「極秘情報?」6月23日
『麻生副総理「けんか弱い金持ちの子がやられる」』という見出しの記事が掲載されました。麻生氏が、集団的自衛権を説明するのに学校のいじめに例えたという記事です。記事では、『特定条件の子どもはいじめに遭いやすいと無批判に発言した麻生氏の姿勢が問われそうだ』と書かれていますが、当然非難されるでしょう。
しかし私が気になったのは、そんな当たり前のことではありません。麻生氏の失言癖は周知のことで、それを責めるのは他の方にお任せしたいと思います。私は、麻生氏の発言の根拠は何かということが気になるのです。
麻生氏は首相を務めたことがありますし、谷垣前自民党総裁や安倍首相と小泉元首相の後継首相を争った自民党総裁選で教育政策を打ち出したこともあります。そのときの麻生氏の政策は、今回、義務教育の前倒しという形で実現しつつあります。つまり、麻生氏は、我が国の教育政策に関心を持ち、影響力を有する存在であるということです。
当然、文部科学省との間に、非公式な情報ルートや人的ネットワークを持っているはずです。話の規模は小さくなりますが、私が教委に勤務していたときに行われた首長選挙では、現職候補から選挙で打ち出す教育政策についての助言を求められたことがありました。もちろん、非公式に、ということです。
ここ数年間、学校におけるいじめの問題は、教育行政上の大きな課題でした。自分の経験からも、麻生氏がいじめ問題について、文部科学省筋から何らかの情報や提言を受けていた可能性を無視することはできません。そうだとすれば、文部科学省は国立教育研究所等を使い、密かにいじめられやすい子供の性向について、というような調査研究を行っており、その結果として『勉強ができない、けんかが弱い、金持ちの子』といういじめられっ子像が浮かび上がっていたのではないか、という想像をしてしまうのです。それを、聞かされていた麻生氏が、口を滑らせてしまったのではないかという疑いをもつのです。
もしそうなら、文部科学省は、国民に対して二枚舌を使っていたことになります。そんなことはないはずだと思う反面、疑いは消えません。文部科学省は、いじめられる子に特定の傾向があるという調査結果は存在しない、とはっきりと否定してほしいものです。
「教員の愚痴」6月20日
『続報真相 自衛隊員の本音は』という表題の特集記事が掲載されました。集団的自衛権行使容認論議について、現場の自衛隊員や家族の声を集めた記事です。その中に、30代の陸曹長の『国際貢献や災害派遣で人の役に立ちたいと入隊したのに、自衛隊の活動内容の拡大に歯止めがかからなくなると、自分の命の問題になってくる。命をかけて国を守るのは建前だが、正直不安しかない』という言葉がありました。
本心だろう、と思います。私が高校生のとき、友人から防衛大を受験してくれと頼まれたことがありました。彼の父親が防衛庁に勤務しており、当時人気のなかった防衛大の受験者を増やすように働きかけるポストにいたため、合格しても入学しなくてもいいから受験してくれ、ということでした。結局受験はしませんでしたが、友人の頼みということでずいぶん迷いました。迷ったということは、自衛隊に入るということが、十分選択肢の一つとしての意味があったということです。
それは、身分が安定していることや様々な資格が取れることもありましたが、何よりも自衛隊は実際に戦闘行為はしないということが当時の常識だったからでした。口喧嘩以外、喧嘩すらしたことがない私にとって、銃弾に当たるなどという肉体的苦痛は、絶対に耐えられるものではなかったのです。もし、戦闘行為への参加があるという認識であったら、即座に断っていたことでしょう。
おそらく前述の陸曹長も同じ意識だったと思います。厳しいが安定した職だと思って選択したのに、戦場に行かされるということになったら、というのは「約束が違う」と叫びたい思いでしょう。それでも、国を守るために銃をとるという建前の前では、大きな声では言えないというわけです。
深刻さは比べようもありませんが、教員も似たようなものです。35年以上昔、私が教員になった頃、教員は授業をする人でした。大学でもそう教わりましたし、教育実習でも、教員採用の説明でも、同じでした。しかし、現在では、教員には、臨床心理士的な知識委と技能、ソーシャルワーカー的なハウツー、アレルギーや発達障害・性同一性障害などについての医学的知識、モンスターペアレンツに対応するための法的知識など様々なものが求められるようになりました。こんなことまで、と内心感じているベテラン教員は少なくないはずです。
また、私は中高大と英語が大の苦手でした。だから小学校の教員になったとき、これで英語とは無関係になったとホッとしたものでした。でも、もし現在も教員を続けていたとしたら、英語の勉強をまた始めなければならないと、それが原因で退職を決意することになっていたかもしれません。
我が国では、ある職に就くときに、職務の内容を契約書という形で確認するという習慣はありません。だからこそ、あれもこれもやらなければならないのです。一方、欧米では、職の範囲が明確に定められており、「それは私の職務ではありません」と契約にないことにはいっさい手を出そうとしません。もし、教員として採用されるときに、職務の内容という契約書があったとしたら、こんなに次から次へと新しい能力の獲得を求められることもなかったのかもしれません。しかし、実際には、子供のためという錦の御旗の下、苦情も不平も言えないというのが実情なのです。
5年後には、10年後には、教員はどんな能力が必要とされているのでしょうか。そのために、肝心な授業力がおろそかになるということはないのでしょうか。それとも、教員にとって、授業の優先順位は下げられているのでしょうか。
「過大評価」6月19日
『日教組 日本のがん』という見出しの記事が掲載されました。NHK経営委員の百田尚樹氏の後援会での発言を報じる記事です。『日教組は何十年間も、純粋無垢な子どもたちに贖罪意識を教え込んでいる。まず「日本は素晴らしい」ということを教えなければいけない』との発言です。
またか、という思いです。確かに日教組に代表される教職員団体が、自分たちの偏った思想に基づく教育を推し進めた時期がありました。しかしそれは、ほぼ過去の問題といってもよい現状にあります。端的に言って、現在の日教組にはそれほどの「力」はありません。百田氏の指摘は、20年前、10年前であればそれなりの重みがありましたが、現在では的はずれであると言わざるを得ません。
私は、拠点校、即ち教職員団体の力が強く校長の経営権確立が困難な学校に勤務してきました。校内で私一人が「非組」であったときもありました。職員室で陰湿ないじめや無視にあったこともありました。教委の幹部として勤務した地域も、職員団体の力が強いところで、正に戦いの日々を送ってきました。骨の髄から「反組」です。
そんな私でも、百田氏のような指摘には賛同できません。「日教組」戦犯説を主張する人に欠けているのは、具体的な事実に基づく指摘です。彼らの中には、日教組と全教の区別もつけられない人がいます。民主党を支持する日教組の東京支部を含む連合東京が、反原発を掲げる候補を支持しなかった都知事選にみられるような保守化についても目をつむっています。
さらに、具体的にどのような学習場面で、「贖罪意識」を過剰に押しつけているかという指摘がありません。何年生の何の教科の何という単元での学習を指しているのでしょうか。南京大虐殺を授業で取り上げるとしたら、小6の2学期の社会科です。おそらく2単位時間、90分のことでしょう。百田氏の主張が事実だとするならば、そこでどのような授業が行われているか、調査してみてから発言すべきです。
実態は、残念ながら、大多数の学級でおざなりな扱いしかなされていません。子供たちに訊いても、何を勉強したか覚えていないと言うのが過半数でしょう。意欲的な教員が担任した学級でも、「東京大空襲で家族が死んでしまった人の話はかわいそうだった」と言うような感想や、「お米を一升瓶に入れて棒で突いて食べられるようにするのは疲れた」「当時の食べ物を再現した食事はまずかった」というような疑似体験での感想が聞かれるくらいです。
「日の丸の赤は日本軍が殺した人の血の色、白は包帯の色」などという奇抜な発想をもった授業は今や伝説にすぎないのです。アジテーションではなく、実態を踏まえた批判を期待したいものです。
「前提には触れず」6月19日
『教育サミット開催検討 財源確保理解求め』という表題の記事が掲載されました。記事によると、『国が現在検討している教育改革は、小中一貫教育学校の創設▽小学校英語の教科化▽幼児教育の段階的無償化-などがあるが、実現するための財源が不可欠~(中略)~政府は将来に向けた人材育成の重要さと、そのための財源確保について世論を喚起する必要があると判断。教育サミットを開催し、国民の理解を求める考えだ』ということです。
へぇーそうなのか、という思いです。教育サミット的なものを開催すること自体には反対ではありません。ただ、その位置づけに驚いたのです。記事を読んだ限りでは、小中一貫校設置や幼児教育の前倒しなどの施策の是非については論じることなく、そうした施策を行うことを前提として、これらの施策は正しく大切だから予算をつける、ということだけについて理解を深めるという位置づけになります。
ある意味ずいぶんと傲慢なやり方です。国民の代表者で構成された国会において、制度改正が認められたわけでもないにもかかわらず、既に決定済みであるかのように扱っているのですから。
私は長年自分が学校教育に携わってきたため、学校教育に予算を投入するということに対して、他の人よりも寛大な傾向があると自覚しています。しかし、そんな私の傾向を差し引いても、我が国の国民性として子供の教育を重視し、教育予算を増額する事への抵抗感は少ないというのが現実だと思います。
教委勤務時代にも、学校教育に関する予算については、議会からは、スクールカウンセラーの全校配置や図書館指導員の配置時間の増加、パソコン設置台数の増加、教室へのクーラー設置など、予算増を伴う声ばかりが聞こえてきました。赤字財政で四苦八苦していたにもかかわらず、です。しかも、党派を問わず増額を求める声が高かったのです。
ですから、教育改革に要する予算確保は、様々な増税や負担増、年金等の切り下げなどに比べて、反対が少ないはずなのです。それにもかかわらず、大仰にサミットを開くというのは、単に自分たちの施策に国民的理解があるという箔付けのために行うのではないかという疑念を抱いてしまいます。
小中一貫校の設置は、6・3制の見直し又は義務教育の複線化導入という戦後の教育制度の見直しにつながる大改革ですし、義務教育前倒しは、家庭と学校の教育機能分担を根底から見直すというこれも大改革なのです。根本から議論する教育サミットこそ必要だと思います。
「どうやって?」6月17日
『新教委制度 住民が厳しくチェックを』という見出しの社説が掲載されました。冒頭に『来春から教育委員会の仕組みが変わる。子供たちの今と将来にプラスなのか。懸念は小さくない。地域住民によるチェックが欠かせない』と書かれています。
そして後段で『住民も傍聴などを通じて(総合教育会議の)論議の内容や問題点を見据えたい』と書かれているのですが、チェックに関わる内容はこれだけです。私には、新制度下でのチェックというのが、うまくイメージできないのです。
現行制度でも、毎月定例の教育委員会は公開され、傍聴可能です。私が勤務していた市は教育に対する関心が高く、毎回傍聴者がいました。発言に際しては傍聴者を意識し、内容だけでなく誤解を受けない表現に注意したものでした。おそらく、都内の実態の中でも、そうした「チェック」が最も盛んにおこなわれていた自治体であったように思います。
しかし、私たちが住民のチェックを意識していたのは、教委の非力さという理由の方が大きかったように思います。何かあれば、力の弱い教委は力の強い首長部局から「叱られる」ので、住民からの要求や苦情への対応を誤り、教育長や教育部長が、市長や副市長から叱責されることを恐れていたのです。
一方で、民意によって選ばれたという盾をもつ首長は、一部住民の苦情などは恐れません。石原慎太郎衆院議員が、都知事であったとき、シナやくそババアなどの乱暴な発言を平気で繰り返していたことを思い出せば理解できると思います。もし、同じ発言を教育長がしていたら、直ちに辞任に追い込まれていたはずです。
首長は、自分を支持する住民を怒らせなければよいだけで、元々自分に反対する住民のチェックなど無視してしまう強者なのです。実際、自民党の支持や推薦を得て当選した首長にとって、共産党や生活ネットなどの支持者の住民が何を言おうが蛙の面に何とか、です。安倍首相が偏ったメディアなどで言動を批判されても、そうした発言がかえって自分の支持者からは評価されるのを想起してもらってもよいでしょう。
つまり、教育行政の権限が弱者である教委から強者である首長に移ったということは、必然的にチェックが利かなくなるということなのです。もう少し、具体的にチェックの方法を示してもらえないでしょうか。
「お国のために」6月17日
安部首相が成長戦略を発表しました。その詳細を報じた記事に次のような記述がありました。『グローバル化に対応する人材力の強化 (1)(2)=略 (3)具体的施策 小学校での英語教育実施学年の早期化に向けた学習指導要領の改定を16年度に行うことを目指し、初等中等教育段階での英語教育のあり方を検討し、本年秋をめどにとりまとめる』というものです。
別に目新しい情報ではありません。ただ、小学校の低学年から英語を教科として実施するというのが、成長戦略の一環として考えられ、小学校教育が人材力教科を目指して行われるということに感慨を覚えるのです。
学校教育を巡っては、大きく分けて2つの考え方がありました。国家や社会のために行うという立場と子供の幸せや自己実現のために行うという立場です。もちろん、両社は対立する概念ではありません。国家の安定や社会の平和なしに個人の幸せはありえませんし、国家や社会を構成する個人が幸せであることは国家や社会が望ましい状況にあることの証明でもあるからです。
しかし、どちらを目的に据えるかということは小さな違いではありません。戦時中の学校教育が、子供個人の学ぶ喜びや成長への充足感よりも、国が行っている戦争に役立つという視点で考えられていたのは事実でしょう。そして、そうした方向性には問題が多いという反省から、戦後教育がスタートしたのも事実です。
以後、60年以上にわたり、我が国では学校教育への基本姿勢は、時計の振り子のように何回も揺れ動きながらも、義務教育に対して、経済的な国力向上のための人材育成を、今回の「人材力の強化」というような直接的な表現で求めることはありませんでした。
今から約20年前、日経連は、「新時代に挑戦する大学教育と企業の対応」という提言を発表し、経済同友会は、「大衆化時代の新しい大学像を求めて」を発表しましたが、小学校の教育内容への言及はなかったのです。もっとも、同友会は「学校から合校へ」という提言はありましたが、学校のスリム化多様化を求めたもので、直接的に企業戦士予備軍育成を求めたわけではありません。
人材力向上のための小学校教育という発想に違和感をもつのは私だけなのでしょうか。
「そうではありません」6月16日
『いじめ解決へ教師の研修を』という表題の教育評論家尾木直樹氏へのインタビュー記事が掲載されました。『教師の「階級」制度』、教委の『「組織防衛」的な意識』など首肯できない指摘がありましたが、教委勤務経験のない尾木氏の教委論については以前にも触れていますのでここでは触れません。ただ、メインテーマである研修のあり方についてはどうしても触れずにはいられません。
尾木氏は、『現代のいじめの特徴や思春期の特性についてしっかり身に着けてもらう』と望ましい研修について述べていらっしゃいます。もちろん大切なことです。しかし、実際にいじめに直面したとき必要になるのは、「現代のいじめの特徴」を知ることでも、「思春期の特性」を理解しておくことでもありません。予期される状況とそれへの向き合い方こそ、重要なのです。
いじめは多数の子供が個人、もしくは少数の子供に対して行うものです。そして、より多くの傍観者という消極的加害者が存在するのが常です。30人の学級で言えば、1人の被害者と5人の積極的加害者・20人の消極的加害者が対峙するという図式が一般的なのです。それは、保護者にも適用されます。保護者会でも多数派は「加害者の保護者」なのです。そして、多数派の働きかけにより、PTAでも地域でも、加害者側の味方が多いのです。つまり、教員は、こうした多数派と対決することになるわけです。
多数派は、被疑者の落ち度や欠点を指摘し、自己を正当化しようとします。「だらしない」「集団の決まりを守らない」「約束を守らない」「平気で嘘をつく」「人を傷つけるようなことを口にする」などの「事実」が並べられます。人間である以上、過去数か月を振り返れば、誰でも間違いはあるものです。これらはすべて事実であるケースがほとんどです。これで、弱い教員は「被害者にも責任があるのでは」とブレだしてしまうのです。
また、「以前はいじめの中心人物だった」などというケースさえ珍しくありません。そしてこの指摘には、「そのときあんた(教員)は気付きもしなかったし何もしてくれなかった」という無言の非難が含まれており、教員をチクチクと刺すのです。弱い教員は、「バランスをとるためには今回の件は穏便に」というような思いを抱いてしまいがちなのです。 さらに、加害者側は、こうした攻撃をした上で、「私たちは○さんがそんなにつらい思いをしているとは思っていなかった。直接話し合って気持ちを確かめたい。その上で、本当に悪いことをしていたのなら謝罪したい」と言い出します。既に加害者側の度重なる揺さぶりに参っている弱い教員は、この申し出を受け、両者の話し合いを設置し、そこでは1対多数の話し合いというつるし上げが行われ、それ以上傷つくことに耐えかねた被害者は表面的で偽善的な仲直りを受け入れざるを得なくなり、弱い教員は、これで重圧から解放されると考え、この「解決」を歓迎し、いじめはめでたく解決したことになってしまうのです。そして、出口をふさがれた被害者は、以前よりも深刻な絶望状態に陥るのです。
ここまで書けば明らかなように、いじめ問題に対応する教員にとって一番大切なのは、誰に対してでも、どんな事情があろうとも、いじめは絶対に許されないという立場を貫く強さなのです。
私は学級担任の時に直面したいじめ問題を、まず子供たち全員への謝罪から始めました。いじめに気付かず、問題を深刻化させ、被害者も加害者も含め多くの子供を傷つけたことを謝罪し、学級の子供たちのことはみんな好きで大切に思っていることを伝え、その上で「いじめという行為」は決して許さないと述べたのです。教員として自分を守ることはしないし、いじめた子供を責めたり見捨てたり嫌いになったりもしない、ただ、いじめるという卑劣な行為は絶対に認めないという立場を明確にしたのです。こうした強さが大切だということを、事例を通して学ぶような研修こそ、望ましいのです。
「不思議なシミュレーション」6月14日
『教委改革法が成立』という見出しの記事が掲載されました。その中に、同法施行によって起こりうるケースをシミュレーションした記載がありました。そこに潜む一方的な先入観が気になりました。
ケース①として、『市長は、学校別の成績を公表して各校を競わせ、市全体の学力向上~(中略)~市長は総合教育会議を開催。学テの学校別成績公表を大綱に盛り込む意向を示した。だが、教育委員からは「序列化につながる」と反対論が続出した』があげられています。ケース②は、『生徒が自殺~(中略)~学校や市教委は遺族に「いじめは確認できなかった」と説明。遺族はいじめの可能性を疑い、学校や教委に不信感を募らせる』というものです。
こうした事例について、記事では『隠蔽体質などが指摘された教育委員会が改善する可能性もある』と指摘した上で記載しています。ここでは、市長が改革派、教委は抵抗勢力として位置づけられています。どうしてなのでしょうか。
ケース①について考えてみます。市長が、学テ公表によって学力向上を果たすという公約を掲げ選挙戦を勝ち抜いたとします。ところが、4年後の選挙のとき、学テ公表にもかかわらずその市全体の結果は以前よりも悪化し、県内での比較でも低位となってしまったとします。その結果を公表すれば、公約違反となります。学テ公表という予算措置のいらない安易な手法だけに頼った無策を批判されたくない市長が、今年度は公表を取りやめるという方針を打ち出し、その理由として「学校間に過度の競争意識が生まれその弊害について検討する必要がある」と言い出した、という逆バージョンのシミュレーションも可能です。
ケース②についても考えてみます。市長が肝煎りで始めた民間人校長制度。その第1号として市長が強引に引っ張ってきたA氏が校長を務めるB中学校で生徒が自殺。調査の結果、いじめが疑われ、しかも校長が部活顧問からの情報提供を軽視していたことが判明。そのまま報告すると、市長自身の任命責任が問われかねないため、調査結果は一部非公開に、という逆バージョンはどうでしょうか。
私は同法に反対を唱え続けてきましたから、この2つの逆バージョンシミュレーションについて、意図的にありえないことをあるように創作したと言われてしまうかもしれません。そうかもしれませんが、そもそもシミュレーションとはそうした性格をもつものです。それなのに、同法についての議論では、賛成側も反対側も、教委に隠蔽体質、抵抗勢力のレッテルを張ることについては共通している点が気になったのです。政治家の当選したいという思いを軽視することもまた、非現実的だということを覚えておいてほしいものです。
「最も大切なのは」6月14日
『「性同一性障害」悩む子606人』という見出しの記事が掲載されました。文部科学省が全国の学校について調査を行った結果を報じる記事です。その中に、『本人が自認する性別の制服着用を認めるなど特別な配慮をしている事例は6割にとどまった』という記述がありました。
とても気になります。もちろん、制服や着替え、トイレなどの配慮は必要ですし、6割という数値は低すぎます。しかし、そうした形に見えやすい配慮だけでなく、どうしてそうした配慮が行われているのか、ということをすべての児童生徒に理解させることこそが、最も大切なことだと考えるからです。記事では、その点についての記述は皆無でした。
「どうして○○ちゃんだけ女の先生のトイレに入っていいの」という子供の問にどのように答えるか、戸籍上は女でも自分を男としか感じられない生徒に対して、「女のくせになんでズボンなんだよ」という不用意な言葉が浴びせられることがないようにするにはどうすればよいか、という問題と向き合う必要があるのです。
制服や着替え、トイレなどについての配慮は、ある意味「簡単」なことです。校長が決断しさえすれば、その日から実行可能です。しかし、周囲の子供の性同一性障害への理解を深めること、知識を覚えさせるということではなく、感覚として深く浸透させることは大変困難です。子供の発達段階に応じて、周到で緻密で系統的な計画を立て、小学校1年生から高等学校卒業まで、繰り返し深化させていかなければならない教育課題です。
私は、学校がブラックホールのように次々と新たな教育課題を押し付けられる現状を批判してきました。しかし、この問題は別です。それは最も重要な人権に関する問題であり、しかも家庭や地域で学んだり経験したりするのでは、あやふやでいい加減な知識を身に着けかねない事柄であり、学校という教育機関がきちんと指導することが求められると考えているからです。
基本は、人間の多様性への認識、多様なままで生きることこそ人権の根幹であるという感覚にあります。「性同一性障害」という障害があるのだから特別な配慮をしてあげましょう、という「健常者」の上から目線ではなく、さまざまな個性を持つ人間同士がお互いに尊重し合って気持ちよく生活していこうという感覚です。英語を母語とする子供が学校生活を送りやすいように英語の表示を増やす、宗教上の理由で豚肉を食べられない友人のために別の給食メニューを用意する、というのと同じなのです。たまたま、この学級、この学校では、日本語を母語とする非イスラム教徒が多いけど、よその場所ではそうとは限らないように、少数者と多数派の間に上下感覚や特別扱いの感覚があってはならないのです。しかし、これはとても難しいことでもあります。
文部科学省が作成する指導資料に期待したいと思います。
「2割は?」6月14日
『保護者の8割「自分に原因」』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、NPO法人の調査の結果が、『子供の非行に悩んだことのある保護者の8割が、自分に原因があると感じている』であったということです。正確には、77%という数値だそうです。
残りの2割は、正確には23%の保護者は、我が子の非行について、自分には原因がないと考えているということになります。しかもこの調査は、我が子の非行に悩んだことのある保護者が回答したものであり、非行事実があっても悩んでいない保護者は含まれていないわけです。私の経験からすると、子供の非行に悩まない保護者というのは一定の割合で存在します。「俺もやんちゃだったから」「若いうちには誰でも悪がるもの」「たばこや酒は家の中ならいいと言っている」というような意識の保護者は少なくないのです。
さらに、「自分に原因があると悩んでいる」ということと、自分に責任があると考えているということは違います。貧困や家族の看護や介護、配偶者のDVなど、家庭内に問題を抱え、「子供の非行どころじゃない。子供には悪いと思うがそこまで手が回らない」という保護者もいます。子供のことで家庭訪問をしても、「だったら先生が引き取って飯を食わせてやって」と開き直られることもあるのです。そんな保護者にしてみれば、「私が原因かもしれないけど、この環境の中ではよくやっている方だ。責められる筋合いはない」という思いなのです。
ですから、私の実感では、「非行少年」の保護者の4割以上が、自分の責任を感じていないことになります。その上、この調査では、子供の非行への対応方法が分からないという保護者が9割を超えているというのです。
調査を行ったNPO法人の幹部は、『親を責めるのではなく支え、子供と一緒に見守る環境』が大切だとコメントしていますが、親の無責任や無自覚、無能力のツケを誰が払っているのかということについても考えてほしいものです。学校が、それも管理職と生活指導担当、担任教員など一部の教員が夜遅く、休日まで削って対応しているのが現状なのです。
教員にも見守りと支援を、というと甘えになるのでしょうか。