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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

体罰肯定論

2008-12-21 08:10:11 | Weblog
体罰肯定論(12月18日)
 福岡市教委の教育次長が、市議会で「良いというわけではないが、学校現場ではいろいろなケースがあり、やむを得ない場合もある」と、体罰を容認するかのような発言をしました。多くの人の本音に同じような思いがあると思われます。私自身、似たような経験があるからです。
 教委に勤務していたとき、この教育次長と同じような立場にあった上司から、「どこまでが体罰になるんだ?体罰とそうでない場合の線引きの規準はあるんだろ」と訊かれたことがありました。私は、「有形力の行使があり、子どもや保護者が体罰を受けたと受け取れば体罰です。1分間ならば立たせてもよいとか、何ももたせず立たせるのであればよいとか、教室の中であれば立たせてもよい、というような考え方はとりません」と答えたところ、「それじゃなにもできないじゃないか」と不審な顔をされたものでした。
 この教育次長や私の上司のような、現実には体罰がなければ指導できないこともあるという考え方をする人は、教育委員会の中でも、教員経験者ではない一般行政出身の人の中に多かったように思います。
 また、保護者の中にも、愛の鞭論者や教員と子どもたちとの間に信頼関係があれば体罰にはならない、という考えの人が多くいました。さらに、体罰をする教員は、体罰が禁止されていることを知っており、処分覚悟で体当たりで子どもに臨んでいる情熱のある教員であるという見方をする保護者もいました。
私自身、小中学生のときに体罰を受けた経験がありますし、友人がかなりひどい体罰を受けたのも目撃しています。ただし、その結果、その教員が嫌いになったり、学校に行くのが嫌になったりしたことはありませんでした。校長先生にモップで殴られた中学校には一日も休まずに通いました。私は、体罰など気にしない子どもだったのです。でも、それはあくまでも私という一個人の感じ方です。当時の私にそこまでの洞察力はありませんでしたが、おそらく殴られる級友を見て恐怖心を覚えた友人もいたはずです。
 「私は今でもあのときに殴ってくれた先生に感謝している」というような個人的感慨で、体罰を語ることは、「いじめはいじめられる子が強くならなければなくならない」という主張と同じように、教育現場において、「弱い子」の居場所をなくすことなのです。許されることではありません。
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過ちを改める勇気

2008-12-20 08:21:14 | Weblog
過ちを認める勇気(12月19日)
 2学期制を採用していた大阪府四條畷市が、平成21年度から3学期制に戻すことを決定したようです。理由としては、・定期試験までの期間が長く、かえって子どもちが勉強しない、・1学期の期末試験や通知票がなくなったので不安に思う児童生徒が増えた、・他の学校と学期制が異なるので試験期間中にクラブの公式試合が行われることもある、などが挙げられているようです。
 状況は地域によって異なるでしょうし、2学期制が成功している地域もあるのでしょう。ですから、他の地域も2学期制をやめるべきだというつもりは全くありません。ただ、成果が上がるはずだという見通しをもって導入した新制度が、思うような成果が見込めないと明らかになったときに方向転換をする勇気は見習うべきだと思います。
 実は、2学期制は、5~6年前、教育委員会にとっては魅力ある「改革」だったのです。当時は、各教育委員会が「改革」競争を始めていた時期でした。小学校の英語、小中または中高一貫校、学校選択制などなど。そうした「改革」を行わない教育委員会は、現状を認識する力も危機意識も、改革への意欲も能力もないと見なされ、議会などで突き上げられたものでした。多くの「改革」案の中で、2学期制は予算不要の安上がりな「改革」でした。それでいて、授業時間増→学力向上という説明が出来、2学期制を導入すれば、財政当局から文句を言われることもなく、改革姿勢を示すことが出来るという一石二鳥の施策だったのです。もちろん、四條畷市がそうであったというわけではありません。ただ、当時は、慎重に検討するよりもとにかく何か「改革」をしなければならないという雰囲気だったということを知ってほしいのです。十分な検討をしていないのですから、失敗する「改革」があるのは当然のことです。そして、教育行政の担当者は、おかしな体面にこだわることなく失敗を素直に認め、軌道修正をすればよいのです。最近は、学校選択制を見直す動きが相次いでいますが、他の「改革」についても、率直な反省と軌道修正が行われることを期待したいと思います。
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わいせつ教員も優しく穏和

