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神想観三つの気付き

2019-04-04 11:50:17 | 日記
1 <『汝らの内』にのみ神の国はあるなり>
“御心の天に成るが如く地にも成らせ給え”と
主の祈りは言う。これは御心は既に地になっているという意味だからそのことを自覚すべしという祈りだと、アディントンは書いている。
聖経『甘露の法雨』は
【キリストは
『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。
誠に誠にわれ汝らに告げん。
『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。
『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に
『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。
外にこれを追い求める者は夢を追いて走る者にして
永遠に神の国を得る事能わず。】
と書いている。
結論を言えば、すべての人間は、内に“神の国”をもっているのだから、その事実を自覚する必要がある。
2 <「観」とは心の眼でみる事~「観」ずれば現れる>
神の国を現象化するには、心の眼でみる必要があります。それには神想観をすればよいのです。“神の国”(実相世界)をあると観て、「神の子円満完全」「実相円満完全」と念ずるのです。「実相世界があると思えない」とか、「あると思えないから漠然としていて観じられない」という人もいるかと思います。でもあるものはあるのです。ただあると認めればよいので、「神は実在する」と思うのと一緒で、神想観中に、自分は神の子であり、神の国にいると素直に認めてしまえばいいのです。認め切ることが大事です。これが「実相を観る」ということです。
その実相世界に自分を預けてしまうのです。無我全托します。
3 「祈りは神に聞かれた」と信ぜよ
イエス・キリストは
「祈りてそれを受けたりと信ぜよ」と教えたのである。
神想観で実相を観じた時に、
それが叶えられたと信じなさいという意味であって、
実相世界においては
正しい願いは既に成就しているので、
「その祈りは成就したと思いなさい」ということであって、
「祈りは聞かれた」という観方をしなさいということです。
その観が後で現成するわけです。


自己の内部実相の完全さを自覚したことの反映として現実世界に於ける変化としてあらわれるのが神癒である

2019-04-04 10:00:53 | 日記
心が内部実相の円満完全を自覚すると
その反映として現われるものが
神癒なのであると
アディントンは説く。
真理を知ることが
病気治癒には必要だ。
また病気治癒だけでなく、
神の国が顕われるのであるから
病気治癒なんてといって
馬鹿にすることは見当違いだ。
内部実相の顕現には正しく真理を把握し、
神想観で実相を正観する必要が
あるのである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<心霊治療による治癒とは心に描かれた“完全”さが、肉体及び事象の上に具体化することなのである>
【心霊治療による治癒とは何であるか? それは、心を転ずることによって得られるところの治癒であるのである。それは不可視の心の深層に於いて“完全”の心象を描くことにより、必然的に、その心に描かれた“完全”さが、肉体及び事象の上に具体化することなのである。人間は三位一体の存在なのである。彼は、霊であり、その霊は“心の世界”に生活しつつ、肉体を通して物質界に自己を表現するのである。】
<自己の内にある無限の力は、“地”即ち汝の外なる表現の世界に於いても与えられているのである>
【宇宙に普遍する太霊の力とは何であるか。“太霊の力”とは神が“もち給い”、神が“あり給う”全ての力即ち普遍者であり、全智者であり、全能者であるその全徳を包容する総括的名辞である。普遍者であるということは到るところに遍在し給うということであり、全智であるということは、すべてを知り給うということであり、あらゆる智慧と知性のはたらきを全包容的に有ち給うことである。全能ということはあらゆる力をもち給うということである。『マタイ伝』第28章18節にイエスは「我は天にても地にても一切(すべて)の権を与えられたり」といっていられる。これは神の全能について最もよく理解している人の言葉なのである。イエスの意味せられるところは、天に於いて人間は無限の力を行使するを得る権を与えられているのである。そして、その“天”即ち“神の国”についてイエスは“神の国は汝の内にあり”とハッキリと定義せられたのであるから、自己の内にある無限の力は、“地”即ち汝の外なる表現の世界に於いても与えられているのであるという意味なのである。】
<真理の実証は、自己の内部実相の完全さを自覚したことの反映として現実世界に、肉体的に、物質的に、可視的な環境に於ける変化としてあらわれる>
【さてデモンストレーション即ち“真理の実証”とは何であるか? 真理の実証は、自己の内部実相の完全さを自覚したことの反映として現実世界に、肉体的に、物質的に、可視的な環境に於ける変化としてあらわれるのである。それは意識の中に把握されたる真理の実証であるのである。心、肉体、その他色々の事件に於いて真理の思念の結果あらわれる現実の実証を英語ではデモンストレーションと呼んでいるのである。】