「珍しい」6月19日
『中3英語スピーキングテスト 量と質 効果検証を』という見出しの記事が掲載されました。『中学3年生を対象に、2022年から導入された「英語スピーキングテスト」(略)英語教育に詳しい明治学院大の新多了教授に、スピーキングの必要性や同テストの方向性について聞いた』記事です。
私はこのブログで英語教育についても再三触れてきました。しかし、今回は英語教育とはあまり関係のないことについて述べます。新多氏は、英語スピーキングテストについて、『コストに見合う効果があるかどうかで判断すべき』と述べています。そして具体策の一つとして『生徒の点数が上がったかどうかという「量」と、教員が子どもたちの能力向上を感じられるかどうかという「質」の両方を検証した方がいい』ともおっしゃっているのです。
今どき、とても珍しい見解です。いけないと言っているのではなく、最近このようなことを口にする「専門家」はほとんどいないという意味です。私自身は、新多氏の考え方に賛成です。
私が着目したのは、『教員が生徒の能力向上を感じられるかどうかという「質」を検証すべき』という指摘です。これは極端に言えば、教員の感じ方、直感のようなあいまいな感覚を尊重すべきという主張に他なりません。専門家の勘を信用するということでもあります。
現在、企業でも行政でも、エビデンスに基づく意思決定が正しいという考え方が主流になっています。それは、情報公開につながる考え方で、意思決定の理由を住民やステークホルダーに説明するためには、エビデンスに基づかなければならない、ということが半ば常識のようになっているのです。そこでは、現場の人間の勘とか、感じ方などを持ち出す余地はありません。
学校教育における施策の立案と実行においても事情は同じです。テストの結果によって自作の効果を検証するということは広く受け入れられても、教員の「何だか生徒のやる気が感じられないんですよね」というつぶやきが重んじられることなどないのです。新多氏の提言は、そうした意味で画期的なのです。
ドラマでは、「刑事の勘」などという言葉がよく登場します。多くの場合、若手の刑事やデータ重視の管理職から時代遅れと疎んじらながらも、最終的にはベテラン刑事の勘が事件の解決に寄与するという流れが多いようです。
現実が同じであるかどうかは分かりません。しかし、人々の心の奥底に、長年その分野に従事してきた者の「勘」には何か理屈では説明できない真実が含まれている、という神話が生き残っているのではないでしょうか。
教育政策における現場教員の感じ方や捉え方を生かすすべはあるのか、研究課題としてもよいのではないでしょうか。
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