2008-12-19 08:15:56 | Weblog
確証バイアス(12月16日)
 教育に関するコラムではないのですが、考えさせられました。筆者は、人は思い込みに弱く無意識に決めつけに見合う情報を選び「思った通り、やっぱり」と頷いているのではないか、と問いかけています。具体例として、圧政の独裁者が街頭で子どもたちの姿を目を細めて見ている写真が公開されると、「ソフトイメージの演出だ。あんな奴が心から子どもに目を細めるはずはない」というとらえ方をする、ということを挙げています。そして、本当に恐ろしいのは、そんな子ども好きの普通の人間が権力を握るや暴虐を尽くすということであるとしています。そういえば、ヒットラーも近しい人間には優しい人物であったといわれています。
 しかし多くの人は、悪魔のような奴は骨の髄まで自分とは別種の極悪人と思うことで、初めて安心を感じるものだとしています。私も教委に勤務していた頃、あるマスコミ関係者から「わいせつ行為をする教員というのは、やはり見るからに嫌らしい、変質者のような目つきをしているものなのですか」と聞かれたことがあります。こうした意識をもっているマスコミの人は、不祥事を起こした教員について校長や教委幹部が「普段は真面目で、子どもにも優しい教員だった」と言うと、「そんなはずはない。身近なところにいて気付かないはずがない」と責め立てます。しかし、実態は、このコラムの筆者が言うように「普通のまじめで温厚な教員が思いがけないことをしてしまう」ものなのです。教員の不祥事は許されることではありませんが、事件が起きるまで校長や副校長が気付かないということはあり得ることなのだということを理解してほしいものです。
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意味のない議論

2008-12-18 07:58:54 | Weblog
学力テスト成績公開(12月16日)
 文部科学省が、都道府県が市町村や学校名を明らかにした成績公表をしないとした実施要領を来年度も維持した上で、実施要領に基づく情報管理の徹底を関係者に求める方針を明らかにしました。
この方針に対して、大阪府の橋下知事は「馬鹿ですね。最悪。日本の教育のため、文科省の官僚は直ちに全員入れ替わった方がいい」と厳しく批判しました。成績公開論主張し続けている橋下知事ですが、大阪府民の男性はその橋下知事を相手に、一部非公開とした知事の決定に不服をもち、処分取り消しを求め大阪地裁に提訴をしています。何だか笑い話のようです。いったいいつまでこんな意味のない論争を続けるのでしょうか。
 私は公開に反対です。でも、反対論を主張するつもりはありません。早い遅いのちがいこそあれ、将来的に、公開されるに決まっているからです。文部科学省は法律を作ることは出来ません。要領は、自治体の条例に優先するものではありません。どこの自治体にも公開を求める人はいます。そうした人たちが、行政情報(学力テストの成績もこの一つ)の公開を求めて、情報公開審議会等に公開申請をします。全国に数百ある自治体の中で、この申請を認めるところは必ずあります。そうした審議会に委員は、余程の支障がない限り情報公開を認めようとする人たちで構成されているのが一般的だからです。私自身、教委に在職中には、こうした委員会に出席し、様々な質問を受けましたが、公開への熱意を感じたものです。そして、一つの自治体で申請が認められれば、「他の自治体でも認めているのだから」という理由で公開に拍車がかかることは確実です。そして、あっという間にほとんどの自治体で公表されるようになるのです。これは、教育論ではありません。主権在民の民主国家における国民の権利という問題であり、いくら議論しても意味はありません。
 こんな不毛な議論に費やすエネルギーがあれば、その分少しでも他の教育政策実現のために力を注いでほしいものです。
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二兎を追う者は一兔をも得ず

