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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

丸投げはダメ

2008-12-11 08:03:13 | Weblog
親が決める(12月8日)
携帯電話の学校持ち込みについて、いくつかの新聞社が社説で取り上げていましたが、その中に、「社説橋下知事の「禁止宣言」を機会に家庭も責任を自覚すべきだ。携帯電話を持たせるなら親が使用ルールを決め、守らせてほしい」という提言がありました。この社説は、この提言がどのような事態をもたらすか分かっているのでしょうか。とんでもないことになってしまうと思います。
 例えば、ある保護者が、「お母さんかお父さんが、あなたのことを心配してメールしたら5分以内に返信をする」という使用ルールを決めたらどうなるでしょうか。授業中や休み時間にメールが入り、子どもはすぐにメールを打ち始めます。教員が注意しても、「うちの決まりなんだよ」と言い返されるでしょう。また、保護者が、「携帯電話でのゲームは1日1時間以内。ただし、家庭では決められたスケジュールを守って勉強すること」という使用ルールを決めれば、子どもは家での勉強時間を確保するために学校でゲームをすることになるでしょう。このケースでも、教員が注意しても、「子どもなりに計画的に使おうとしているのに。誰に迷惑をかけるわけでもないでしょう。なんでいけないのですか。携帯電話については親がルールを決めることになっているのでしょう」と保護者から文句がくるでしょう。杞憂ではありません。塾での勉強に集中できるように学校では休ませてください、と言う保護者が実際にいるのですから。社説を書かれた方は、「親の良識」に対してある程度の信頼感をもっているようですが、残念ながらその現状認識は甘すぎるといわざるを得ません。
 中途半端な取り組みは、保護者のばらばらな主張を助長し、それに対応する学校を苦しめるだけです。多くの例外規定も同様です。この問題では、学校を守る(そのことが子どもを守ることになる)ために、教育委員会が悪者になるべきです。教育委員会が断固たる方針を示し、ルールが守られない場合は携帯電話の一時預かり等の強硬措置をとることを文書で通知し、保護者の苦情やマスコミの取材に対して教育委員会が防波堤となって立ち向かう覚悟を示すべきです。学校丸投げや保護者を信頼するふりをすることだけは避けなくてはなりません。
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高等学校は義務教育ではない

2008-12-10 07:58:50 | Weblog
問題生徒の受け入れ(12月8日)
 「高校入試 問題生徒をどう受け入れる」と題する社説が掲載されました。その中で、具体策として、生徒指導の困難な学校には教員を手厚く配置するなど教委による支援体制の充実、家庭でのしつけや小中学校での道徳教育の充実があげられていました。
これらの対応は大切なことですし、反対するつもりはありません。ただ、前提が間違っているのではないでしょうか。高等学校は義務教育ではありません。教育行政側に、高校進学を希望する全ての生徒に入学を保証しなければならない責務はありません。そもそも高等学校で学ぶだけの意思と資質、能力のない者を受け入れる必要はないのです。要するに、問題のある生徒は入学させず、入学後に問題を起こした生徒は規定に基づいて退学させればよいのです。その際に大切なのは、入学させない規準、退学させる規準を明示しておくことだけです。
 こうした対応は切り捨てであり、教育的でないという人がいることでしょう。しかし、同じ教育機関である大学で、大麻を使用したり、女性を強姦したりした学生が退学させられています。こうした措置について「非教育的」「あくまでも退学させず大学内で更生させるべきだ」という声を聞いたことがありません。高等学校と大学は違うという人がいるかもしれませんが、どこが違うというのでしょうか。どちらも義務教育ではありませんし、大学1,2年生は高校生と同じ未成年です。高等学校は事実上全入化し準義務教育化しているというかもしれません。しかし、小中学校にはない停学処分や退学処分が認められているということは、義務教育とは明確に一線を画しているということの証明です。
 また、停学や退学は生徒を切り捨てる非教育的行為ではなく、校内で学ぶ多くの生徒、真面目に学習をし、将来への地道な積み重ねを考えている大多数の生徒の学習権を保証する行為であるということもきちんとおさえておく必要があります。
 むしろ、どんな問題行動を繰り返しても、停学も退学もできない小中学校にこそ、手厚い教員の配置などの措置が必要なのです。そして教育委員会など教育行政側は、高等学校において生徒数が減っても、廃校や統合、生徒減を上回る職員減や予算減などの「懲罰的措置」を控えることこそ、高等学校支援になるはずです。
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教育市場原理

