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ベテスダの池の奇跡とそれに続く論争―イエスは命の君

2015-09-29 21:24:39 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第5章(5・1―47)ベテスダの池の奇跡とそれに続く論争―イエスは命の君
5・1~9a 38年間もわずらっていた中風病者をいやす
1 こののち、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。[彼らは水の動くのを待っていたのである。
4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5 さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
9a すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
1 《ユダヤ人の祭》は、過越の祭。イエスの第二回目の上京である。
2 《ベテスダ》は「恵の家」の意。城内の東北部、今日ではステパノ門に近い、聖アンヌ教会の下に位する。
3 気の毒な人々の群れ。いやされたいとの強い一念から、他人をおしのけて、まっ先を争う生存競争である。
6 この病人は、イエスの《なおりたいのか》という言葉により、全注意をイエスに向け、そして自分の痛ましい状態を知らせる。彼はまったくひとりであった。

ヨハネ黙示録 第六章 七つの封印の解除―第一から第六 

2015-09-28 15:31:51 | 日記
ヨハネ黙示録 第六章 七つの封印の解除―第一から第六 
2015/9/28
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
6・1~8 第一から第四まで
(1)小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。
(2)そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
(3)小羊が第二の封印を解いた時、第二の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。
(4)すると今度は赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、また、大きなつるぎを与えられた。
(5)また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。
(6)すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは、一デナリ、大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。
(7)小羊が第四の封印を解いた時、第四の生き物が「きたれ」という声を、わたしは聞いた。
(8)そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉(よみ)が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣(けもの)らとによって人を殺す権威とが、与えられた。

(参考 増訂新版 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
(1)《小羊》だけが封印を解くことができる者であった。《きたれ》の呼び声によって、種々の色の馬が現われてくるのである。ゼカ6章においては、これらの馬は四つの戦車を引く馬で、四方の国々に神の審判をもたらすものであった。
《白い馬》の白色は《勝利》の色である。《冠》も勝利の冠である。
(4)《赤い馬》の赤色は流血の色であり、これは紛争をさし、《人々が互に殺し合うようになるため》とあるから、ローマ国内の内乱をさすとみられよう。《大きなつるぎ》この内乱は大規模のものであった。
(5)《黒い馬》の黒色は穀物の不作を意味し、《はかり》は食料不足のために行われた限定供給のはかりにことである。
(6)《小麦一ますは一デナリ》小麦一ますは一日の主食の量であってききんのためにその値段は一デナリにもなったというのである。一デナリは労働者が受ける日給の額であって、小麦一ますの値段は通常、一デナリの八分の一から十二分の一までであったと言われている。《オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな》オリブ油やぶどう酒は小麦や大麦に対して更に高価な食品であるが、これも生産を減らすなという神の慈悲による命令と解されている。八節には地の四分の一とあって、全地の四分の三は災厄を免れるようにされた。同じような神の意志のあらわれと解すことができよう。
(8)《青白い馬》これは灰色のうまの意で、これは《死》すなわち疫病を象徴している。終末の時に神が四つの災厄を地上に送ることについては旧約の預言者がすでに述べている。

谷口生超先生のキリスト研究の理由

2015-09-28 14:36:31 | 日記
谷口清超先生は
イエス・キリストの研究をし、
少しずつ「精神科学」という神誌に投稿を続け、
それが本になったのが、
以下のタイトルの本である。
では生超先生は
どのような意図をもって
キリストの研究をしたのであろうか。
それは以下の文章で読み取れる。

