「ズボラ頭」7月17日
『「投票用紙、書き換え」のデマ』という見出しの記事が掲載されました。『選挙の投開票を巡り、根強く流布しているデマ』についての記事です。記事によると、『「投票用紙が書き換えられる」「開票所にスパイがいて結果を操作している」(略)そんなデマは今、ネット上に限らず、街角でも、まことしやかに語られている』というのです。
書き換えることができるように、投票所には鉛筆しか置いていない、などというデマを信じ、ボールペンを持参する人もいるというのです。こうした人に『「誰が書き換えるのでしょう」と問うと、「分からないけど、県庁の偉い人とか?」と返ってきた』そうです。
バカですね。記事にもありますが、『最初に投票所を訪れた有権者は必ず、投票箱が空であることを確認する(略)投票後の箱には最低二つの錠前がかけられる(略)鍵は別々の封筒に入れられ、開票所に運ばれる(略)開票作業は誰でも見学でき、立会人もいる(略)各陣営の関係者やマスコミも訪れ、衆人環視で作業は進む(略)開票に携わる自治体職員は、筆記具の持ち込みも禁じられている』という体制の中で、どのようにすれば書き換えが可能なのでしょうか。
この「バカ」には、細部をイメージして具体的に考える、という姿勢と能力が欠如しています。私は小学校における歴史の授業を思い出してしまいました。江戸時代の参勤交代、いわゆる大名行列を題材にして展開する授業です。国元から江戸まで、大名と家臣が主に徒歩で移動する、何日間もかかり、費用も膨大となり、大名の経済的負担となり、その分幕府に逆らおうとする力が削がれる、というように教科書には記述されます。
「へぇー、そうなんだ。なるほどね」と納得してしまえばそれで学習はお終いです。それでは考える子供は育ちません。私たち社会科の研究をしている教員は、そこで「お殿様はトイレはどうしていたのだろう」と子供に問いかけるのです。
健康であっても一日に間に何回かトイレに行きたくなります。まして、籠に揺られ続けていれば、その回数はもっと多くなるはずです。立ちション○○というわけにも、草叢でどうぞ、というわけにもいきません。江戸時代の街道に公衆トイレがあるはずもありません。子供たちは考え始めます。具体的に様々なケースを考えて。雨だったら、雪が積もった冬だったら、そもそも多くの家来だってトイレには行きたくなるよね。と。
そしてさらに、食事はどうしていたのだろう、着物は着替えなかったのかな、宿で洗濯していた?大勢が泊まれるような宿はあったのかな?そんな宿があったとして、大名が泊まらない日はどうしていたのだろ、毎日何百人も宿泊客があるはずはないよね、宿は大赤字じゃない?などと疑問は広がっていくのです。そして、教科書の記述に数行で書かれているような簡単なことではないと気付いていくのです。
こうした細部を具体的にイメージする力こそが、フェイクニュースやデマに対抗するために必要な能力なのです。先程引用した記事にある、投開票の手続きについて、具体的に知り、その場面を想像するという習慣が身についていれば、「バカ」から脱することができるはずです。
教員は、子供に細部をイメージして具体的に考える習慣と能力を身に付けさせなければなりません。それが、民主的な社会の形成者としての公民的資質を育てるという教員の使命を果たすことになるのです。
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