2008-12-09 07:37:14 | Weblog
魅力的な教科書作り(12月7日)
 教科書検定改革という標題の社説に「公開度を高めることが、開きたくなる魅力的な教科書づくりのためになるはずだ」と書かれていました。どうしてこんな結論にたどり着くのでしょうか。教科用図書検定調査審議会の議事録をすべて公開すると、どうして魅力的な教科書ができるのでしょうか。論理の飛躍の見本のような話です。
 教科書検定の経過を公開することには反対ではありません。国家権力によって、恣意的に真実が曲げられるようなことを防ぐ意味では効果があるはずですから。そもそも、公教育は国民の税金で営まれる公的な事業ですから、個人のプライバシー等に悪影響を与えない限り、情報公開をしていくことは当然でしょう。しかし、そのことが検定自体の質を高めるかどうかということは別の問題です。文部科学省が言うところの「静かな環境で自由闊達に議論してもらう」には反することになるわけですから。まして、子どもが開きたくなるような魅力的な教科書づくりとなれば、まったく無関係です。魅力的な教科書の定義は難しいですが、もしそうしたものをつくることができるとすれば、その教科の授業に通じた教員が構想し、個々の事実や最新の学問成果に通じた基礎学問の専門家が厳しくチェックする合同作業の中でこそ可能になるはずです。仮に、わが国の平安時代の研究の第一人者が書けば小学校の6年生が興味関心をもち、学習意欲を継続させて取り組めるような教科書ができるでしょうか。できるわけがありません。また、教員だけでつくったのでは、新たな学問的成果を十分には取り込めない旧態依然たるないようのものになりかねません。間違いも増えるでしょう。授業と学問、2つの分野の専門家の協力が必要なのです。
 近年、裁判員制度、学校評議員制など、従来プロが行ってきた分野に素人が関わる動きが強まっています。そうした動きは主権在民の民主主義社会において意味のあることです。しかし、それはあくまでも、ひとつの政治思想としてであり、個々の分野において内容的な充実をもたらすと約束するものではないのです。
 多くの普通の人によって構成された市場が最良の選択をするという発想のもとに進められた市場原理主義が暴走し、現在の金融危機を招きました。同じように、多くの国民が監視していれば魅力的な教科書になるなどという考えは間違っているのです。
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素人が何を言う

2008-12-08 07:55:43 | Weblog
教育理念なし(12月7日)
 鴻池官房副長官が、「日教組が悪い、という中山さんは正しい。文部科学省、あんな役所いらんと思うくらい、ろくなやつがおらん」「学校があるのに『今日、日教組の会合だ』と言っていなくなる。まして『君が代を歌っちゃいかん』(と主張している)」「教育とは未熟な子どもを立派な大人にすること。ひとさまに迷惑をかけないこと。そういう教育の基本理念が教師にも、教育委員会にも、文科省にもない」と述べたそうです。
自民党国会議員の日教組批判には驚きませんが、文部科学省や教育委員会も批判するということは、戦後大部分の期間文部行政を担ってきた自民党自身に対する批判ということになります。また、「未熟な子どもを立派な大人にする」を教育理念と言って憚らない雑な神経にも驚きます。
自民党国会議員、特に文教族と呼ばれる人たちからこうした類の発言が続くのはなぜでしょうか。もちろん、個人的な資質ということも背景にはあるでしょうが、それだけでは説明がつきません。
 私は、自民党文教族に教員出身者がほとんどいないというところに原因があると思います。わが国では、民主党や社民党、共産党の教育関係議員が日教組や全教など職員団体の出身者で占められており、自民党は党内保守派が文教族となって対抗するという図式になっています。例えば、小中高の校長会から国会議員(地方議会議員も)になるというような道は全く閉ざされています。会員が少なくて、当選はできませんから。ですから、教育現場を知っていてなおかつ穏健な考え方をしている者が国会にいないのです。文部科学省の官僚出身者はいますが、彼らは学校現場を知りません。考えてみればおかしな話です。多くの団体が自分たちの職種の代表を国会に送り込んでいます。教員だけが、職員団体という一部の代表者しか国会に送り込んでいないのです。校長や地方教育行政の経験者を数人与党議員の中に送り込むことが教育改革の初めかもしれません。
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首相直属の意味なし

