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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

強制は当然

2014-06-17 07:32:24 | Weblog

「強制は当然」6月12日
 『都教委、再び「不使用を」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『特定の高校日本史教科書の国旗国歌法を巡る記述が「不適切」として、東京都教育委員会は12日、都立高に対し、記述に変更がなければ来年度用の教科書として使用を控えるよう改めて通知を出す方針を明らかにした』ということです。
 実教出版の教科書に『国旗国歌法について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」』ことを問題としているわけです。この問題についても、昨年、何回も触れてきました。その際には、国と都の二重検定という視点から問題提起しましたが、今回は、別の視点から見てみたいと思います。
 それは、「公務員への強制」ということについてです。都教委がこの記述を問題視しているということは、この自治体とは東京都を指している、東京都が公務員に強制しているというのは間違いである、もしくは強制しているということを公にしたくない、と考えているということになります。
 まず、都教委が国家の起立斉唱を求める職務命令を出しているのは事実であるので、この「自治体」に東京都が含まれているのは間違いないと考えてよいと思います。さらに、職務命令を出すということは強制しているということですから、これも事実であるということができます。それでは、都教委がその事実を隠したいと考えているのかといえば、多くのメディアで報じられ、その後も処分に不満をもつ教員が訴えた裁判の結果がたびたび報じられているのですから、すでに周知の事実です。
 そうなると、都教委が不使用の通知を出す意図が分からなくなります。卒業式や入学式において、起立して国歌を斉唱するという行為を、生徒や保護者、来賓等の参列者に強制することはできませんし、許されることでもありません。それは、「思想及び良心の自由」を侵すことにもなります。ですから、生徒に対しては「指導」するだけで起立斉唱しなくても叱責したり処分したりすることはしません。参列者にもお願いするだけです。
 しかし、公務員、それも教育公務員である教員に対して命じることは、最高裁で「合憲」とされているのです。ですから、胸を張って「強制しています」と言えばよいのに、と思ってしまうのです。実教出版の教科書は正しく記述されているとして、一切問題視しないというのが正しい判断だと思うのです。
 私は、都教委の幹部として都立高の卒業式に来賓として参加したことがあります。それは、当時としては画期的であった「職務命令」の徹底を見守るためでもありました。都教委は自らが発する「職務命令」に関して、それがきちんと実行されるように万全の態勢をとって臨んだのでした。そうした積み重ねの上に、今があるのです。自らの取り組みに自信をもち、堂々と「強制しています」と言い切ってほしいのですが。
 もしかしたら、今でもまだ「強制」しなければ起立斉唱が実現しないことを恥じているのでしょうか。教員も人であり、個人としては多様な価値観をもつのは当然であり、強制しなくても全員が起立斉唱するようになったら、そのほうが恐ろしいことです。だから胸を張って「強制しています」と言いましょう。
 

