アディントンは教会の牧師をしていた人だから
キリスト教については深いものがあり
今日の箇所も大変大事な指摘をしていると感じた。
イエスの祈りを旧約聖書のダビデの祈りと似ていると
いうのである。
「神の力」の素晴らしさを
祈りにおいてしっかり観じる必要があるのである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<『主の祈り』に似ている祈りが、旧約聖書の『歴代志略』上巻に見出される>
【イエスは、祈りのモデルを示すだけで満足しなかったのである。彼は祈りというもの全般についてきわめて少しではあるが教訓を与えている。
イエス自身、すべてのヘブライ人の子供と等しく、旧約聖書を熱心に勉強をし、“科学的祈り”の研究をしたのだった。あらゆる時代を通じての最大の祈りは旧約聖書の『歴代志略』上巻に見出されるのであるが、それがどんなに『主の祈り』に似ているかに注目して頂きたい。】
<『歴代志略』上巻に見出される祈り(旧約聖書口語訳~投稿者はあえて分り易い口語訳に変更しました)>
【10 そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。
11 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。
12 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。
13 われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます(『歴代志略』上巻第29章10~13節)】
<神の力と権勢(いきおい)とを“認める”ことがわが念願成就の“悟り”とひとつになっているのである>
【何という美しい祈りであろう! およそ“科学的祈り”というものが歴史上在ったとするならば、是こそ“それ”である。この祈りは神の力と権勢(いきおい)とを“認める”ことがわが念願成就の“悟り”とひとつになっているのである~われらの父、われらの神~と呼んで、神への全托による解放が結語となっているのである~それ故に今、われらの父、われらの神~と呼んで、神への全托による解放が結語となっているのである~それ故に今、我らの神よ、我らあなたに感謝し奉ると神への感謝と讃頌とで終っているのである。】
<権勢や能力や偉大さや体力が必要であるならば、それは既に彼らの手許にあるのである>
【ここに旧約聖書の中に、救世主なる意識を『詩篇』の作者ダビデは導入した人であるが“神の全能の力”を先ず認めて、且つ“それ”を自家薬籠中にある力であると悟入した偉大さはまことに大したもので、彼は、“既にわが願いは叶えられたり”と、完全な信仰をもって感謝しているのである。もし富の裕かさと栄光とが必要であるならば、それはいつでも、“神の子”たる人たちのものとなるのである。何故なら彼らは父の御許に来ているからである。またもし権勢や能力や偉大さや体力が必要であるならば、それは既に彼らの手許にあるのである。何故なら神の御手にあるものはすべて“神の子”に与えられているからであり、よって以て「我らの神よ、われら今なんじに感謝し汝の尊き名を讃美す」ということになるのである。】
創造の神は、
神の子であるわれ等人間に
権勢や能力や偉大さや体力が必要であるならば
すべて与えられ済みであるという唯神実相哲学の根本の教理と
共通の宗教的真理がここに書かれていて、
これは当哲学の土台となる真理であるから
祈りにおいてもこの心境で祈る必要が
あるのである。