1 <『汝らの内』にのみ神の国はあるなり>
“御心の天に成るが如く地にも成らせ給え”と
主の祈りは言う。これは御心は既に地になっているという意味だからそのことを自覚すべしという祈りだと、アディントンは書いている。
聖経『甘露の法雨』は
【キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求める者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を得る事能わず。】
と書いている。
結論を言えば、すべての人間は、内に“神の国”をもっているのだから、その事実を自覚する必要がある。
2 <「観」とは心の眼でみる事~「観」ずれば現れる>
神の国を現象化するには、心の眼でみる必要があります。それには神想観をすればよいのです。“神の国”(実相世界)をあると観て、「神の子円満完全」「実相円満完全」と念ずるのです。「実相世界があると思えない」とか、「あると思えないから漠然としていて観じられない」という人もいるかと思います。でもあるものはあるのです。ただあると認めればよいので、「神は実在する」と思うのと一緒で、神想観中に、自分は神の子であり、神の国にいると素直に認めてしまえばいいのです。認め切ることが大事です。これが「実相を観る」ということです。
その実相世界に自分を預けてしまうのです。無我全托します。
3 「祈りは神に聞かれた」と信ぜよ
イエス・キリストは
「祈りてそれを受けたりと信ぜよ」と教えたのである。
神想観で実相を観じた時に、
それが叶えられたと信じなさいという意味であって、
実相世界においては
正しい願いは既に成就しているので、
「その祈りは成就したと思いなさい」ということであって、
「祈りは聞かれた」という観方をしなさいということです。
その観が後で現成するわけです。