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決めるのは

2014-06-16 07:30:48 | Weblog

「運動会再び」6月12日
 論説委員の落合博氏が、『だれのため?』という表題でコラムを書かれていました。運動会における「人間ピラミッド」について述べたものです。その中で落合氏は、『時代が変わっても運動会は地域社会全体の行事という性格を持ち続けるだろう。その価値は認めつつ、子どもたちが傷ついている現実から目をそらしてはならない』と書かれています。
 運動会における組体操については、私もこのブログで「そもそもおかしい」という表題で取り上げています。ですから、同じことは繰り返しません。今回は、落合氏の「運動会は地域社会全体の行事」という指摘に絞って考えてみたいと思います。
 全校マラソン大会という学校行事を行っている学校があります。教育課程上の位置づけは、運動会と同じ体育的な学校行事です。全校スポーツテストを行う学校もあります。垂直跳び、立位体前屈、反復横跳び、踏み段昇降などにより体力を測定するものです。これも、体育的行事です。しかし、いずれも「地域社会の行事」というような位置づけではありません。
 またもっと広く学校行事全体に目を向けても、音楽会や学芸会、展覧会などについても、地域の方が見に来ることはありますが、これらを「地域社会の行事」と捉えている人はほとんどいないはずです。
 それなのにどうして運動会だけは、PTA競技や来賓競技、職員競技や来年度就学予定の子供の競技などが当然のように組み込まれているのか、私は教員時代から疑問でなりませんでした。運動会を見に来ている保護者がビールで真っ赤な顔をしているのを見るたびに、これは教育現場にふさわしい光景なのかと首をかしげていました。
 さらに近年は、学校選択制が浸透し、地域の学校と言っても、在籍している子供の半数以上が他の地域の子供であるという場合もあります。選択制の推進に当たっては、「学校は地域の中で~」という立場から反対の声があったはずですが、そうした声を無視し、地域と学校のつながりを薄める方向で改革が進められていたにもかかわらず、今でも地域社会の行事」であることには違和感を感じます。
 「地域社会の行事」であるということは、学校の行事ではないということです。教育機関である学校の判断だけでは、運動会について決め実行できないということでもあります。だからこそ、組体操はやめられず、事故が続くのでしょう。
 組体操に限りません。私の母校の中学校では、3年の男子生徒全員による「ムカデ競争」が伝統となっており、毎年数人の生徒が鎖骨を折るというけがをしているにもかかわらず、存続していました。これも、「地域の圧力」の結果です。
 地域に開かれた学校が標榜された時期がありました。今では下火になりましたが、その理念は継続しています。しかし、地域に開かれた学校と「地域社会の行事」として運動会を行うということは全く別の問題です。授業参観があるからといって、保護者が授業の内容を決めるということがないように、運動会も学校が外部の圧力なしに独自に実施するのでなければなりません。
 

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共通する背景

2014-06-15 08:12:11 | Weblog

「調査目的」6月12日
 『文科省会議が指針案 児童生徒の自殺全ての事例調査』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『案は①子供が自殺した場合、即座に調査を実施し、教委に報告②教委は、自殺の背景に体罰や学業不振など学校生活との関係が疑われる場合や遺族の要望があれば、さらに詳細を調査』ということです。
 調査をすること自体に異存はありません。ただ、近年、いじめ自殺が疑われるケースで第三者委員会などが立ち上げられ調査が行われることが増えていますが、その調査結果に歯痒さ(?)を感じてしまう自分がおり、今回の文科省の方針案にも同じようなじっれたさを覚えてしまうのです。
 上記の調査は自殺の原因について明らかにすることを目的としています。厳密に言えば、調査で明らかになるのは、いじめや体罰などの「事実」にすぎません。いじめや体罰と自殺との因果関係は推測するしかありません。そしてあくまでも「推測」なのですから、学校や教委は、道義的視点から自分たちの至らなさを認め謝罪しますが、裁判ということになれば因果関係は明らかではないと主張することになります。そして、「反省がない」「子供の尊い命をどう考えているんだ」と、メディアや世論に批判されるという図式が繰り返されていくます。
 大変非生産的です。もちろん、事実を調べることは大切です。遺族の心情を考えても、正確な調査が行われ、その結果が伝えられることは必要でしょう。しかし、文部科学省という我が国の教育行政を司る組織の使命を考えれば、いじめがあったか、いじめは自殺の原因であったか、事前の学校の対応は適切であったか、事後の対応はどうかということだけで終わってはいけないと思うのです。それでは、個別の事例への対応にすぎません。
 私は、いじめや体罰などによる自殺事件については、そうした行為が発生し、深刻化してしまった要因や環境について調べ、それを事前防止に生かすという視点が必要だと考えています。いじめ等による自殺は、全国で年間10件を下回るのが近年の実態です。そうであるならば、この10件について、文部科学省が警察庁や法務省、厚生労働省などの協力を仰いでPTを編成し、徹底的に調査を行い、その結果を全ての教委で共有すべきだと思うのです。
 当該校について、過去10年間のいじめや体罰等の発生と対応、教員の業績評価や自己評価、教員間の人間関係と年齢構成・性別・勤務年数、地域や生徒・保護者の学校評価、管理職の業績評価、学校経営方針、特色としている教育活動、問題行動の発生率と種類、全国学力テストの結果と推移、所轄警察が把握している関係事件、児童相談所への相談件数と内容、学校や教員についてのクレーム件数と内容、学校事故の発生件数、不登校児童生徒の数と日数、子供のスマホ保有率等々、調査の視点は多岐にわたると思われます。
 さらに、教委についても、狭義の教育委員会での議論、当該校への訪問や視察、教委主催の研修会や連絡会の種類・回数・内容、教委内の人事、教委の重点施策、議会における教育関連の関心事項など調査が必要です。
 こうした調査によって、いじめや体罰が発生しやすい土壌、深刻化しやすい環境などを明らかにしていくのです。そして、いじめ自殺があったから原因を調べるという事後対応的な対策ではなく、事前にいじめや体罰が発生しにくい学校づくりを進めるという攻めの教育政策を推進していくのです。できるはずです。