2008-12-17 07:53:19 | Weblog
二兎を追う者は一兔をも得ず(12月16日)
 文部科学省が全国学力テストの分析結果を発表しました。それによると、低学力層を減らす取り組みとして有効なのは、補充的学習と書く習慣と読む習慣をを身に付けさせる授業とのことです。一方で、高学力層を増やす取り組みは、学校公開日を増やす、職場体験や見学とのことです。
 要するに、低学力層には、時間をかけ繰り返し指導し、最も基本となる読み書きの機会を多く設けることが必要だということです。つまり、教室の中で行う座学が大切で、体験学習よりも教科書を読ませノートに書かせる工夫が重要だということです。
 私も学級担任をしていたとき、視写や聴写、速書きなどの活動を取り入れ、とにかくたくさんの文字を書かせ、書くことへの抵抗感を減らす取り組みをしていたものです。ゲーム感もあり、児童は喜んで取り組んでいました。こうした努力をしないで、体験学習を取り入れても、学力は身に付きません。
以前、「『楽しい』を増やそう」でも書いたことが、文部科学省の分析と一致する結果になったということです。一方で、いわゆる「出来る子」には、既に身に付けている能力を発揮して創造的に学ぶ場を準備することが必要だということです。今、学力向上という掛け声で公立学校に求められているのは、この2つの試みを両立させることですが、それが容易ではないということは、この分析からも明らかです。ある程度の指導力を備えた教員のみがこの難事を成功させることができますが、全ての教員にそれを求めるのは難しいでしょう。
 そこで、有力な解決策が習熟度別指導ということになります。文部科学省の分析は、習熟度別指導が児童生徒の自尊感情に悪影響を与えないという結論を導き出してもいます。おそらく、今後は習熟度別指導を取り入れ学力向上を図るという取り組みが各校で行われるようになってくると思われます。しかし、それは、学級集団の解体を意味します。その影響は、特に小学校教育を根本から変質させるでしょう。学級の一体感、仲間意識を育むことが出来なくなってしまうでしょう。それは、今、学校が受け持っている社会性の育成機能が麻痺することです。学校を学力向上の場と割り切るか、社会性育成を主と考えるか。二兎を追う者は一兔をも得ず、です。学校の役割を根本から考え議論することが必要です。
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マニュアル作りだけでは

2008-12-16 08:21:16 | Weblog
マニュアル作成(12月15日)
 文部科学省の有識者会議が教師向け自殺防止マニュアルを作成し、配布予定です。いじめ問題のときも、マニュアルが作られました。こうしたマニュアルは文部科学省だけでなく、各教委でもよく作られます。こうしたマニュアル作りは、行政の責任逃れにはもってこいだからです。
 「何もしていない」「問題の重要性を認識していない」などとマスコミや議会に責められ、対策をとらざるを得なくなったとき、少ない予算で目に見える形で示せるのがマニュアル作りなのです。私も教委に勤務しているとき、いじめ対応マニュアル作成の担当をしたことがあります。各校の生活指導主任クラスの教員を委員として委嘱しましたが、職務の一環ということで報償費はなし。原案はほぼできていて形だけ衆知を集めた体裁をとり、1ヶ月足らずで仕上げました。ただし、内容は平均点以上だったと思います。こうしたマニュアルに盛り込まれる内容は、その道の専門家の間では、「常識」となっていることばかりです。実際には、学会の報告書や紀要などで既に発表されている内容を、まとめるだけでそれなりのものができるのです。
しかもこの種のマニュアルは、数年すると捨てられてしまうものです。私が担当したマニュアルも、全教員に配布し、廃棄禁止としていたにもかかわらず、3年後には、手元にないという教員が多かったものです。自殺にしろ、いじめにしろ、一時は盛んにとりあげられるのですが、流行のように、1,2年経つと教育界の関心事は別の問題に移っていってしまうのです。
さらに、一度こうしたマニュアルができてしまうと、マニュアルにないことについては、「注意していたがマニュアルに該当する自殺の兆候はなかった」という責任逃れに使われてしまうことにもなりかねません。逆に、保護者から「級友の話では、うちの子はそれまで興味のあったギターの話をしなくなったそうだ。なぜ、担任はそのことに気付かなかったのか」と教員の責任追及に使われたりもします。
 マニュアルを作る側からすると、精神医学の分野などで主張されていることを掲載しないと、「最新の情報がふれられていない」と批判されることになるので、理想論としてはその通りだが多忙な教育現場でそこまでは望めないという内容まで盛り込むことになります。そのためこうしたことが起こるのです。そして教員は「無理なことを俺たちの押しつけやがって」と反発を強めていくのです。
 今回の文部科学省有識者会議が作るマニュアルがどのようなものかは分かりませんが、これまで述べたような落とし穴に落ち込まないように願いたいものです。
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問題なし

