「罪を憎んで人を憎まず」3月22日
『試験カンニング生徒自殺提訴へ 両親、学校に賠償求め』という見出しの記事が掲載されました。『生徒が試験でのカンニング後に自殺したのは、教師らの不適切な指導が原因だとして、両親が近く、学校側に計約1億円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こす』ことを報じる記事です。
この生徒はカンニング発覚後、『全科目0点▽自宅謹慎8日▽写経80枚▽反省文の作成』といった処分を受けていますが、両親が問題にしているのは別のことです。両親は、『教師らがカンニングをする人間を「ひきょう者」と表現していたことが生徒を心理的に追い詰めた』と訴えているのです。
考えさせられる内容です。まず初めに思ったのは、カンニングをするのは卑怯な行為ではないのか、ということです。どう考えても「卑怯」だというのが私の結論です。もちろん、いろいろな事情はあったはずです。そのときの心理状況もよく分かりません。この高校は進学校として有名な学校だそうですから、特にプレッシャーが強くかかるような雰囲気があったのかもしれません。そうだとすれば、学校側も過度に試験の結果を重大視する気風を生んだことを反省すべきなのかもしれません。しかし、それでもなおカンニングは卑怯な行為と言って指導することに問題があるとは考えられません。
では何がいけなかったのか。それは卑怯「者」という言い方、表現だったのではないでしょうか。昔から「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。人は誰でもミスや過ちを犯すものです。人生で一度も過ちを犯したことはないという人などいないはずです。ですから、ミスや過ち自体は厳しく責め、追及し、その意味を自覚させ、反省させることは必要ですが、そのことがその人そのものの存在を否定するものであってはならないのです。特に子供を育てる教育の場である学校においては、「今回君がしたことは悪い。断じて許すことはできない。しかしだからと言って私(教員)にとって君が大事な生徒、教え子であることには変わりはない。私にとって愛すべき大切な存在であることは今まで通りだ」というメッセージを伝えることが重要なのです。
具体的に言えば、「カンニングは、努力をせずに成果だけを盗み取ろうとする卑怯な行為だ。私は、学校はカンニングを許すことは絶対にできない。君は罰を受けるべきだ。でも、私は君を信じている。この罰を乗り越え、必ず信頼される人間になってくれることを期待している」という趣旨のメッセージを伝えなければいけなかったのです。卑怯者という表現はその人を否定する表現であり、卑怯なことというのは行いだけを責める表現です。教員はその違いに敏感でなければなりません。