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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

落選が続いても

2025-06-20 08:32:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「もう限界」6月12日
 『教員給与段階的引き上げ 処遇改善へ 残業時間に目標値』という見出しの記事が掲載されました。『公立学校教員の処遇改善を目的とした教員給与特別措置法などの改正法が11日、参院本会議で賛成多数により可決、成立した』ことを報じる記事です。
 本件についての解説では、改正の目玉とも言える残業時間30時間という目標に対し、『業務削減の「実行部隊」となる教育委員会からは「現場の実態を理解していない」との声も上がっており(略)学校行事の精選や開校時間の短縮、ICT機器の活用による効率化などに取り組んできた。「できることはおおむねやってきたが、45時間の達成すら難しい』などの反発の声が寄せられていることが紹介されていました。
 校長からも、『計画作りが教委に丸投げの状態。教委から学校に丸投げされる可能性もある』『教委と管理職に大変なところを押し付ける内容』『働き方改革では工夫する余地がほぼない(略)学校だけでできることは限界にきている』などの声があがっているとのことです。
 教委と校長の懸念に、全面的に同意します。残業30時間は非現実的目標です。もちろん、その範囲の治まる教員もいるでしょうし、ある月の残業が30時間を下回ることもあるでしょう。しかし、ほぼすべての教員が、大部分の月で30時間を下回るなどということは、現状ではあり得ません。
 記事では、表面的に残業を減らすため持ち帰り業務が増えるという懸念が示されていますが、ほぼ間違いなくそうなります。また、いじめや問題行動が発生したとき、真摯に向き合おうとすると膨大な時間外勤務が発生します。それを避けるために、事態の軽視や隠蔽が横行する可能性もあると考えます。そうなれば、学校に対する地域社会の信頼は地に落ちてしまいます。
 こんな事態を招いて、それで教職志望者が増加するでしょうか。あり得ません。文科省は、根本的に学校の業務削減に取り組む必要があります。それは、会議の効率化や行事の精選などの小細工ではなく、学校とは何をするところか、教育の何を担うのか、という基本的なところからの見直しでなければなりません。
 私はこのブログで再三学校は子供が勉強するところだという素朴な原点に返ることを主張してきました。具体的には、部活の完全地域移行、給食の廃止、儀式的行事を除く学校行事の廃止、教育課程外の生活指導の廃止などが必要だと述べてきました。教員は授業をし、授業が円滑に行われるように学校内の生活指導を行う人だと定義し直すのです。
 朝練も休日の練習もなければ、昼食時に給食指導をすることもありません。手作りの弁当でもコンビニ弁当でも構いません。家庭が用意し、決められた時間内に食べて自分で片づけて持ち帰る、教員は職員室で授業準備や採点やノートの点検をするのです。運動会も学芸会もなくなれば、その練習に年間十数時間も費やすことはなくなります。移動教室や林間学校、修学旅行の引率や実地踏査の時間も無くなります。そもそも、給食も移動教室等も、日本が貧しく、昼食を準備できない家庭やどこにも旅行したことのない子供がいた時代の遺物です。現代には不要です。
 休日に子供が万引きしたからといって、担任が店にまで出向き謝罪し、子供を引き取って話を聞き、指導し、家庭に引き渡し、保護者を指導し、というようなことが続く限り、教員は休日や夜間でも寛ぐことができません。
 もちろん、多くの反論があることは百も承知です。到底実現できないことも分かっています。給食にも移動教室にも運動会にも、いくつもの教育効果があることも理解しています。でも、これくらいの大風呂敷を広げて初めて、小さな削減が可能になるのです。
 授業以外はすべて削減や廃止の対象とする、それくらいの覚悟で国民的な議論を巻き起こすべきです。反論には、それなら○○人の教員の増員が必要で、年間○○億円、10年間で〇兆円の予算化が必要、一家庭当たり年間△万円の増税、というところまで踏み込んで議論するのです。文科相が数代にわたって選挙で落選するくらいの憎まれ役にならなければなりません。

 

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外国のことは分からない、でいい?

