛成はできません。
 ある組織に、新たな機能を期待するとき、主に3通りの方法があります。その機能を外部委託する、その機能発揮に必要な人材を新規雇用する、組織の構成員に新たな能力習得をさせる、の3つです。
 このうち、SSWの配置は2番目、教員に社会福祉分野の知識と経験をもたせるが3番目になります。前者には新たなコストが必要となるというデメリットがあり、後者の方がコスト的には有利です。それだけに、政府や自治体の財政状況が厳しい中では、今後、中長期的には後者が推進される可能性が高いと思います。しかし、私はSSWの配置には賛成ですが、後者には慎重な立場です。
 以前から繰り返し主張してきたことの一つに、学校ブラックホール論がありました。様々な教育課題を次々に学校現場に持ち込み、学校はブラックホールのようにそれらをほとんど無批判に受け入れ、その結果実際のブラックホールとは異なりパンク状態に陥ってしまっているという指摘です。学校の体質は教員の体質でもあります。教員は「子供のため」と言われれば、ことの是非を考えずに拒否することなく受け入れるという習性をもっています。その結果、自ら多忙化を招き、四苦八苦してしまうのです。
 「総合的な学習の時間」で新しい授業観が必要と言われれば一生懸命に研修に励み、小学校でも英語を、となれば自腹を切って英会話塾に通うのです。授業は教員の本務です。ですから、授業に関する「要望」には応える責務があります。しかし、超人ではない普通の教員が、SSWに準ずる知識と経験を求められたとしたら、多くの教員は潰れてしまいます。本来は、新たに身に付けなければならないものがあればその分何かを捨てればよいのですが、我が国の学校を取り巻く雰囲気は、それを許しません。「子供のため」という美名の下、教員に無限の努力を強いるのです。
 教員は授業をする人、という原則を再確認し、教員が授業力向上に集中できるシステム作りを優先させるべきであり、これ以上の負担を課すことは現実的ではありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「進歩派」はどうした

2013-07-13 08:02:48 | Weblog
「進歩派はどうした」7月8日
 各党の参院選の選挙公約の要約が掲載されました。そこには、民主党の『所得制限のない高校無償化制度を継続』、生活の党の『高校授業料無償化を堅持、私立学校の学費の無償化も目指す』、みんなの党の『教育は市町村、現場の学校に任せることを基本』、日本維新の会の『教育委員会制度の廃止』が目につくだけで、他党の公約には教育問題に関する項目は見あたりませんでした。
 私が気になったのは、保守派に対する「進歩派」の存在感のなさでした。ここでは仮に、社民党、共産党、みどりの風あたりが「進歩派」ということにしますが、そうした「進歩派」からの、教育問題に対する言及がないのです。かつて、日教組対文部科学省の対立が話題になっていたときには、教育問題に対して「進歩派」が積極的に発言していたものでした。教育委員公選制、教育の中央統制と地方分権、教員の業績評定、全国一斉学力テスト、教員の教育権の独立、主任制度、修身復活、国旗国歌、教科書検定及び採択、現代化とゆとり、学力の定義、経済的人材主義への批判など、様々な対立がありました。もちろん、その中には、道徳教育と戦前の修身を意図的に混同したように曲解に曲解を重ねたような不毛の議論もありましたし、業績評価の導入や初任者研修の位置付けなど子供よりも教員の立場を優先させた非教育的議論もありましたが、対立の存在自体が、教育関係者によい意味での緊張をもたらし、教育問題を真剣に考えさせる動機付けとなっていた面もあったように思えるのです。
 ちなみに私は「保守派」です。教委在職中には、日教組や全教の職員団体支部との「交渉」に労力を費やしましたし、不快な思いもしました。教員であったときにも、職場で唯一の「非組」として、無視や嫌がらせを経験してきましたし、国旗国歌の問題では立憲君主国という概念まで持ちだして彼らと激論を戦わせてきました。そんな私ですが、いまだに非常識な発言をして校長を苦しめる教員がいる学校現場はともかく、今、政治における教育論争の中で「進歩派」の存在感のなさには懸念を覚えてしまいます。教育において「進歩派」は死んだのでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綺麗、可愛いは禁句

2013-07-12 08:00:38 | Weblog
「きれい!ならよい?」7月6日
 西宮市の酒井氏による『女性への容姿批判は目に余る』という見出しの投書が掲載されました。その中で酒井氏は、『テレビの中で繰り返される、TPOをわきまえない女性への容姿批判は目に余ります。美しい女性には卑屈なまでにへりくだり、その反動なのか、容姿に興味をひかれない女性には人として最低の礼儀さえわきまえない態度をとります』と述べています。さらに、橋下維新の会共同代表の慰安婦発言と女性蔑視という意味で共通点があるとも指摘し、メディアの猛省を促しています。
 その通りだと思います。ただ、酒井氏ご自身は正しく理解なさっていると思いますが、投稿規定により短い文章なので書き足りない部分があり、それが読者に誤解を与えるのではないかという懸念も覚えました。特に、教員の場合について述べたいと思います。
 誤解の一つは、容姿云々は女性に関する問題であるということです。私が小学校6年生の担任をしていたときのことです。スポーツ万能のNという男の子が、「どうせ俺はIみたいな顔じゃないからな」とつぶやいたことがありました。Iは藤原竜也のような顔をした男の子でスポーツは苦手、いつもNのことを羨ましがっていました。つまり、NはIに、IはNにそれぞれ劣等感をもっていたのです。男の子でも自分の容姿に対する評価を気にしているのです。容姿に言及することの弊害は、男女同じです。
 誤解の二番目は、容姿を評価することの意味についてです。人間は美醜の感覚をもっており、自分に対しても他人に対しても、常に「評価」を下しているものです。それは事実として認めなければなりません。美しくない容姿の子供に「可愛いよ」「きれいだね」と「嘘」をつくことは、その子供を傷つける行為です。子供はその言葉に秘められた「嘘」を感じ取り、その「嘘」を憐れみと捉えるのです。
 それでは、本当に「可愛い」「きれい」な子供には、「可愛いよ」「きれいだね」と伝えてもよいのかといえば、それも間違いです。教員の言動は子供の価値観を創り上げる機能をもっています。容姿という本人の努力では変えることができないものを評価の対象にするということは、努力の素晴らしさを否定するという価値観を刷り込むことになります。
 Aさんはお姉さんだから思いやりがあるんだね、という評価は、「どうせ私は末っ子よ」という反感しかよびません。B君のお父さんはピアニストだから音楽センスがあるね、という評価も「どうせ俺のオヤジは公務員だから俺は音痴なんだよ」という思いを抱かせます。一方、Cさんは毎朝ランニングを続けてきたから陸上競技会で新記録を出せたんだよ、という評価であれば、よしボクも頑張ろうという気持ちになるかもしれません。教員は、努力で変えられないものを評価の対象にしてはいけないのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする