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聖書がわれわれに語るのは“信仰”とは知的理解を超えて信じていることである

2019-04-12 09:41:48 | 日記
私たちは善のみの世界に住んでいる。
このことの絶対的な「信」が必要である。
ところが私投稿者の話だが
私に起こるすべての事がらが
「善しかない」という思いが
むくむくと出てきて、
その気持ちでいっぱいになってしまったのである。
二日前からである。
もう一つマン女史の書いていることで
大事なことに気がついた。
アダムが智慧の木の実を食して人生に苦しみを生じたのだから
物質ありの妄想を排して
神の創り給うた霊の世界を
ストレートに信ずれば
病気や不幸は存在しないと
いうことである。
これをイエスは説いていたのだ。
この2点をマン女史の文章で
ごらんください。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<恐怖を抛げ棄てる道は、強く強く“善”のみの存在を信じ“善”を愛することである。>
【恐怖を抛げ棄てる道は、強く強く“善”のみの存在を信じ“善”を愛することである。強く強く神を信じ、あらゆるものの善なる実相を信じ、善の実現のためのみに働き、それ故に、唯善のみを創造し、唯善のみが私たちの人生に訪れて来るという信念をもつことなのである。何故なら、「完全な愛は恐怖を抛げ棄てる」からである。癌を癒された婦人は、神の愛の力を絶対的に信ずることによって、あらゆる恐怖を克服し、その愛の報いを受けたのであった。その後、彼女は「絶対者の調和に自分の心の波長を合わしたのである」】
<ただ存在するのは神のみであり、神は生命であり、愛であり、美であると信じたので、彼女の信ずる“善”が彼女の生活と肉体とに実現した>
【彼女の信仰はその高揚の極「宇宙の何処にもどんな悪もないのだ。わたしの体の内にはどんな悪もないのだ。暗や、災いや、病気や、罪にはどんな力もないのだ。ただ存在するのは神のみであり、神は生命であり、愛であり、美である」と信ずる程度に高まったので、彼女のその信ずるところの“善”が彼女の生活と肉体とに実現したのである。永遠なるもののみが実在である。生命は永遠である。癌は永遠な存在ではない。だから、癌は消えたのであり、生命は生き残ったのである。】
<善悪二つの力が存在することを知る樹の果を食したということを、よくよく考えて見なければならないのである。>
【わたしたちは真に存在する一切のものは善であると信じなければならないのである。わたしたちは、宇宙には二つの力があり、その一つは“悪”であり、その“悪”の力は、少なくともある時期に於いては“神”又は“善”に打ち勝つ力があるのだということを信じている限りは、その限りに於いて、自己の人生を変えたいと思うわれわれの努力も失敗に帰するのである。これは古い古いエデンの楽園の神話である。わたしたち人類は「善悪を知る樹の果」を食したのである。善悪二つの力が存在することを知る樹の果を食した限り、悪の存在をみとめるから恐怖するほか仕方がないということを、よくよく考えて見なければならないのである。】
<聖書がわれわれに語るのは“信仰”とは知的理解を超えて信じていることである>
【わたしどもは、信仰について、その力について、それを実際に応用してみるまでは、あまり多くを知ることはできなかった。で、も少し重要な諸点について考察してみたいと思うのである。今ではこれに充分の時間をかけることができ、次々とあらわれる功徳の配分も多いにちがいないのである。簡潔に言えば、聖書がわれわれに語るのは“信仰”とは知的理解を超えて信じていることである。そして、それを実際面で人生に活用する場合には、すべてのものは善であること、そしてその外見の如何に拘らず、善を愛する人々の幸福実現のために摂理の手が動いているのであるとわれわれは信ずるがよいということである。】
この神の創り給うた「実相世界」を疑わずに信じ切ることが
本当の生長の家の信仰であるのではなかろうか。