gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

この現象世界は「神の理念」なのだと分ってきた

2019-04-14 09:55:40 | 日記
神相観を毎日実習しているうちに
この現象の世は
神の理念が
見えないが実在していて
眼に見えるものの奥に
それがちゃんとあると
分ってきました。
(参考真理第一巻谷口雅春)
【 第25章 病気や不幸は斯うして消える
<神の国と、神そのものの完全さを心に描きなさい>
そこで常に間断なく祈ると云うことは現象での御利益を見詰めて感謝する“より以上に”、神そのものの完全さを心に描き、神の創造り給うた実相の世界の罪なく、病なき、円満完全なる世界のみを心に描いて、それのみを有り難いと感謝するようにすれば好いのであります。そう云う円満完全な世界と人間のみを心に描いておりましたなら、何ら不完全な相(すがた)を心に描くことがないから、病気を恐れることもなく、不健康に不平や不安の念を起すこともなく、人々に対しても怒りや憎みや不快の念を起すこともなく、ただ神に対して「有りがとうございます」と感謝の念を絶えず起していることが出来るのであります。】

キリスト教会が実相の観念を失い、現象的な宗教観へと観方を変えてしまった。でも真理のあけぼのはこれからなのだ

2019-04-14 09:15:25 | 日記
イエス・キリストが説いた「神の子・神の国」の真理は
時至らず、
「肉体あり現象あり」の現象的な考え方に
変わってしまった。
それほど「生命の実相」の真理は
易しそうで難しいのである。
でも今は米国の光明思想も仏教も
雅春先生の唯神実相哲学も
世界中の人々の間に
あちこちの個々人の間に
伝わっているのである。
これだけ伝播した時代はかつてなかった。
つまり種は世界中に蒔かれたのであった。
私は素晴らしい状態が
眼には見えないが
存在していると思っている。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<キリストの “往きて病める人々を癒やせ”の考えから病気は神が与えた神罰という考えに、教会が考え方を変えてしまった。>
【歴史の示すところによると、キリストがその弟子に“往きて病める人々を癒やせ”と命じた其の命令に、教会が従ったのは、キリスト教会というものが出来てから最初の300年間であった。そしてその期間に於いてはキリスト教会は素晴らしい信仰心に満たされていて、ヨーロッパ全土にわたって多くの人々が癒やされたのであった。しかし時の経るに従って、人間のつくった信条と習慣が純粋信仰の中に忍び入って、本当の信仰が逃げ出してしまったのであった。ルーテルの宗教改革以後、神癒はほとんど又は全然姿を見せなくなったのであった。それ以後は、クリスチャンは、病気は善なるものであって、それは、神が人間の魂を浄めるために、或いはその人の罪の報いとして神が与え給うた神罰であると教えられたのであった。そして人々は病気を神より来れる神聖なものとして拝跪し、神が彼らの病気であることを欲し給うのだという絶対信仰の下に“御心の如くならしめ給え”と祈ったものである。併し常識で考えて見て、神が人間を病気に罹らせることにどんな利益が可能なのであろうか。】
<イエスが病気が善であるとか、必要であるとか思われたという記録はどこにもないのである。>
【真実のところ、イエスは一度だってそんなナンセンスの事を説いた事は決してないのである。そしてイエスは神の御意志を、そして人間に宿る力を、今まで地上に生活し来った何人よりも、もっとよく知っていられたのである。イエスが病気が善であるとか、必要であるとか思われたという記録はどこにもないのである。イエスは自分のところへ来た人々の病いをすべて癒されたのであった。彼は一度だって病気は神の御意思であるとは示唆せられなかった。その反対に病気を災厄であると呼ばれたのである。
イエスは病気を“悪”であると思われたにちがいないのである。病気を以って、患者自身が自己の上に課したところの一種の“間違い”であると見られたに相違ないのである。病いの床に臥っている人々に対して“汝の罪免(ゆる)されたり”と仰せられ、而して後、“起ちて歩め”と告げられたのである。】