2025-06-19 08:37:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「弱点」6月12日
 『「異形の民主主義」の時代』という見出しの記事が掲載されました。東京大学元学長佐々木毅氏へのインタビュー記事です。その中で佐々木氏は、トランプ米大統領について触れ、『私たちの社会は長く経済が優先されていた(略)政治の時代に変わった』と述べられています。
 そして、『日本の政治にとって最もタフな問題は国内では起きない。外から来る』『外交は選挙の争点にはならないと言うけどさ、今は歴史の転換点に直面している』『僕たちも国際問題をよくよく考えるクセをつける必要がある』などと語っていらっしゃるのです。
 全く同感です。民主主義、人権、法治主義、権力間の牽制など、長年我が国が無条件に「良きもの」としてきた価値観を否定する動きが世界中で強まる中、国内の経済問題だけを考えていればそれで済むという時代は終焉を迎えているという危機感は、私も抱いています。そういう時代だからこそ、これからの社会を築き上げていく子供や若者には、もう一度民主的で自由な社会の維持について深く考え、実行に移してほしいと思うのです。
 そのためにどう考え、どう行動すべきかを学ぶのが主権者教育です。しかし、近年始まった我が国の主権者教育は、身近な問題からのスタートを重視しすぎているように感じます。中高の6年間、学校の規則や生徒会の在り方、身近な地域の図書館や公民館の在り方、みんなが使える公園の姿、などを考える実践が、良き事例として紹介されています。
 そして今、10代、20代前半の若者の投票率は、他の世代に比べて著しく低くなっています。今の生活、今の自分のかかわりの薄い(と思えてしまう)問題についてはよく理解、判断できず、「難しいことは分からない」「よく分からない自分なんかが投票していいのか」と投票所から足を遠ざけているのです。
 ロシアによるウクライナ侵攻、「戦争で人が死ぬのは悲しい」「はやく戦争が終わってほしい」。イスラエルによるガザの虐殺、「子どもやお年寄りまで死ぬのは可哀想」「食べ物もないなんて酷い」。中国によって繰り返される領海領空侵犯、「きちんと決まりを守ってほしい」「日本も責められたら怖い」。中国による台湾進攻、「日本も巻き添えにされたらどうしよう」「台湾に近い沖縄の人は不安だろう」。トランプ米大統領による憲法無視、「何でもできる大統領令ってすごい。日本にもあればいいのに」「選挙で勝てば何でもできる。これこそ民主主義」。
 この程度の感想しかもてない者が、平和で自由な民主主義社会の良き形成者になれるわけはありません。民主主義と人権、平和と法治主義について、過去の出来事や外国の事象にまで領域を広げ、その理念と歴史について、十分に学び討論し、様々な異論に接する中で、自分なりの価値観を肥え太らせていく、そんな「骨太」な主権者教育が絶対に必要です。

 