2008-12-15 08:00:06 | Weblog
推薦リスト(12月12日)
 大分県佐伯市で、市の校長会と教職員団体支部が、管理職昇任選考において推薦リストを作成し市教委に提出していたことが明らかになったという記事が掲載されました。現在はやめているということですが、一連の不祥事の背景としてこのリストの作成及び提出があげられています。どうしてなのでしょうか。このリストが合否に影響していないというのであれば、特に問題視する必要はありません。単なる意見表明であり、預かって廃棄すれがよいだけのことです。仮にこのリストの順位が合否に影響があるとしたならば、「賄賂」は、このリストの作成者に贈られていたはずです。校長会の幹部と教職員団体の幹部です。でも、そんな事実はないのです。
 実はこうしたことは多くの都道府県で行われていたのです。東京都でも、かつては教頭試験を受ける人物について、校内の職員団体に加盟している教員が適否を○×で記入し、それを集計したものを支部に提出していました。また、校長会が試験対策の勉強会を開いて模擬試験を行い、順位をつけていました。そして教委に提出していたのです。さらに、学閥もありました。小学校では、学芸大学と一水会。中学校では、学芸大学と清和会。それぞれが推薦順位を教委に提出していたのです。今では、ほとんどの区市でこんなことも
行われなくなっています。理由は簡単です。「推薦リスト」が何の効力もなかったからです。
 一次の論文の審査で面接に進むことができる教員がふるいにかけられるのですが、その際、審査員は誰の論文か分からないように名前のない論文を見て審査するのですから、情実が入り込む余地はないのです。実際、日頃教頭として優れた実績をあげていると思われ、市教委が一番期待していた人物が論文の出来が悪くて落とされ、お荷物教頭が一次選考に通ったこともありました。現在では、論文と併せて選択肢で正解を問う試験も行われ、まったく情実が入り込む余地はありません。ですから、「賄賂」は意味がないのです。正直なところ、日ごろの業績がもっと反映される仕組みが必要ではないかと思うくらいでした。
 要するに、推薦リストが問題なのではなく、選考過程に情実が入り込む余地があったことが問題なのです。私は、推薦リストがあってもよいと思っています。職員団体、校長会、副校長会、指導主事の場合は教科等の研究団体など多くの団体からの推薦リストを受け取り、補助資料とすればよいと思います。一次選考はペーパーテスト、二次選考は面接。ここまでは、氏名も所属も明らかにせず、客観的に行い、昇任数の1.2倍くらいまで絞り込み、その後補助資料を参考に、教委が責任をもって最終合格者を決めるようにすればよいのです。選考は多面的で豊富な資料に基づいて行った方がよいに決まっています。
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橋渡しだけじゃダメ

2008-12-14 07:18:21 | Weblog
メール相談(12月13日)
 東京都の町田市教委が、理不尽な要求をする保護者や地域住民とのトラブルを抱える小中学校の校長が、弁護士に電子メールで相談できる制度を1月から始めることを決めました。法的な根拠を確認し、学校側が自信をもって対応できるようにする目的で導入され、具体的な相談内容を市教委総務課経由で、委託した弁護士にメールで送ると、1週間以内にメールで回答が届くというシステムのようです。
 ある程度の力にはなるでしょう。しかし、2つの問題点があります。まず、1週間後に回答が届くというのでは遅すぎます。最近の保護者や市民は、そんなに待ってはくれません。「今日の午後5時までに文書で回答するように求める」というような要求の仕方をするものがほとんどです。回答期限を延ばすように言うと、「誠意がない」「今日中に回答できない理由を文書で回答せよ」「やましいところはあるから回答できないのだ」「回答をいただけないのであればマスコミに知らせる」などとたたみかけてくるのです。ですから、少なくとも数時間以内で回答が届くようにしないと使えないシステムとなってしまうことが懸念されます。
 さらに、法的な回答イコール相手に対する回答ではないということへの配慮が足りないことが問題です。例えば遺産相続の場合、相続割合は法律で決まっていますが、実際には長男だとか、同居しているとか、家業を継いでいるとか様々な要素が絡んできます。親子兄弟間の人間関係や性格も影響するでしょう。また、当人が絶対に自分の分を確保しようと考えているのか譲ってもよいと考えているのかも大きな要素です。つまり、裁判に持ち込むか、妥協するかという判断は、法律上勝てるか負けるかだけでは決められないのです。
 メール相談して、「最終的には裁判となっても勝てる可能性が高い」という回答を得ても、校長としては、世間の目を意識し、教育委員会の思惑を忖度し、強い態度をとりきれないことが多いものです。ですから、教委側の強力なサポートが必要になるのです。この制度が、教委は単なる橋渡し役にとどまろうとするものであれば、校長の負担は軽くなりません。
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部活廃止