 

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保守的でありたい

2014-06-14 07:49:06 | Weblog

「同棲OK」6月7日
 ノンフィクション作家の亀山早苗氏の連載コラムが掲載されました。今回は、『男女関係の選択肢は自由』という標題でした。その中で亀山氏は、同棲を決めた知人女性が周囲に大反対をされている事例について、『結婚なら公に祝福できるが、一緒に住むだけだと心配せざるを得ない、と』という常識の問題点を指摘しています。
 亀山氏の考え方は、『「自分の幸せを求める」という意味では、結婚も離婚も同じなのに』『事実婚だって、同棲だって、別居したままの長年の恋愛だって、互いの気持ちが一番大事』という記述に表れています。要するに『従来の家族観』にとらわれている私のような人の「古い発想」を批判しているのです。
 教員はどうしたらよいのでしょう。担任している子供の中には、事実婚の夫婦の間に生まれた子供もいるでしょう。もし他の子供から「Aさんのうちは、どうしてお父さんとお母さんの苗字が違うの」と訊かれたときの対応の仕方は、どうあるべきなのでしょうか。「他人のうちのプライバシーに興味をもつな」と言えばよいのでしょうか。そんなことを言えば、よけいに興味をもつのが子供というものなのですが。
 「B君のお姉さん、彼氏と同棲するんだって」という情報が耳年増の女子生徒からもたらされたらどうするのでしょうか。他の生徒の姉が結婚したときのように「おめでとう。よかったわね」と言うべきなのでしょうか。
 中学を卒業した教え子が数年ぶりに訪ねてきて、「妊娠しちゃったんだけど、相手は結婚はしないって言ってるのでしょうがない」と言いに来たとき、「生まれてくる子供のためにもきちんと籍を入れた方がよい」などと言ってはいけないのでしょうか。
 そもそも、家族や家庭の意義や役割について、家庭科や社会科の中でどのように教えればよいのでしょうか。男女の愛と性についてはどう教えればよいのでしょうか。
 私は古い人間ですが、本音を言うと、男女の関係については、亀山氏の主張に一理あると思っています。しかし、それを子供に教えるということには消極的にならざるを得ません。それは、学校で指導する事柄については、正しいか正しくないかという基準とは別に、多くの人の支持がある考え方であるか否かという視点も大切だと考えるからです。もちろん、人権とか自由、平等といった人類が長年かけて獲得してきた普遍的な価値観に明確に反する場合は別です。しかし、そうでない場合、学校は世間の変化の半歩後からついて行くという保守的な立場をとるべきだと考えているのです。俗なたとえですが、初音ミクが登場してもすぐには授業で取り上げず、世間で周知し認識されるようになってから教科書に取り上げるというような態度です。
 ただ、男女の関係、それに基づく家庭のあり方というのは、待つことを許さず学校に響いてきます。難しい時代になったものです。

