人間の「生命の実相」は「神の子・神の国」であるが
ステラ・テリル・マン女史も
同様のことを書いている。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<すべての人間は、善に向う可能性、愛に向う可能性、そして義に向う可能性を、内に孕(はら)んでいる>
【わたしたちは人及び宇宙について、今日も、そして明日もまた、神の構図の善であることを信ずるのである。それは、すべての人間は、吾々にとって如何に見えようとも、善に向う可能性を、愛に向う可能性を、そして義に向う可能性を、内に孕(はら)んでいることを意味するのである。われわれの本性にその可能性があればこそ人間は、その本性を展開して善事を行うことができるのである。】
実相は時間・空間のキャンバスに
人間の五感を通して展開しているのであるが、
時空世界に展開する以前の実相世界は
ただただ円満完全なる理念世界である。
病人もなければ悪人も存在しないのである。
だから現象においても
そんな不完全は存在していないと観るのが
真理である。
現象に“実相を観る”鍵がここにある。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<時間の流れの中でその関係を見るとき因果昧(くらま)さざる正義を見ることができる>
【“神は美である”という信仰は、私たちをして、たとい如何に粗暴な、醜悪な、不幸な、悲劇的な状態が現象界のある部分があらわれて見えようとも、すべての事々物々の動きの中に、神聖なる神の摂理というようなものを見ることが出来るように、わたしたちの心を導いてくれるのである。不正であり不義であると見える事象も、時間の流れの中でその関係を見るとき因果昧(くらま)さざる正義を見ることができるのである。時間の流れを通して見るとき、神に関するあらゆる知識が一つに結ばれて、神と人間との関係が、あたかも、愛深き全智の父親と、まだ智慧浅くして神の愛を受けて成長しつつある幼な児との関係の如くであることを理解し得るようになるのである。】
しかし乍らストレートに実相を直視して
実相を現象化するのが
神想観という観法である。