2008-12-07 08:07:33 | Weblog
教育再生懇談会(12月5日)
 麻生首相は、政府の教育再生懇談会を存続させることを決めたようです。官邸側が麻生政権は教育軽視であると思われるのを避ける、文部科学省側が予算獲得に活用する思惑がある、などいろいろな背景があるようですが、政治の世界はそんなものでしょう。特に意見もありません。
 ただ、首相が、懇談会の新テーマについて、教育委員会の改革や教育の経済負担のあり方、スポーツ庁設置などを挙げていることには落胆しました。安倍首相は、「総掛かり」で教育改革を進めるという意気込みを示して、懇談会の前身である教育再生会議を立ち上げました。私は、首相直属の機関であるということに期待をしたものでした。それまで、わが国の教育政策というものは、学校教育をどうするかというものでしかありませんでした。家庭教育・社会教育・学校教育という三者がそれぞれの特質と機能を十分に発揮して相互に補い合ってこそ、一国の教育が成果を上げることができるのです。しかし、数ある中央官庁の中で、旧文部省、現文部科学省は常に三流官庁であり、他の省庁に働きかけてこれを動かすということはできませんでした。その結果、わが国の教育政策は、有権者である国民に対して厳しい提言をすることもできず、経済産業構造の変革を含む家庭の在り方を抜本的に変えていく骨太の対策をとることもできないまま、小手先の学校制度いじりに終始してきたのです。戦後一貫して、家庭の教育力の低下が問題とされてきたにもかかわらず、です。
 しかし、教育再生会議は、従来の学校教育を否定するだけで、家庭の責任への踏み込みは甘いまま空中分解してしまいました。安倍政権の後を継いだ福田政権は、教育への情熱はありませんでした。だからこそ麻生首相が、一度は廃止を決定していた懇談会を継続させるという話を聞いたとき、家庭教育再生への大胆な提言に取り組みのではないかと一縷の望みを抱いていたのですが、結果は前述の通りです。
 不況の今こそ、ワークシェアリングを推進して個々の労働者の勤務時間を減らし、保護者を職場から家庭に戻し、家族がともに過ごす時間を増やしていくという方向への転換が図られるべきです。公教育への思い切った投資を行い、塾や家庭教師といった教育費の軽減を図るべきなのです。残念です。

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橋下発言の意味

2008-12-06 08:29:08 | Weblog
携帯電話禁止騒動(12月5日)
 橋下大阪府知事の「小中学校には携帯の持ち込み禁止、高等学校では使用禁止」発言の波紋が広がっています。この問題について、官房長官、総務相、石原都知事、東国原宮崎県知事などがそれぞれ持論を述べています。おかしいですね。政治家もマスコミも。この国の伝統である縦割り行政はどうなった、と皮肉りたくなってしまいます。
 学校教育にかんする所管は文部科学省であり、地方においては教育委員会です。そうであるにもかかわらず、今回の問題が知事の発言を発端に、官房長官、総務相と拡がっていくのは、従来のわが国ではあり得ないことだったのです。このことをおかしいと思わないということは、教育の権限を文部科学省と教育委員会から奪うことと同義なのです。大阪府教育委員会、具体的には教育委員長なり教育長から、文句の一言も出ないこと、その自負のなさが悲しいです。文部科学相が、「所管の問題について他の大臣に先に話を聞くのは納得がいかない」と苦言を呈することもないのはどういうわけなのでしょうか。
 もちろん、それも一つの考え方です。安倍政権が教育再生会議を官邸直属で設置した背景には、「教育問題は一官庁に過ぎない文部科学省にまかせてはおけない。教育は国家百年の大計であり、総掛かりで取り組むべきものだ」という発想があったことは間違いがありません。そうした共通意識の下、今回のような形で論議が拡がっていくのであれば、それも一つの形です。でも、そこまでの認識があるとは思えません。
 橋下発言はその内容よりも、今後の教育行政の在り方について大きな問題を投げかけているのです。
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詰め込むだけではダメ