 

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どこの国でも同じはず

2014-06-13 08:23:15 | Weblog

「平和教育考」6月6日
 『いま靖国から 平和教育への反感』という特集記事が組まれました。A級戦犯である東条英機元首相の孫である東条英利氏を中心に据えた記事なのですが、その中に「平和教育」という文言が何回も出てくるのです。
 『私は父親が幼いときに被爆した2世だが、広島の平和教育はひどかった』『被爆地広島は、戦後平和教育のトップランナーである。当初は人類未曾有の被害が重点だったが、「なぜ広島だったのか」と自問し続け、軍都広島が日清戦争以来、海外侵略の拠点だった加害の歴史への反省も前面に強調されてきた』『-平和教育に批判的ですね。「反戦の気持ちはありますよ。でも、子供たちにはもっと国を愛し、先人を敬い、侵略には命に代えても日本を守る教育を」』などです。
 この記事を読んで真っ先に頭に浮かんだのは、平和教育とは何なんでしょうか、ということです。常識的に考えれば、平和の尊さを理解し、戦争を避ける智慧と平和を維持し続ける強い意思を培うことを目的とする教育ということになるはずです。その中核をなすのは、過去の戦争について学び、どのような態度や行動が平和を蝕んでしまうのかということへの理解でしょう。
 世界中のどの国もどの民族も戦争をしてきました。ですから、反面教師としての戦争の歴史のない国や民族は存在しないのです。そして、地理的、歴史的、経済的、宗教上の、など平和が保たれなかった直接的な理由は、国や民族によって異なるでしょうが、大きくまとめれば、合理的な思考、過剰に排他的な思考、異なる存在への不寛容、相互不信、大勢に逆らう勇気や平和を崩すものに立ち向かう勇気の不足などに集約されていくと思いまです。そこには、自国の歴史に対する行き過ぎた自虐も盲目的な自愛もなく、事実に対する確かな分析と子供の発達段階に応じた分かりやすさでそれを伝える工夫が必要とされます。前者は、学者の役目であり、後者は教えることの専門家である教員が担うことです。
 私が述べたことは緻密さには欠けるかもしれませんが、概ね受け入れていただけるものではないかと思います。上記のように、広島の県議や市議といった少なくとも一般的なレベルの判断力を持った人々から批判されるような平和教育にはならないはずです。しかし、現実には、右翼とか保守とかいわれる人たちから批判されるような内容と方法の教育が、「平和教育」となっているのです。
  平和教育は情緒教育であってはなりません。子供の情緒に働きかける教育だから、常に一方の側からは批判されるのです。情緒に訴える平和教育である限り、自愛主義に基づく平和教育を行ったところで、批判者と擁護者が入れ替わるだけで事態は変わりません。
 また、情緒は扇動に弱く、一つの出来事であっさりと裏返り反戦が好戦に変わってしまうのです。科学的合理的に戦争と平和を考える「平和教育」に、学校は取り組まなければなりません。

 

