万物は活気臨々呼として現前する生命なるところの「霊」それ自体である
2019-04-29
現象は物質だから死物のように考える人もあるかとは思うが
「現象はナイ」ということは
「現象は物質としてはナイ」が
「霊の顕われとして存在している」
という意味である。
ここで「物質はナイ」という考え方が
「物質は神のいのちである」という考え方に
転換するのである。
現象は影であるが実相の影であるから
現象を見て実相の現れを見るのだ。
だがこの考え方の前提として
「現象は無い」の「無門関」を通る必要があるのであるが、
これをくぐるのは
容易というわけではなく「狭き門」なのである。
また「宇宙の本体」は実相世界」のことを指しているということと
「実相世界」は「観念」とか「理念」とか言っても
死物ではなく「生きた観念」「生きた理念」すなわち
「動でありながら完結している世界」であることも
あさえておくべきだ。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス 日本教文社)
【斯かる観方よりして吾々が世界を眺めることを知るとき、吾等は新しき異なる生活に入るのである。何となれば吾等は最早物質をば生命なき本性や、感性なく霊智なき形とは見ないで、寧ろそれに活気臨々呼として現前する生命なるところの「霊」それ自体を見、又感ずるからである。あらゆる事物は「形象」の衣をそれ自体に装いつつあり、表現せんとして展開しつつあるのである。花は神について雄弁に語るところの声である。日没は神の栄光を赫灼たる燃ゆるような色であらわしている。親しらしい星屑は吾等の神父が吾等の道標(みちしるべ)にと置き給うたランプである。吾等が見るところの一切の事物は、それが暗礁にせよ、岩にせよ、さざなに立てる潮(うしお)にせよ、畏れて逃げる蟋蟀(こおろぎ)にせよ、また吼えたける獅子にせよ、「宇宙の本体」たる「霊」が自己自体を観念の様相(すがた)に体現さしたときに顕現したのである。吾等は生ける宇宙に生きているのである。「心」を本質とする宇宙に生きているのである。この宇宙に於ては吾々が味い、触れ、嗅ぎ、見、聞くところの万物は、「本体実在」(霊)の観念的顕現であるのである。】
現象を見るにあたり、
それを「神のいのち」と置き換えて見るならば、
現象世界そのものが
神しか存在しないことになり、
こうした観の転換を意識的に行って生活することが
必要だと思う。
現象世界は「神の心」であり「神の想念」である
2019-04-29
「万物は神の心」という真理を
ホルムスはここで分り易く説明している。
雅春先生が大きく影響を受け、
生長の家の哲学の導火線となった
すばらしい真理がここにある。
だがここで見落としてならないのは、
現象は「神の心」なのではあるが、
人間の「心」を介して表現されているという点である。
ホルムスには
実相は人間の五官を介して展開されているという点と
「相即相入」という仏教の真理がちょっと不充分なので
そのことを補って理解せねばならない。
だから現象に「神の心」をストレートに見出すには
五感を去って現象の奥にある「実相」を観る必要が
あるのである。
しかしながら
現象世界のすべては「神の心」であり「神の想念」である。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス 日本教文社)
【此処まで来れば、吾々は一般的に事物を「宇宙霊」が思い浮べた観念であると云っても好いであろう。「霊」は「心」であり、「心」は「想念」によって活動するが故に、「心」が顕現したところの一切のものは想念を通じての創造であり、従って一個の「観念」でなければならない。それは吾々が通常「観念」(単なる心象)として考うるもの“より”以上のものであることは真実である~何故なら、それは一定の霊智性を備えて活動するからである。例えば樹木は樹木を想念するところの神であり、また神が自己の想念を通じて、樹木と顕現したものであると云う方が、一層完全な言いあらわしかたであろう。何となれば、かかる過程こそ「宇宙の本体」たる「霊」が自己を顕現し、己が想念するところの事物となって発生し、従って所謂る「創造」を営むところの方法であるからである。そして凡ゆる場合の様相(すがた)及び生命に於て「宇宙の本体」は何者となって顕われるにしても、急激に顕現しはしないのである。それは寧ろ内部よりする発達の或る過程を経て、ついにそれが自己自身を「斯うだ」と考えた観念の様相にその内性を展開するのである。それ故に、「観念」なる語(ことば)は、此の“より”新しき思想に用うる言葉として実に有用である。それは各事物の二面をあらわす~第一、それは事物の内に宿る「心」の存在をあらわす。何となれば心は観念、又は心象即ち想念によって活動するからである 第二、それは一定の「想念」をあらわす、何となればあらゆる形象はその背後に一定の「想念」を蔵していなければならぬからである。されば、吾等はあらゆる事物をその本性に於て「霊」が一定の観念を体現して一個の観念を体現して一個の自我となっているものと考えても好いであろう。】
実相即現象
2019-04-27
現象世界とは実相世界である。
もちろんストレートに同じとは言えない。
実相の反映が現象という意味で「現象即実相」と言えるのである。
そのことを理解するには
「現象非実在」ということが分る必要がある。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス著 日本教文社)
【大預言者モーゼは此の「生命の実在」をば燃ゆるが如き叢林のうちで見たのである。彼自身のうちに、そして又「大自然」のうちに彼は形及び美以上の「或るもの」を見出したのである。彼はその「或るもの」を彼自身の内にある「或るもの」に応答する「大自然」のうちに見出したのである。そして彼はそれと対話しながら、「あなたは誰ですか?」とたずねた。と、彼は此の存在者を定義することは出来なかったが、それは「吾れは実在するところのものなり。」と答えたかの様に思われたのである。「吾れは・・・・なり」とは「生命」或いは「存在」を肯定したのである。「吾れは実在するところのもの」とは言葉にて定義することが出来ないと云うことを示すのである。言説にて定義すべからざるものとは「絶対」でなければならない。然らば「生命」とは絶対でなければならない。それは渾てである。それ故に「渾てなるもの」は自然及び人間のうちにのみ見出されるのではなく、自然に即し、人間に即し、しかも自然又は人間を超越せる一層偉大なものであることが解るのである。吾等が認めるところのすべての存在物はそれと一体であり、不可分であるのである~何故なら凡ては生命であるからだ。そして此の生命こそ吾人が「霊」と呼ぶところのものである。
「霊」はそれ故に「生命」であり、「心」であり、「叡智」であり、「渾て」である。されば如何なる事物でも如何なる人間でも、「吾れは実在する」と云うことは出来るのである。「吾れは実在する」とは動詞“to be”から来た言葉であって、「絶えず在る」ことをあらわすのである。それ故に「実在」とは時間と空間とを超越して「在る」ところのものをあらわす。それは「“はじめ”に在りしところのものであり、今あるところのものであり、久遠にあるところのもの」である。それは吾等の外部にあるところのものではない。それは寧ろ吾等の衷(うち)に内在して吾等を今ある相に造りつつあるものである。それは吾等に宿る「霊」乃至「第一原因」である。事物として表現しつつあるのは、この霊性の幽微なる本質なのである。従って吾等の肉体も亦本質に於て「霊」である。吾々はそれを外面若しくは客観的立場から肉体としてみるのである。併し若し吾等がそれを内部から見るならば、それは「霊」であり、「実在」である。それ故に凡ゆる事物はその精髄に於て一つなのである。何故なら凡ては「実在」であり、「実在」は渾てであり、対立を絶しているからである。】
上の文章は
「色即是空・空即是色」を実によく説明している。