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あの頃

2025-06-18 08:32:42 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「近現代史」6月11日
 デロイトトーマツリスクアドバイザリー梶原敦子氏が、『80年代の社会に未来思う』という表題でコラムを書かれていました。その中で梶原氏は、テレビドラマ「北の国から」に描かれる暮らしを取り上げ、『農業従事者であった主人公が冬の農閑期には東京に出稼ぎに出る姿が描かれていた。子供たちは、父親が出稼ぎに出ている冬の間、何と兄妹2人で家を守っていた。今、子供をそんなに長い間放置したらネグレクトとして児童相談所に保護されてもおかしくない』と、当時、80年代初頭と現在を比較なさっています。
 その他にも、『女性も男性も会話の合間に頻繁にたばこを吸っていた』ことも例示し、『SDGs、コンプライアンス、健康寿命など、健全なことがが社会概念の主流を占める現代』との違いを指摘なさっていました。
 私はこの記述を目にして、私自身が体験してきた時代、私にとっては鮮明な現実感を伴って思い出される時代が、今の子供や若者にとっては、「歴史」なのだなということを感じました。
 では、この時代、昭和40年代からの時代は、学校教育の中でどのように指導されているのでしょうか。経済の高度成長、公害、バブル、停滞の30年など抽象化されて語られることはあっても、個別の事象について、今の若者はどれくらい理解しているでしょうか。
 例えば、梶原氏も取り上げている「出稼ぎ」について、です。あるいは「金の卵」はどうでしょうか。これらへの理解なしには、石破首相の言う令和の日本列島改造のもとにある田中角栄氏の「日本列島改造論」の意味も分からないでしょう。
 東京五輪黒部ダム建設に伴う突貫工事とその犠牲者、三菱ビル爆破事件、連合赤軍、浅間山荘事件、交通ゼネスト、スト権スト、なんのこっちゃという感じではないでしょうか。湾岸戦争、PKO派遣、何が問題になったのか、実感できるでしょうか。
 我が国が隣国韓国に対して行った戦前戦中の行為については授業で学びますが、高度成長期に韓国との経済力格差が大きい時代に、妓生観光に繰り出して韓国の女性に対して行った恥ずべき行為について、どれだけの若者が知っているでしょうか。
 私は教員時代から一貫して社会科を研究対象にし、特に6年生を担任することが多かったことから歴史についての実践が多かったのです。でも、今振り返って切ると、高度成長と四大公害くらいしか扱ってこなかったような気がしています。
 戦争の語り部ではありませんが、昭和40年からの社会について生の声で語れる人から、多くの「証言」を収集し、現代につながる歴史として教材化する、そんな試みが必要ではないでしょうか。

 

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社会の変化のプラスマイナス

2025-06-17 08:18:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「正しい分析?」6月10日
 植草学園大教授野澤和弘氏が、『親の過保護、過干渉と子の将来 就活まで続く影響力』という表題でコラムを書かれていました。その中で野澤氏は、『子どもが幼いころだけでなく、成人になってからも干渉し続ける親が増えてはいないか(略)親の古い価値観に支配される子どもの将来はどうなっていくのだろうか。暗いものを感じざるを得ない』と述べられています。
 そうなのかもしれません。ただ、野澤氏が分析する過保護過干渉の背景については違和感を覚えます。野澤氏は、『もともと日本の民法は「親権」として様々な権利を定めている』とし、それが『成人となった子どもの職業に対してまで親の支配下にあるかのような慣習』に結びついていると指摘されています。
 もしその分析が本当であるならば、民法改正で親の懲戒権が削除された現在、親の過干渉は減ってくるはずです。そうではなく増えているというのであれば、「親権」問題を原因とするのは的外れということになります。
 また、『以前であれば(略)加齢とともに仕事を辞めて経済力がなくなり、心身の健康も衰えていくため、子どもはいや応なく自立しなければならなくなった』と述べ、現在は働き続ける高齢者が増えたことで干渉する力を親がもつようになったとも分析なさっています。そうでしょうか。昔は、サラリーマンが定年退職すれば、退職金で貸し家の一つも持てたものですが、今は違います。就職氷河期時代に非正規雇用で社会人生活をスタートした若者が親になりつつある現在、親世代の経済力は低下していくことが予想されています。野澤氏の考え方によれば、これからは親の干渉力は低下する一方だということになるのではないでしょうか。
 さらに、『親が生きてきた時代の「良い会社」「安定した仕事」が今後も同じというわけにはいかない』と『親世代の古い価値観』に縛られないことを提唱していますが、現在の就活では、今の就職事情を知らない親が口を挟むことはできなくなっているという指摘もあることとの整合性が取れません。
 社会のある出来事、傾向を分析する際に、一つ一つの理由を挙げながら、それぞれの理由の間の矛盾には無頓着というのは、私もよくしてしまう失敗です。野澤氏の場合は、紙面の関係で述べ切れない部分があったということかもしれませんが、私も今後このブログで拙い分析をする場合、注意していきたいと思います。学校でも感じる毒親の増加、少し考えてみることにします。

 

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大切な時期は

2025-06-16 08:21:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「A中だけ?」6月10日
 『中1秋の成績 大学受験に影響 古梶裕之・浅野中校長に聞く「子どもに合う志望校」』という見出しの記事が掲載されました。首都圏屈指の中高一貫の男子進学校として知られる浅野中校長古梶裕之氏へのインタビュー記事です。
 その中にとても気になる記述がありました。『中学入試時の順位と、中3の終わりの順位を調べたら、相関はあまりなかった。しかし、中1の2学期に行う中間試験と中3の終わりの順位は強い相関があった(略)中1の時に、学習サイクルを確立できているかどうかが高校以降の成績、ひいては大学受験の結果にも影響してくるのだ』という言葉です。
 実は私自身、小学校卒業時の成績は国社算理はオール4、まあ中の上でしたが、中1の2学期は国社数理英は、5が3つに4が2つと大幅にアップしていたのです。中三では、200人以上の生徒数の中で順位は常に一桁、一度だけ1位になったこともあるという優等生(?)だったのです。
 私の場合、普段勉強はしませんでしたが、中間と期末のテスト前の試験勉強の方法は確立していました。1週間前から、各教科の試験範囲の内容を、自分でノート見開きにまとめ直し、試験前日の夕食前までに翌日の教科についてまとめたノートをすべて暗記し、夕食後、もう一度暗記できているか確かめて、夜9時には寝るというやり方でした。
 つまり、古梶氏の説、「中1で学習サイクル確立」に当てはまるのです。もっとも、高校では真ん中より下の成績で大学受験には影響しませんでしたが。そこで考えました。子供の学業の成果について、古梶氏のように、何らかの法則、どの時期が重要なのかが明らかになる法則のようなものは本当にあるのか、ということを、です。
 浅野中の生徒についての分析は、進学塾に通い成績の良い男子という、ある意味特殊な条件下での結果です。公立中学校では、女子校では、共学の私立では、塾通いが普通な都会と塾が少ない地方では、成績上位層と中位層・下位層では、など様々な条件下で相関を調べることにより、学校生活における指導の重点と時期の関係が明らかになれば、学校における指導の在り方への貴重な示唆となると思います。
 文科省や教委、教育研究所など広範囲で連携し、研究を進めてはどうでしょうか。

 

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正解は分かっているけど

2025-06-15 08:40:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「手段がないなら」6月8日
 客員編集委員滝野隆浩氏が、『声でみる認知症リスク』という表題でコラムを書かれていました。『スマートフォンに向け声を出すだけで、軽度認知障害のリスクが分かるアプリ』についての話です。
 『画面の案内に従って数字を読み上げれば1分ほどで結果が出る』そうです。このアプリについて滝野氏は、『どうだろう。早期に分かれば、不安がそれだけ長く続くことにならないか』という懸念を寄せられています。それに対し開発者の東京大大学院特任教授徳野慎一氏は、『それは違う(略)リスクが分かってもそれなりの生活をすればいい。耳が聞こえづらいなら補聴器、目がわるいなら眼鏡がある。認知機能がもし落ちても、スマホにあるメモやスケジュール機能などで十分カバーできますから』と答えられています。
 私は、祖母と両親が認知症を患って亡くなりました。叔母二人も認知症を患いました。認知症の実態を知っていますし、非科学的と言われるかもしれませんが認知症家系なのではないかと怯えています。だからこそ、滝野氏の「不安がそれだけ長く続く」という心情が分かるのです。徳野氏の言葉だけでは不安は消えないのです。ですから大いに興味はありながらも、そのアプリを試す勇気は湧いてこないのです。
 私のこの心情、いじめの被害に遭っている子供にも通じる面があるように思います。現にいじめで苦しい思いをしている。「正解」はいじめを担任や生活指導の教員、あるいは直接校長に打ち明け相談することだと分かっている。もちろん、それで解決するのであれば、躊躇うことなく相談する。でも、相談したとして、教員たちがどう動いてくれるかも分からない。実際に、Aさんは担任に相談したけど表面的に和解しただけで実際にはいじめは続いている。しかも、「お前、先生にチクったな」とより陰湿になっている。Aさんは学校に来れなくなってしまった。自分も相談してみても………。
 つまり、教員に相談しないうちは、いよいよ追い詰められたら教員に、学校側に相談してみるという「(儚い)希望」が残っておりそれを心の支えにすることもできるが、実際に相談してしまって失敗したらもう絶望しか残らない、という事態に対する恐怖心があるということです。
 頭では取るべき行動が分かっていても、その行動によって改善や解決の見込みが少ない場合、人は絶対的な絶望に直面するよりも、ぎりぎり耐えられる苦しみの方を選んでしまうということです。
 いじめによる自殺などの重大事件が起きると、学校や教員は「気付かなかった」「解決したと認識していた」などという言い訳を口にすることがあります。被害者か他の訴えがなかったから、というわけです。しかしそれは、被害者が訴えても解決も改善もしないという見通しをもっていた、言い換えれば学校への不信感を抱いていたということの表れなのです。
 いじめは難しい問題です。簡単に解決できないケースがあるのは事実です。でも、子どもに「うちの学校では、いじめがあっても先生は頼りにならない」と思われているという事態だけは避けなければなりません。私の担任は、とことん被害者の立場に立っていじめに向き合う、そういう信頼感を得られるようにしなければならないのです。

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「お客さん」はいない

2025-06-14 08:27:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「授業を変える」6月7日
 国学院大准教授町田樹氏が、『性別論争をめぐる第三の道』という表題でコラムを書かれていました。その中で町田氏は、トランプ米大統領が『トランスジェンダー女性の女子競技参加を禁止する大統領令に署名して以来、スポーツ界では性別カテゴリーに関して激しい論争が繰り広げられている』ことについて、『トランス女性が女子競技の公平性を損なうか否か、という論点とは異なる議論の方向性を示す』とおっしゃっています。
 それが、学校における体育の授業や部活動などの在り方を考える際に、とても参考になる案なのです。町田氏は、『競技に「偶然性」や「可変性」を取り入れて、身体が持つ優位性の緩和ないし分散を試みるスポーツを構想してみてもいいのではないか』と提案なさっているのです。
 その具体例として、『サッカーのキングスリーグ』を紹介されています。『試合中に1度だけ、一定時間「ゴールの得点が2倍になる」や、「相手チームの中から任意の選手を出場停止にさせられる」などのさまざまな効力を持つカードが使えたり、試合の途中でサイコロを振り、出た目の数でピッチ上の選手の数を変更したり』というものだそうです。
 現在のスポーツが身体能力、足の速さや背の高さ、体の大きさ(体重)や筋力の強さによる影響が大きいのに対し、偶然性や可変性、それに基づく戦略の影響が大きいものに変えていくのです。そのことにより、一般女性選手とジェンダー女性選手の間にある考えられている「差」を薄めていくということです。
 私は、この考え方を取り入れることによって学校における体育的な活動の可能性が広がると考えました。小学校でも高学年になると、男女一緒にサッカーやバスケットボールの試合を行うことは難しくなります。混合で試合をすると、女児は「お客さん」になりかねません。まして、中高になればなおさらです。中高では、運動系部活や体育祭の種目などでも、男女別が主流にならざるを得ません。でも、「偶然性」や「可変性」を積極的に取り入れる工夫を進めることで、新しい道が開けてくる可能性があります。
 そしてそれは、男女間だけでなく、障害のある子供、運動が苦手な子供、例えば肥満児などに新たな可能性を開くことにも繋がっていくのです。体育嫌いをなくす方策となるかもしれません。
 体育教員やその研究会で研究と実践を深めてみる価値はあると思います。

 

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前提は人員増

2025-06-13 08:50:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「責めないで」6月3日
 『一時保護 親不同意で裁判所判断 司法の目機能するか』という見出しの記事が掲載されました。『虐待などの理由で子どもを親から引き離す児童相談所の一時保護を、裁判所が認めるかどうか判断する司法審査が6月から始まった(略)判断がより適正になることが狙いだが、課題はないのか』という問題意識で書かれた記事です。
 記事には、『一時保護の是非を裁判所に任せられるので、親と前向きな話がしやすくなる』という肯定的な意見とともに、『(児相の)仕事量の増加は避けられない』という懸念も示されていました。
 私が教委で生活指導を担当し、周辺区5区の生活指導担当指導主事会のリーダーを務めていたころ、児相は対応が遅い、一時保護に消極的というのが指導主事たちの共通認識でした。親からの苦情を必要以上に恐れ、一時保護を避けようとするのが児相だという認識です。
 記事では、『一次保護は(略)子どもの安全を守るため、ためらいなく行われる必要がある』とありますが、実態は躊躇った末に見送るケースが多く、歯がゆい思いをしていたものです。しかし、今では、児相が親の意向に添うことなく一時保護を強行することが、人権上の問題になっているというのですから、隔世の感があります。
 私は今回の司法審査導入に賛成です。公的機関による人権侵害はあってはならないことですし、一つの機関や組織だけで人権侵害を防ぐことは難しく、チェック機能を持つ別機関の関与が有効なのは制度論の基本だと思うからです。
 ただ、30年近く前に私が抱いていた「臆病な児相」を脱し、子供の生命・安全という最も基本的な人権を守る一時保護を躊躇わない「自覚ある児相」が、司法審査導入に伴う事務負担増に屈し、また事なかれ主義の一時保護を避ける児相に戻ってしまっては改革の意味はありません。
 児相の設置者である自治体には、大幅な人員増をお願いしたいと思います。また、人員増が果たせないまま事務量だけが増えていくのであれば、一時保護の遅れによる悲惨な事態の発生が増えても、児相を責めることは止めてほしいと思います。組織が運営できないほどの過重な労働を強いられてしまえば、難しい判断を避けて仕事を回そうとするのは自然な人情です。児相の職員を責めるのではなく、行政を、自治体を、首長こそが責められるべきなのです。
 高邁な理想を掲げながら、必要な施策を講じずに、問題が起きると現場の職員を責める、典型的な我が国の悪癖ですから。

 