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専門的な教科教育の罠

2014-06-12 08:18:27 | Weblog

「授業への理解」6月5日
 『小中兼用の教員免許』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、文部科学省が、『小学校高学年での教科担任制を拡充するため小中学校の両方で教えられる免許を新設する』方針を固めたということです。
 さらに、こうした方針の背景として、『専門的な教科教育を促し、学力向上を目指す』『中学に進学すると、子供が(教科担任制という)学習環境になれず不登校が増える「中1の壁」が問題になっている』『「外国語活動(英語)」でも教員の指導力不足が取りざたされている』などが列挙されています。
 大変疑問な改革です。背景としてあげられている課題の中で、「中1の壁」は、壁が小5に移動するだけの話ですし、「外国語活動」問題は、外国語活動専科を設ければすむことです。ですから、この改革の主たるねらいは「学力向上」にあると考えるのが自然です。
 では、国語や理科、社会や算数・数学といった教科を教科担任制にすると本当に学力が向上するのかというと、どうしてもそうは思えないのです。授業は、学習者である子供が主体的に学ぼうとし、その意欲が挫折しないようにタイミングを見計らって適切な助言や示唆、情報や選択肢の提示、望ましい相互交流の場の設定、子供の発想や仮説・検証過程への評価などが行われることによって、充実した学びとなり、学力の向上へ寄与するのです。上記のような働きかけが教員の授業力を構成しているのです。
 教科担任制を拡充すると、小学校の高学年の授業における教員の授業力は高まるのでしょうか。私は大学で、小中高の社会科の教員免許を取得しました。中学社会の免許は、授業法に関わる内容はほとんどないというのが実情でした。今回の改革でも、『教員養成系大学だけでなく教職がある一般大学でも義務教育免許が取得しやすくなる』とあるのですから、授業法に関する内容が軽視され、社会科でいえば歴史や地理、理科でいえば物理や化学といった「親学問」についての知識が重視されることは確実です。それでは、ミニ学者は育っても授業の専門家は育たないのです。
 現状でも、中学校では授業法の研究は小学校に比べ低調です。授業を講義と同一視している教員も少なくありません。小学生は、講義型の授業に対する適応能力が低いのですから、安易な教科担任制の拡充は、授業に集中できない小学生を増やす結果になりかねません。今回の方針には、小学校における授業は知識の伝達ではなく子供が獲得するもの、小学校の教員は知識の伝達者ではなく子供の学びのレールを敷く者という基本的な理解が不足しているように思えてなりません。歴史や地理についてたくさんの知識をもつ者がよい社会科教員、物理や化学についてたくさんの知識をもつ者がよい理科教員というような思いこみがあるのではないでしょうか。

 

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正論「学ぶ権利」

2014-06-11 07:42:55 | Weblog

「正論」6月5日
 『児童の口に粘着テープ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『大声を上げるなどした1年生男児に対し、担任の女性教諭が静かにさせようと粘着テープの切れ端を示し、男児がそのテープを口などに張っていた』という事件があったそうです。事件の背景として、『男児は入学前から多動の傾向があり、家族が特別なケアを求めていた』『クラスにはほかにもケアが必要な児童が複数おり、学校は支援員を重点配置していた』であったことも説明されていました。
 私が注目したのは、児童青年期精神医学を専門とする杉山登志郎浜松医科大特任教授のコメントです。杉山氏は『授業が正常にできなければ、発達障害の子にとっても他の子にとっても、大事な学校が台無しになる』と指摘し、『特別支援学級も選択しやすくする』という解決策を提示しているのです。全くの正論だと思います。
 問題なのは、こうした正論が脇に押しやられてしまう風潮にあります。障害のある子供の就学をめぐっては、障害のない子供たちと一緒に通常学級で学ばせることが望ましい、という間違った常識がはびこっているのです。こうした主張をする人たちに共通するのが、障害のある子供も他の子供と同じ環境で学ぶ権利がある、誰でも自分が望む環境で学ぶ権利がある、というような間違った人権論です。また、障害のある子供とともに学ぶことによって障害のない子供も多くのことを学ぶことができるというような誤解もあります。
 子供の学びを考える場合、杉山氏が指摘するように「他の子供」の学ぶ権利も考える必要があります。授業中に大声を出し続ける子供の隣の席で授業を受ける子供にとって本来あるべき学習権が確保されているのか、という視点です。共生というような抽象的な理想論ではなく、実際にその子供の立場に身を置いて考えてみなければなりません。
 さらに、教育基本法に「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる機会を与えられなければならない」とあるように、その子供の能力に応じた教育を受けることが重視されなければなりません。
 私は教委勤務時代に長く特別支援教育を担当していました。そこで実感したことは、特別支援学級の担任の専門性の高さです。そして、教育論というよりも運動論として障害のある子供の通常学級への就学を進める活動家の口車に乗って、通常学級に入り単なるお荷物となってしまった子供の姿です。彼らは必要な時期に必要な支援を得られなかったため、成長に機会を逸し、特別支援学級で学んだ子供たちとは大きな差が生じてしまっていました。彼らの多くは、中学校から特別支援学級に入りましたが、その時点ではもう遅れを取り戻すのは難しかったのです。そんな彼らを見て、「小学校の時から私たちのところへきていたら」と悔し涙を流す特別支援学級の担任たちの姿も目に焼き付いています。
 私は子供がいませんが、もし我が子に障害があったとしたら、障害のある子供の教育について理解と経験を有する特別支援学級の担任の下で生活させたいと考えたと思います。学校の実態として、通常学級の担任の多くは特別支援教育についての知識も経験も不十分です。また、実際に30人の子供に授業をしながら個別の配慮をするのは容易ではありません。何が何でも通常学級へ、という風潮は見直されなければなりません。

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夢を追うために

2014-06-10 09:52:30 | Weblog

「夢」6月3日
 読者投稿欄に、京都市の大学生川端明香里氏の『小学校教諭の夢に向け努力』という表題の投稿が掲載されました。頑張ってほしいものです。本当に素直にそう思います。川端氏は、『自分にきちんと向き合ってくれる担任の先生の姿を見て』教職志望を決めたそうです。私は、教え子に「先生みたいな先生になりたい」と言われるのが夢だったので、川端氏の担任の教員が羨ましいです。きっと素晴らしい教員だったのでしょう。
  ところで、川端氏の投稿の中に少しだけ気になる記述がありました。それは、『勉学以外の面でも児童の立場にたつことを忘れない教師でありたい』『大学で高度な専門性を身に着けていきたい』という2つです。
 私が教委に勤務し、新規採用教員の面接を担当していたとき、多くの人が川端氏のような発言をしていました。そんなとき、若い方の夢を壊すようですが、具体的な場面を描く想像力を発揮してみてほしいと思ったものでした。
 例えば、自分が担任する学級でいじめが発生し、いじめられた子供が不登校になり、その保護者からの訴えで調査してみると、10人近い子供がいじめに加わり、それ以外にも学級の20数人が傍観者として消極的に加担しているというケースで、子供の立場に立つとはどういうことなのか、考えてみてほしいのです。なお、こうしたケースは決して珍しいものではありません。
 上記のようなケースにおいて、未熟な教員は、次々に明らかになる情報に振り回され、自分の立ち位置を見失ってしまいます。いじめ被害者は一人であり、加害者側は学級の大多数です。聞き取り調査で聞かされる「声」は、被害者の子供が自分勝手であり、かつてはいじめる側の中心人物であり、自分たちは控えめに反撃しただけだという加害者の主張が大部分を占めます。実際、そうした主張を裏付けるような事実ばかり出てくることもよくあります。被害者側に立って指導しようとすると、学級の子供全員が教員に対してボイコットのような姿勢を示すこともあります。教員自身が孤立したような情勢の中で、多数派に阿ってしまった方が楽であり、そうした誘惑に負ける教員は少なくありません。
 どう対処すべきかは、今までこのブログの中で再三具体的に述べてきたので、ここでは触れません。ただ、学校は子供たちが集団で生活をする場であり、子供対大人という対立よりも子供同士の対立やトラブルがほとんどを占めるのです。ですから、学園ドラマのように、子供を管理しようとする大人と抵抗する子供というような構図はめったにありません。また、子供の中に弱者と強者がいて、弱い立場の子供の側に立つというような単純なものでもありません。いじめの被害者と加害者が入れ替わってしまうことが珍しくないように、子供同士の人間関係は常に動き続けているのですから。
 もちろん、「子供の立場に立つ」という志そのものが間違っているというのではありません。そうした思いは尊いものです。ただ、実際に教員にならなければわからない部分もあり、学生時代にはメディアなどで取り上げられるいじめ事件などを例に、自分だったらどうするか、それは本当に実行可能か、などシミュレーションする習慣を身に着けてほしいと思うだけです。そうした繰り返しの中で磨き抜かれた思いこそが、本当の力となってくれるはずです。
 また、「高度な専門性」については、具体的にどのようなことをイメージなさっているのか、ということが気になりました。私は、拙著「教師誕生」の中で、新規採用の教員が授業や学級経営に悩む姿を紹介してきましたが、教員にとっての専門性とは、歴史や科学についての知識ではありませんし、児童心理や初等教育概論などの知識でもありません。教員にとっての専門性は「教えること」です。ある知識や概念、考え方などについて知っていることではなく、それらを限定された条件の中で、どのように子供自身に獲得させるかということであり、そのための様々な手段を自家薬籠中の物にすることができているか、なのです。それは、実際に子供との触れ合いややり取りを通して体得していくしかないのです。大学での学びを軽視するわけではありませんが、教員になってからの自己研さんこそが教員として輝く鍵だということを忘れずにいてほしいと思います。大学で学んできたから、教員としての能力を身に着けたなどと考えていては、必ず失敗してしまいます。

 

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想像力欠如

2014-06-09 07:11:16 | Weblog

「想像力欠如」6月3日
 精神科医の香山リカ氏が、『おとなに疑問を抱く瞬間』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、ご自身の中学生時代の出来事として、担任が給食を残すのは許さないという決まりを作り、こっそり嫌いな食材を捨てた級友が担任に見つかったときの顛末を綴っていらっしゃいます。
  『「捨てた人も見逃した人も、いや、みんなの連帯責任だ」と激怒して、「授業が終わった後、みんなに居残って反省文を書いてもらいます」と言った。いま考えても理不尽な話だが、10代半ばの私たちはなんだかやたらに気持ちが高揚し、「反省文なんて書くのはやめようよ」と全員で決めた。そいて、先生が「反省文を書いた人から職員室に持ってきて」と言い残し~(中略)~結局、「もうわかった。帰りなさい」と帰宅許可を勝ち取った』というものです。
 香山氏は、このエピソードから表題のように『おとなに疑問を抱く瞬間』の意義について話を進めていますが、私は教員のタブーについて考えてしまいました。この担任は、教員がやってはいけないいくつかのタブーを犯しています。
  まず、「激怒」したことです。激怒は感情の爆発であり、そこでの言動は、子供のために行われる指導ではなく、教員自身の感情を発散させるだけの行為でしかありません。子供はそうした点を敏感に感じ取るものです。「激怒」と受け取られた時点で、指導は成立しなくなっています。
 次に、『給食を残すのは許さない』という決まりを作ったことです。「いじめは許さない」や「暴力は許さない」というスローガンであれば問題ありません。それは、いじめや暴力は「悪」だからです。しかし、給食を残すことは、「悪」ではありません。望ましくない(それも疑問だが)けれども誰しもが仕方なくしてしまう可能性があるという程度のことでしかありません。「悪」ではないことについて、許さないという強い表現を使ってはいけないのです。許さないのであれば、その行為を目にしたとき、罰しなければならなくなります。しかし、「悪」でもないことでいちいち罰していたら、一日中罰を与えることに終始しなければならなくなります。「廊下を走ることは許さない」「授業中のおしゃべりをすることは許さない」という決まりを作り、罰していたら学校生活は成り立ちません。こうした指導課題については、いけない理由を説き、その都度繰り返し注意するという根気強い指導が必要なのです。
 そして、『連帯責任』という発言です。封建時代の5人組に代表されるように、連帯責任は管理と抑圧の手法であり、教育の手法ではありません。どのようなケースでも決して取り入れてはいけません。さらに、連帯責任を口にするとき、教員は問題となっている状況についてきちんと調べ把握するという努力を欠いている場合がほとんどです。一人一人の葛藤や揺れ動いた心情などを丁寧に聞き取る手間を省き、教員が楽をしようとする行為なのです。
  さらに、「反省文を書いた人から職員室にもってきて」と言ってその場を離れたことです。教員の指示で居残りをさせながら、その場の状況を管理せずに放置しているのです。もし、その場で生徒同士のトラブルや事故が発生した場合、学校は管理責任を問われるのです。それは、担任が責任をとれることではありません。
 最後に、反省文を書くまで帰さないという趣旨の発言をしていることです。教員は子供に対してできないことを口にしてはなりません。この教員は、もし、生徒たちが夜の9時になっても10時になっても反省文を書かなかったらどうするつもりだったのでしょう。保護者からうちの子がまだ帰らないという電話が殺到しても、教室に閉じ込めておけるのでしょうか。校長が、「○○先生、今日はもう下校させなさい」と言ってもその指示に逆らい続けるのでしょうか。そんなことはできません。そして発言内容の是非はともかく、一度口にしたことを撤回するという醜態を演じ、子供からの信頼を喪失してしまうのです。
  今でもこんな教員がいるような気がします。

 

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人は見た目が

2014-06-08 07:06:47 | Weblog

「人は見た目が」6月1日
 放送タレントの松尾貴史氏が、『AKB襲撃の大報道 連鎖が心配』という標題でコラムを書かれていました。その中に、『以前、容疑者が働いていた先の関係者がインタビューで、「問題はなかった。あんな事件を起こすようなタイプじゃないのに」と語っていたが、違和を感じた。この関係者は、「あんな事件を起こすタイプ」の何人とかかわってきたのだろう』という記述がありました。
 思わず笑ってしまいました。私自身、同じような質問を受け、同じような受け答えをした経験があるからです。痴漢やのぞき、セクハラなどで処分を受けた教員の研修を担当していたとき、メディアの方から当該教員について、「いかにもそんなことをしそうな嫌らしい感じでしたか」と訊かれることが多かったのです。そして、「そうは見えません、普通ですね」と答えていたのです。
 当時は何気なく受け答えをしていたのですが、よく考えればおかしな話です。私自身、一般的な教員や校長、教委の関係者に比べて、そうした「破廉恥行為」をした教員に接する機会は多かったはずですが、それでもせいぜい十指に余る程度でしかありません。しかも、日常的に接しているのではなく、教委に呼び出され尋問されたり、反省を述べさせられたりしているときの印象なのですから、かなりいい加減なものです。
 常識的に考えても、痴漢をしそうだったり、セクハラをしそうだったりと感じられるような人物が教員として職務を遂行していくことは難しいでしょう。保護者や生徒、同僚も近づこうとはしないでしょうから、授業も校務も支障をきたすはずです。そうなれば校長らが指導をするはずです。また、地域でも噂になり、それは地域の実力者や議員などを通じて教委にも伝わるはずです。
 つまり、「事件を起こしそうなタイプ」か否か尋ねることはあまり意味のあることではないのです。それなのにどうして、事件がある度にメディアの方はそうした質問をするのでしょうか。
 それは世間の人一般に、その人の本性はいくら隠しても容姿や言動に表れるという考え方が浸透しているということなのではないかと思います。分かりやすさを求めるのは人の常ですから、仕方がないことかもしれません。しかし、どんなときでも子供を理解しようとする姿勢が不可欠な教員は、外面で人を判断してはいけません。子供が問題を起こしたとき、担任教員や顧問の教員に、「盗みをしそうな子だったか」などと訊く管理職はいないでしょうね。

 

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