(参考 キリスト~イエスの神秘的生涯とその解説 谷口清超著 日本教文社)
<はしがき>
 即ちキリストの生き給うた如く生きるならば、吾々の時代にもキリストの奇跡を実現する事が出来るのであり、又その事実もある。それならば、どのようにキリストは生活し信じ行じ給うたのだろうか。そのようなキリストの生涯を、四福音書を基にしてその生涯に起った事件を順序だてて、立体的に浮び上らせると共に、解釈に困難な奇蹟のような部分には新しい解説を与えて何人にもわかるように最も平明に叙述しようと試みたのが本書である。そしてその叙述の根拠となる聖書の章句が一々示してあるから、聖書研究者にとっては好参考書ともなり、新しい研究者にとっては、キリストの劇的生涯がどのようにして進行し完結したかが、きわめて興味深く容易に知ることが出来、キリストの教えの真の意味が那辺にあるかを知るための便宜を供し得ると思う。キリストはキリスト教徒だけのキリストではない。「我は道なり真理なり」と云っておられるとおり、人類の生活規範としての「道」であるのがキリストであるから、キリストの生涯の研究は人類すべてによって如何に生きるかの「道」の研究となるのである。その意味に於て、イエスが如何に生き、何を教え給うかを理解する指針となれば幸いである。

谷口清超先生も、雅春先生同様の大指導者です

2015-09-27 22:01:33 | 日記
谷口清超先生は
道元禅師の正法眼蔵を
生命の実相哲学によって研究し、
「正法眼蔵を読む」という著作において
現代語訳をなさったのであった。
多分道元学者のどの人よりも
深い解釈をなさったものと
私は信じる。
この本のおかげで
私は現象世界と実相世界との関係が
実によく理解できたのであった。
「生命の実相」と同じくらいの比重で
私にとって無くてならぬのが
「正法眼蔵を読む」という本である。

ところで清超先生は
「キリスト」という本を
日本教文社から
出しているのである。
副題が「イエスの神秘的生涯とその解説」となっている。
清超先生は
仏教だけでなく、
キリスト教の研究者でも
あったのである。
私はこの本のブログを
外で出し始めたが、
谷口清超先生という方は、
まぎれもなく、
谷口雅春先生の後継者としての
生命の実相哲学上の、
また宗教実践上の
資格を備えていたのであって、
これら二人の聖人の書物は
いつか誰かが
陽のあたる場所に
再び現わすべきであると
私は思っている。

イエス、ガリラヤの役人の子をいやす―イエスは命の君

2015-09-27 20:22:06 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第三章(4・43―54)イエス、ガリラヤの役人の子をいやす―イエスは命の君
43.ふつかの後に、イエスはここを去ってガリラヤへ行かれた。
44.イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。
45.ガリラヤに着かれると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。それは、彼らも祭に行っていたので、その祭の時、イエスがエルサレムでなされたことをことごとく見ていたからである。
46.イエスは、またガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にかえられた所である。ところが、病気をしているむすこを持つある役人がカぺナウムにいた。
47.この人が、ユダヤからガリラヤにイエスのきておられることを聞き、みもとにきて、カぺナウムに下って、彼の子をなおしていただきたいと、願った。その子が死にかかっていたからである。
48.そこで、イエスは彼に言われた、「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」。
49.この役人はイエスに言った、「主よ、どうぞ、子供が死なないうちにきて下さい」。
50.イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。
51.その下って行く途中、僕(しもべ)たちが彼に出会い、その子が助かったことを告げた。
52.そこで、彼は僕たちに、そのなおりはじめた時刻を尋ねてみたら、「きのうの午後1時に熱が引きました」と答えた。
53.それは、イエスが「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたのと同じ時刻であったことを、この父は知って、彼自身もその家族一同も信じた。
54.これは、イエスがユダヤからガリラヤにきてなされた第二のしるしである。


(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・ここに、「イエスは命の君」という新しいテーマが提出されそれを証明する二つの「しるし」が記され、それに引き続き大論争がくり広げられてくる。初めに、イエスはガリラヤの役人の子をいやし、自らが「命の君」であることを啓示する。
・43.イエスはサマリヤから北上して、ガリラヤの地域にはいる。
・44.《自分の故郷》は、ここではユダヤ。
・48.《しるし》は、イエスがロゴスであることを示す行為であって、奇跡と同じ。
・49.50.この役人の大いなる信仰に動かされて、イエスは彼を助けた。
・53.彼らは奇跡を見てイエスを信じたのである。
・54.第一のしるしは、カナの婚礼の際になされたもの。