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常に同時並行で

2025-06-12 08:30:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「常に必要」6月3日
 『市長直轄「監察課」が実態調査 大阪・寝屋川のいじめ対策』という見出しの記事が掲載されました。『教育委員会ではなく、市長直轄の「監察課」が、いじめの実態調査を進めるのが特徴』である寝屋川市の取り組みについて報じる記事です。
 記事によると、『寝屋川市は、教育委員会主導でいじめの解決をはかる従来の手法を「教育的アプローチ」と呼び、限界があると分析した。学校側がいじめる側といじめられる側の人間関係の再構築を目指すため、問題解決に時間がかかる』とし、監察課の『行政的アプローチ』、即ち『あえて加害者と被害者という概念を取り入れ、加害者側の指導ではなく被害者のケアを急ぎ、いじめの即時停止を目的とする』というのが基本的な考え方のようです。
 私は拙著「断章取義」でもいじめ問題を取り上げ、『まず正常な状態に戻してから、つまり傷付き苦しむものをなくしてから(略)火事の最中の火事を消さずに、出火の原因を詮索したり、鎮火後の再建を話し合ったりしているような間の抜けた対応』と学校側が陥りがちな悪癖を非難し、『(学校や教委の担うべきこと)以外は行政機関や警察等に委ねるという割り切りと潔さが求められる』と主張してきました。
 さらに、『警察が積極介入して解決や予防につなげようとしている』という韓国の例を引き合いに、他の行政機関との連携に消極的な我が国の学校の体質について批判してきました。そうしたことから、私は今回の寝屋川市の取り組みに肯定的な立場です。
 ただ、一つだけ気になる記述がありました。『深刻ではないと判断した場合は教育的アプローチに移行し~』という記述です。この記述をそのまま受け取ると、いじめ被害の訴えがあり、行政的アプローチが作動し、深刻な場合は行政的アプローチが継続し、深刻でない場合は教育的アプローチに、という図式になります。
 もしそうであれば、問題です。私は、教育的アプローチは、いじめの訴えがあったときから動き出し、行政的アプローチが行われている間も継続し、行政的アプローチが収束した後も引き続き教育的アプローチが行われていくべきだと考えているからです。
 特に問題を感じるのは、行政的アプローチが、加害者と被害者という枠組みでいじめ対応を進めることの限界が首長側に理解されているのか疑わしい点です。いじめは被害者と加害者で成り立っているのではありません。学級内に被害者は一人かごく少数、加害者は数人、多くは傍観者で、その傍観者も被害者に同情的な傍観者と加害者の共感的な傍観者に分けられるというのが一般的です。さらに、学級内の子供全員に影響している学級内の雰囲気や人権認識、教員の影響力など、複雑な要因でいじめが構成されているのです。
 これらは、加害者を罰することが主眼となる行政的アプローチでは踏み込むことができません。ですから、教育的アプローチはいじめ発覚から終結、さらにその後まで常に計画的且つ意図的、組織的に行われていなければならないのです。行政的アプローチの出番が終わったからこれから教育的アプローチであってはいけないのです。
 教員や校長、または監察課スタッフがその点を誤解しないよう注意が必要だと思います。

 

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6歳までと6歳から

2025-06-11 08:21:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分業?」6月2日
 横山三加子記者が、『企業が求める能力は』という表題でコラムを書かれていました。その中で横山氏は、『企業が求める人材に変化が起きている(略)「倫理的判断力」「共感力」「継続的に学習する能力」を重視する傾向が強まっていた』と書かれています。
 そして、『大事な能力なら私もぜひ高めたい。でも(略)「6歳くらいまでの形成される価値観」とのこと(もう手遅れ?)』とも書かれているのです。三つ子の魂百まで、という言葉があるように、子供の時期に身についた性質がその後も大きくは変わらない、という理屈は理解できます。私が引っ掛かったのは、能力の話をしていたはずなのに、最後は価値観の話になっていることでした。
 価値観と能力の関係はどうなっているのだろうと疑問に思ったのです。6歳までにということは、学校教育は関与できないということです。現代企業が求める能力とは、これからの社会を担う子供にとって望ましい能力だといっても間違いではないでしょう。その能力育成について学校教育は関与できないとすれば、学校って何?ということになってしまいます。
 少し考えて私は次の結論に達しました。目先の損得や一時の快不快に左右されるのではなくどちらの選択肢が正しいのかという基準で判断することが大切、という「価値観」を、まだ頭の柔らかい6歳までに家庭で育て、6歳からは学校が、その「価値観」に基づいた具体的な情報収集能力や思考力・判断力、企画力や計画力、決断力や行動力といった「能力」を集団生活の中で培っていく、という学校と家庭の分業体制こそが望ましい在り方なのではないか、ということです。
 同じように、共感力や継続的に学習する能力の育成も、家庭の基盤の上に学校が担っていくということならば、納得がいきます。でも、この考え方だと、家庭の負担が大きすぎるという不満が生じるかもしれません。また、6歳までを家庭の役割としていることも、社会で子育てをするという今流の考え方に反すると批判されそうです。とはいえ、必要な時期に必要な価値観をもたせないまま学校に送り込み、足りないところは学校でと丸投げされ。責任を負わされるのも不条理です。
  大人の都合とは別に、子供の発達段階と教育の視点から考えて、6歳以前と以後の接続をどのように図るか、こども家庭庁あたりが考えているのでしょうか。

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