現象にどんな状態が現れていても
本当は悟っていると
よく聞かされてきた。
正法眼蔵では
以下のように説いている。
仏教からの探求も
“神の子”を理解する上で
参考になる。
【(正法眼蔵を読む 大悟の巻 谷口清超著)
<大悟の悟り>
ところがこの問いに対して、悟りはないことはない。アルのだが、悟りとか何とかいうと、第二義的になってしまうなあというのである。本物がどこかへおっこちて、“借り物”になっている。しかし、この第二義の悟り(第二頭)もやはり悟りだよというのである。
ここに言う第二頭は、悟りになったり、悟りを得たといったり、悟りが来たといったような現象的な言い方でいうところの悟りだ。悟りが成るというも、悟りが来るというのも、みな“さとり”だよという。しかしこれは、第二頭の悟りだ。このような悟りにおちることを悲しみながら、第二頭を否定して、第一義の本具の悟りを示しておられるのである。】