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仏教からの“神の子”理解

2019-04-09 11:23:59 | 日記
現象にどんな状態が現れていても
本当は悟っていると
よく聞かされてきた。
正法眼蔵では
以下のように説いている。
仏教からの探求も
“神の子”を理解する上で
参考になる。
【(正法眼蔵を読む 大悟の巻 谷口清超著)
<大悟の悟り>
ところがこの問いに対して、悟りはないことはない。アルのだが、悟りとか何とかいうと、第二義的になってしまうなあというのである。本物がどこかへおっこちて、“借り物”になっている。しかし、この第二義の悟り(第二頭)もやはり悟りだよというのである。
ここに言う第二頭は、悟りになったり、悟りを得たといったり、悟りが来たといったような現象的な言い方でいうところの悟りだ。悟りが成るというも、悟りが来るというのも、みな“さとり”だよという。しかしこれは、第二頭の悟りだ。このような悟りにおちることを悲しみながら、第二頭を否定して、第一義の本具の悟りを示しておられるのである。】

“神の子”の自覚

2019-04-09 10:12:39 | 日記
私は自己の内に
“霊妙なる存在”があることを
確信するようになってきました。
聖経『甘露の法雨』は
次の如く記しています。
【真の『汝そのもの』は物質に非ず、肉体に非ず。
物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。
汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。】
私も
自己の内に『霊妙きわまりなき完全なる存在』を
やっと自覚できるようになってきました。
これが“神の子”であり“生命の実相”なんですね。
聖経『甘露の法雨】はさらに告げています。
【汝ら生命の実相を自覚せよ。
汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。
『真性の人間』は神人にして
神そのままの姿なり。】
この存在が
健康でもなんでも
やってくれるわけです。
この存在の自覚を
強めていけばよいわけです。
自力ではできないから
神に全托して
やっていただくわけです。
「この自己の内に完全なる存在あり」の自覚は
三正行の絶えざる継続で
少しずつ形成されて行くものなので、
あせらず地道な行を続けて行けば
だれでもいつかは出来て行くものです。
“神の子”だとパッとわかるというより
自分の中に“完全なる存在あり”という自覚が
次第次第に感じられるようになるのですね。
時間がかかっても
よいではないですか。
人間生き通しですから。

わたしたちが人に宿る“神”を愛する時、わたし達はその人に宿る“愛”を愛しているのである

2019-04-09 09:31:45 | 日記
愛は
信仰の深まりに比例して
増大してゆくものだと
私は思います。
信仰というものがなくて
愛のみ実行するのは
ちょっと難しい。
“愛”というものは
心の在り方なのだと
私は考えます。
神への信仰が深まれば
「神は愛」ですので
愛を持ち実行するように
自然になってきます。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<何故“愛”がそんなに>
【“愛”は、幸福な百事如意の、快適な、創造的にして生産的である生活に必須な栄養成分であるからである。“愛”は知識よりも、もっと重要である。“愛”は富よりも、もっと重要なものである。“愛”は、他の何ものも及ぶことのない幸福と成就とをわれらの日常生活にもたらすのである。わたしたちが他の人の汚れた行為を憤っている時には、わたしたちは“愛”をもって人に仕えていないのである。聖書が示す第一の誡(いまし)めは何かというと、汝の全霊、全心、全力を尽して、主たる汝の神を愛せよ。而して汝みずからを愛する如く汝の隣人を愛せよということであった。神は愛である。わたし達が神を“愛”しているとき、わたしたちは“愛”を愛しているのである。わたしたちが人に宿る“神”を愛する時、わたし達はその人に宿る“愛”を愛しているのである。愛は“生命の力”であり、生命の智慧であり、わたし達の内に、わが全生命を貫いて生きている生命の歓喜であるのである。わたし達が憎しみをもつとき、わたしたちは自分自身の心の門を閉ざして自己に属する「よきもの」を自分みずから遮断して、わたしたちを祝福しようとして来る人々を自分みずから遠ざけつつあるのである。憎しみの壁が高い塀となって愈々嶮しく立ちふさがるとき、いよいよ益々それは越えがたきしょう壁と見えるのである。】