2008-12-13 08:03:25 | Weblog
休部や廃部(12月10日)
 都教委の調査で、都内公立中学校において、毎年200以上の部活動が休部や廃部になっていることが明らかになりました。その多くが、顧問の教諭の異動など学校側の事情が理由であることも明らかになりました。都教委は「非常に深刻な事態」と憂慮しているとのことですが、憂慮する必要はありません。中学校の部活動を全廃すれば済むことです。
このニュースについて、ある番組のコメンテーターが、「今後は部活のことも考えて教員の異動を考えるようにしなければいけない」と話していましたが、全く噴飯ものです。
私も教員の人事異動を担当していたことがありますが、当然、部活の指導についてもできるだけ考慮するようにしていました。しかし、実際にはとてもではないが、そこまで配慮して異動を完了することは出来ませんでした。小学校教員の異動はまだしも裁量余地があるのですが、中学校では、教科担任制をとっており、まずは教科別に異動を考えます。
 例えば、A中学校で野球部の顧問が異動してしまい後任者が校内にいないケースで考えてみます。この顧問が理科担当であれば、A中学校には理科転倒の教員を異動させることになります。ところが、新しくくる理科担当の教員はテニスの経験者で野球経験はありません。一方、B中学校では数学担当が異動し、新しく入ってくる数学担当教員は野球経験者であるとします。いくら、部活のことを考えたからといって、理科担当の代わりに数学担当を赴任させるわけにはいきません。それでも、「この教員は30代だから体も動くし野球の指導もできるかもしれない」などと考え、精一杯の努力をしているのが実状なのです。
 少子化が進み、学校規模が少なくなれば教員の数が減るのは当然です。一方、保護者の権利意識が高まり、部活での事故では担当教員の個人責任が問われるようになってきています。掛け持ちで担当することはできなくなっています。さらに、公立校不信を解消するために、学力の向上が各校にとって至上命令になっています。授業の準備や評価により多くの労力を費やさなければならない中で、部活が重荷になるのは当然のことです。
 学校というものの使命を考えたとき、部活と授業では、授業に重きが置かれるのは正しいことでしょう。欧米では、わが国のような学校教育の中にとけ込んでしまったような部活は行われていない国がほとんどです。
 また、部活は、いじめや体罰の温床になっているのも事実です。中学校における体罰の多くは部活中に起こっていますし、学級よりも凝縮性の強い部活は排除の論理、強者が弱者を抑圧する傾向が強いものです。都教委自身も、「部活動がうまくいかないことで不登校になることもある」と言っています。部活のマイナス面も見つめる必要があります。
 部活は社会教育に委ね、学校教育を身軽にし、学校本来の学力向上に力を集中すべきなのです。
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理科教育を巡る妄論

2008-12-12 07:59:13 | Weblog
『楽しい』を増やそう(12月10日)
 国際数学・理科教育動向調査の結果について、各社が社説で取り上げています。その中で「『楽しい』を増やそう」と題された社説が目にとまりました。理科教育について、ノーベル物理学賞を受賞した益川氏の「若者が面白いと興味を持つ『種』を広くまくことが重要だ」という話、同じく小林氏の「子供は体験から知識を得ることが大切」という話を引用し、子どもの探求心を育てる理数教育に転換し、科学技術力が誇れる国を目指すべきだとしていました。
 以前にも書いたことですが、ノーベル賞を受賞するような特別な人の意見を基に学校教育を考えてはいけません。小学校では、特に理科を専門としてはいない教員が理科の授業を担当します。私もそうでした。そのとき、一番困るのは、実験でも観察でもありませんでした。体験的な活動には、多くの子どもが興味関心をもって取り組みます。問題はその後なのです。
 実験結果をまとめる、要点をおさえた観察記録を作成する、この段階で2割くらいの児童がつまずいてしまいます。うまく文章化できないのです。
 次にくるのは、実験や観察結果を基にグループなり学級で話し合う段階です。ここでは、半数以上の子どもが傍観者と化してしまいます。問題意識、そこから生じる「体験」のねらい、結果と予想の食い違いの解釈、結果からの論理的推論、こうした能力が十分でなく、話し合いの中で焦点化していく経験が不足しているからです。その結果、授業は、実験だけは盛り上がり、その後は静かな中で一部の「できる児童」「塾等で結論を知っている児童」の説明を聞く場になってしまうのです。
 理科教育で不足しているのは「体験」ではなく、体験の知的興奮を「自らが獲得した知識」に高めさせることができないことなのです。つまり、全ての学習の基礎となる「読む・書く・聞く・話す」能力の不足なのです。理科教育も数学教育も、結局、この基本となる能力なしに充実させることはできないのです。そしてこうした能力は、すべての教科において、聞いたことをメモにとる、分かったことを整理してノートに書く、話を聞いて質問する、などといった学習を行うことなのです。そうした教員こそが、理数系の力を伸ばすことができるのです。大切なのは、単に理数教育を取り上げ、理工学部で教員養成をしたり、実験補助員を派遣したりすることではないのです。
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