2008-12-05 08:19:53 | Weblog
出羽守(12月4日)
 私も尊敬する著名な教育実践家が、コラムの中で「世界の主な国々の中で、小学校に英語の授業がないのは日本ぐらいだ」と書かれています。そのとおりなのでしょう。以下、上海で小学校を見学したときの驚き、日中韓の高校生が出会ったとき、韓国、中国の高校生は英語で仲良くなっているのに日本の高校生は仲間に入れなかったことなどをあげ、英語教育の必要性を述べていらっしゃいました。やる以上、スキル学習に取り組むべきだという主張にも同感です。
しかし、根本となる英語導入の是非についての論理展開はやや緻密さに欠けると思います。「出羽守」と呼ばれる人たちがいます。アメリカでは、イギリスでは、と他国の例を引き合いに出しわが国の遅れを指摘して得意になっている人たちのことです。単に多くの国の小学校で英語教育が行われていることだけをあげて、わが国でも英語教育を導入すべきというのでは、「出羽守」と同じになってしまいます。
学校教育は、各国の共通性と同時に独自性をもって行われています。わが国の小学校では、生活指導や特別活動、道徳など他国では行われていないか、軽視されている教育活動が取り入れられています。私もヨーロッパに教育視察に行ったことがありますが、わが国のような給食指導も清掃指導も行われていない国(or州)がほとんどでした。外国を規準にわが国の教育を見直すのであれば、取り入れることと同時に削り取っていくものも考えなければなりません。そうでなければ、学校はそのキャパシティ以上のものを背負い込み、消化不良を起こしてしまいます。
学校での授業時間も、教師の能力も無限ではありません。適切な取捨選択があってこそ有効に機能するのです。小学校への英語教育の導入は、その分何を軽減していくかという議論抜きには成り立たないと思います。もちろん、器自体を広げる学校週5日制を廃止して6日制に戻すということも選択肢の一つです。
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指導力不足、努力不足の隠れ蓑

2008-12-04 07:59:54 | Weblog
ゼロトレランス(12月3日)
 「ゼロトレランス」とは、生徒指導で明確なルールを学校が示し、違反した生徒に罰則を科すことで規律を高めることができるという指導理念のことです。この考え方を取り入れて成果を上げている学校の事例が紹介されていました。
記事の中では、「規則ではなく信頼関係で指導せよ、生徒と同じ目線に立てという教育論は、実際の教育現場では教師から指導の自由を奪い、士気の低下も招いた」と実践者の教育行政に対する批判を載せていますが、実は現在でもこの「信頼論」は根強く残っています。特に、義務教育である小中学校では、ゼロトレランスの理念を導入することは非常に困難です。なぜならば、退学も停学も留年も実際にはない状態だからです。つまり、違反した児童・生徒に科す罰則がないのです。
そこで、生徒指導の経験が豊富な教員ほど心の中では「ゼロトレランス」の有効性を感じながらも、建前としての「信頼論」を掲げざるを得ないのです。もちろん、「信頼論」にもよい点はあります。この問題の専門家である国立教育政策研究所の藤平敦総括研究官も、「生徒の話を聞くことと(信頼論)、毅然とした指導(ゼロトレランス)とのバランスが必要」と述べています。ただ、問題なのは、今でも多くの小中学校では、このバランスが大きく「信頼論」に傾いていることなのです。
そして、「信頼論」に立つ以上、教員は子どもや保護者の信頼を得るために血の出るような努力が必要であるにもかかわらず、その努力を十分に尽くさないまま、「子どもに寄り添う」の美名の下に「甘い指導」「迎合する指導」を行ってきた教員が少なくないのです。「信頼論」は、そうした教員が努力不足、指導力不足を隠す隠れ蓑になっていることこそ、最大の問題なのです。
 なお、誤解のないように書いておきますが、「ゼロトレランス」による指導は、力で押さえ込むので指導力がいらないと主張し教員の専門性を否定するものだと言う人がいますがそうではありません。やはり指導力がなければ「ゼロトレランス」もうまくいかないのです。小中学校での「ゼロトレランス」導入が待たれます。
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教育的配慮は甘やかすことではない

