体罰肯定論(12月18日)
福岡市教委の教育次長が、市議会で「良いというわけではないが、学校現場ではいろいろなケースがあり、やむを得ない場合もある」と、体罰を容認するかのような発言をしました。多くの人の本音に同じような思いがあると思われます。私自身、似たような経験があるからです。
教委に勤務していたとき、この教育次長と同じような立場にあった上司から、「どこまでが体罰になるんだ?体罰とそうでない場合の線引きの規準はあるんだろ」と訊かれたことがありました。私は、「有形力の行使があり、子どもや保護者が体罰を受けたと受け取れば体罰です。1分間ならば立たせてもよいとか、何ももたせず立たせるのであればよいとか、教室の中であれば立たせてもよい、というような考え方はとりません」と答えたところ、「それじゃなにもできないじゃないか」と不審な顔をされたものでした。
この教育次長や私の上司のような、現実には体罰がなければ指導できないこともあるという考え方をする人は、教育委員会の中でも、教員経験者ではない一般行政出身の人の中に多かったように思います。
また、保護者の中にも、愛の鞭論者や教員と子どもたちとの間に信頼関係があれば体罰にはならない、という考えの人が多くいました。さらに、体罰をする教員は、体罰が禁止されていることを知っており、処分覚悟で体当たりで子どもに臨んでいる情熱のある教員であるという見方をする保護者もいました。
私自身、小中学生のときに体罰を受けた経験がありますし、友人がかなりひどい体罰を受けたのも目撃しています。ただし、その結果、その教員が嫌いになったり、学校に行くのが嫌になったりしたことはありませんでした。校長先生にモップで殴られた中学校には一日も休まずに通いました。私は、体罰など気にしない子どもだったのです。でも、それはあくまでも私という一個人の感じ方です。当時の私にそこまでの洞察力はありませんでしたが、おそらく殴られる級友を見て恐怖心を覚えた友人もいたはずです。
「私は今でもあのときに殴ってくれた先生に感謝している」というような個人的感慨で、体罰を語ることは、「いじめはいじめられる子が強くならなければなくならない」という主張と同じように、教育現場において、「弱い子」の居場所をなくすことなのです。許されることではありません。
福岡市教委の教育次長が、市議会で「良いというわけではないが、学校現場ではいろいろなケースがあり、やむを得ない場合もある」と、体罰を容認するかのような発言をしました。多くの人の本音に同じような思いがあると思われます。私自身、似たような経験があるからです。
教委に勤務していたとき、この教育次長と同じような立場にあった上司から、「どこまでが体罰になるんだ?体罰とそうでない場合の線引きの規準はあるんだろ」と訊かれたことがありました。私は、「有形力の行使があり、子どもや保護者が体罰を受けたと受け取れば体罰です。1分間ならば立たせてもよいとか、何ももたせず立たせるのであればよいとか、教室の中であれば立たせてもよい、というような考え方はとりません」と答えたところ、「それじゃなにもできないじゃないか」と不審な顔をされたものでした。
この教育次長や私の上司のような、現実には体罰がなければ指導できないこともあるという考え方をする人は、教育委員会の中でも、教員経験者ではない一般行政出身の人の中に多かったように思います。
また、保護者の中にも、愛の鞭論者や教員と子どもたちとの間に信頼関係があれば体罰にはならない、という考えの人が多くいました。さらに、体罰をする教員は、体罰が禁止されていることを知っており、処分覚悟で体当たりで子どもに臨んでいる情熱のある教員であるという見方をする保護者もいました。
私自身、小中学生のときに体罰を受けた経験がありますし、友人がかなりひどい体罰を受けたのも目撃しています。ただし、その結果、その教員が嫌いになったり、学校に行くのが嫌になったりしたことはありませんでした。校長先生にモップで殴られた中学校には一日も休まずに通いました。私は、体罰など気にしない子どもだったのです。でも、それはあくまでも私という一個人の感じ方です。当時の私にそこまでの洞察力はありませんでしたが、おそらく殴られる級友を見て恐怖心を覚えた友人もいたはずです。
「私は今でもあのときに殴ってくれた先生に感謝している」というような個人的感慨で、体罰を語ることは、「いじめはいじめられる子が強くならなければなくならない」という主張と同じように、教育現場において、「弱い子」の居場所をなくすことなのです。許されることではありません。