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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-04-25 11:31:32 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
第9章 再び自分の死を予告する
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
42 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

人間は〝神の子”であるのだから、親様を離れたルンペンになっては幸福になれようがない。

2019-04-25 10:16:10 | 日記
実相というものを
現象生活の幸せと
切り離して考えている人が
増えている。
「真理なんて・・・」
「実相なんて・・・」という人がいるとしたら
これほどの考え違いはないのである。
ズバリ言えば
「現象生活は実相と一つもの」であるので、
実相を離れた現象生活が
幸せになる事はなく、
実相〝神の子”の真理から離れれば離れるほど、
幸福からも離れて行ってしまう。
幸福とは「神の子として神とともにある」ことだからである。
「病気治し」が光明化運動ではないなどというのは間違いであって、
病気というのは実相の不在であるから、
実相の不在は病気のみならず
あらゆる人生苦を導いてしまう。
人間は〝神の子”であるのだから、
親様を離れたルンペンになっては
幸福になれようがない。
神に向うか離れるかは
自分及び他の人を幸せにできるかどうかに関わることであり、
人間の〝生命の実相”を知り、
〝人間神の子”を知ることなしに
幸福を得られるなどと思うのは
幻想や妄想と同じだ。

現象世界には「実相人間」が独在し、活動している

2019-04-25 09:41:03 | 日記
「色即是空」の「空」の奥にある「真空妙有」についてであるが
「真空妙有」とは「生命の実相」のことであり
「神の子」のことである。
臨済禅師はこれを
「大通智勝仏」として
臨済録の中で説明している。
これを唯神実相哲学で理解してみたい。
(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)
【問う、
「大通智勝仏が十劫の長い間、道場に坐禅していられたが、仏法も現れず、また仏道を成就することも出来なかったと言うが、これはいったいどうした意味でしょうか。師のお示しをいただきたい。」
師は言った。
大通とは、親しく自己が、あらゆる存在は本来、生滅を離れ姿形を超えたものであると、いかなる時と処においても徹底したところを呼んでそう言ったのだ。智勝とは、いかなる境界に入っても迷わず、生の時は生と一枚、死の時は死と一枚、そのほかには塵一つ無いところをそう言ったのだ。仏とは、自己の心が清浄であり、その光明が十方世界に輝きわたるのをそう言ったのだ。十劫の間、道場に坐禅したというのは、自己一枚になって十波羅蜜を行じたこと。仏法が現れないというのは、仏はもとから不生であり、法ももとから不滅である。どうしてその上さらに現れることがあろうか。仏道が成就できないというのは、もとから仏である、その上さらに仏になることはないからだ。古人も「仏は常に人間生活の中におられて、しかもその人間の穢れに染まらない」と言っている。】
以上の文章で投稿者は
臨済禅師が挙げていることを列挙した。
「あらゆる存在は本来、生滅を超えたものである」
(現象は実相の反映であり実相自体が生滅を超えた存在である)
「いかなる境界に入っても迷わず、生の時は生と一枚、死の時は死と一枚、そのほかには塵一つ無い」
(現象の本体は実相理念“神の子”であって、死も司り、生も司るつまり現象全体を司る神の“いのち”(理念)である。
「心が清浄であり、その光明が十方世界に輝きわたる」
(現象世界全体に「視えない実相=神の理念=神の子」が輝いているし貫通している)
「自己一枚になって十波羅蜜を行じた」
(投稿者 実相においても現象においても“神の子”は生きて行じ続けているのだ)
「仏はもとから不生であり、法ももとから不滅である」
「もとから仏である、その上さらに仏になることはない」
(“神の子”は世の始めから在り通している存在であり不滅である)
「仏は常に人間生活の中におられて、しかもその人間の穢れに染まらない」
(あらゆる現象にはそれに相応じる「視えない実相」が存在している。現象は実相の反映であり実相は理念であるから現象と実相は一つものであるが存在の次元が異なるのである、即ち実相は独在している。つまり現象世界には「実相人間」が独在し、活動している。)