2008-12-03 08:20:59 | Weblog
弁償させよ(12月2日)
 東京都の東久留米市内の市立小中学校のプールで今夏、水を止め忘れたり、栓を閉める確認を怠ったりして、水を無駄遣いしたケースが4件あり、114万円余りの損害を出していたことを教育委員会が明らかにしました。市では、校長や副校長、担当した教諭計12人に損害額の一部約30万円を償わせることにしましたが、残りは公費で賄うことにしています。昨日も書いたことですが、こうしたミスは公務員としてあってはならないことです。私は全額関係した教職員に弁償させるべきだと思います。
 ところで、こうした学校プールの水道代については、どこの自治体も悩んでいるのが実状です。私の経験でも、中学生がふざけてトイレットペーパーをロールごと投げ入れてしまったり、ガラス瓶を投げ入れたりしてしまい、結局、プールの水を全部入れ替えなければならなくなったことがあります。生徒は軽い気持ちでやっているのですが、一度プールの水を入れ替えると、水道代は25~30万円もかかるのです。すべて税金です。こうしたいたずらが、年間数件発生するとすぐに100万円以上のカネが出て行ってしまいます。 トイレットペーパーをロールごと投げ込んだ件では、目撃していた生徒がたくさんおり、「犯人」が特定され本人も認めていましたが、一切弁償はなされず、全額公費で水道代を負担しました。私は、今後類似の行為を根絶するためにも厳しい処置が必要だと考えましたが、「こんなに大事になるとは思っていなかったのだから」という「教育的配慮」で保護者には請求しないことになったのでした。今でも誤りだったと思っています。
 学校ではいろいろなものが壊れます。試験管やビーカーのような消耗品はもちろん、窓ガラスや校庭の樹木や机椅子まで、毎日のように何かが壊れていきます。元気で好奇心のある子どもが暮らす場なのですから当然です。子どもが善意で行動した結果や無知のために壊れることは成長への代価として社会が認めていくべきものです。しかし、悪意や社会を舐めた行為については、厳しく責任を追及していくのも教育の責務だと思います。中学生にもなれば、トイレットペーパーが溶けてドロドロになったり、底にガラスの欠片が落ちていていつ足を切るか分からない状態でプールが使えないことは分かっていたはずです。教育的配慮は甘やかすことではありません。
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0にはできない

2008-12-02 06:38:02 | Weblog
毎年出る死人(12月1日)
 京都府の小学校で、男児が体育館で同級生6人と鬼ごっこをし、教室に戻った後も鬼ごっこを続け、同級生を捕まえ損なって転倒。スチール机の脚の部分に後頭部を強打し死亡するという事故がありました。当時、担任は職員朝礼のため教室にはいなかったということです。 
どこの学校でも起こりうる事件です。私自身も、6年生を担任していたとき、男児が始業前に遊んでいて雲梯から落下し後頭部を強打。運び込まれた大学病院で「諦めてください」と言われた経験があります。幸いにして、その男児は回復し後遺症も残りませんでしたが、手術室から出てくるまで、生きた心地がしなかったものです。私も職員室にいて事故の起きた校庭にはいませんでした。それ以外にも、女児がふざけて3階の窓からぶら下がって落ちそうになっていたのを級友らが引っ張り上げてくれて事なきを得た経験があります。
 学校は大切な子どもを預かっているのですから、その生命の安全確保こそが最大の義務であることは間違いありません。だからといって、全国で数万ある学校で年間に一人も事故死者を出さないで済むということもあり得ません。事故が起きたとき、関係の教員も心に傷を負っています。もちろん、重大な過失がある場合、厳しく責任を追及し処分することは、事故の再発を防ぎ、本人や家族の心情を安らかにするためにも必要なことです。しかし、通常の職務責任を果たしている場合、過剰に責任を追及し責めるのは望ましいことではありません。
 どんなに事前に注意し指導していても、事故は起こります。施設や設備を点検していても、人知を超えたところで事故は起こります。それは、どんなに優れた教員であっても同じです。
 私自身、特に優れた教員であったわけではありませんが、普通のレベルの教員ではあったと思います。しかし、もし、後頭部を強打した男児が死亡していたら、教員を続けていくことができたかどうか、確信はありません。今回のケースに詳細は分かりませんが、教員に重大なミスは感じられません。亡くなった子どものご冥福をお祈りするとともに、担任が過剰に責められることがないことを祈りたいと思います。
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