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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-04-28 11:11:09 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
第9章 いちばん偉い者
47 イエスは一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である、」

五官の世界を否定できなければ谷口雅春先生の後継ぎにはなれない

2019-04-28 10:34:46 | 日記
五官の世界を否定できなければ
谷口雅春先生の後継ぎにはなれないのです。
つまり「人間神の子」にはなれないです。

真理第一巻 第25章 病気や不幸は斯うして消える
<「物質」にのみ執着している者は放蕩息子>
「五官の心」は言う。(これを聖書は「サタン」と云う名称で書いています)「ひれ伏して吾れを拝せば、此の世の栄華の全てを与えん」と。これは実に巧みなるサタンのまどわしなのであります。イエスは厳然と是に対して「サタンよ、去れ」と言っているのであります。
「五官の心」に支配されている間は、人間はこのサタンの言葉を信じてサタンに跪(ひざまずい)ている状態に過ぎないのであります。彼は自分の心の中に「物質」の塊(かたまり)ばかりを描いております。彼は、「霊」をもって「霊」に対せずして、五官の心をもって「物質」に対しているのみであります。その「心」の振り向くところは「神」ではなくて、「物質」なのであります。時々、彼も「神」の名を呼ぶかも知れませんけれども、それは「物質」を得んがための手段であって、銀30両を得んがためにイエスを売ったユダと大同小異なのであります。

すべての人が本体は視えない“神の子”であり肉体人間は影法師である

2019-04-28 09:58:39 | 日記
すべての人において
その「人及び環境」つまり「その人の全宇宙」を
司っているものは
“神の子”である。
つまり“実相人間”である。
この“実相人間”の働きは
如何なる人間においても平等に働く「神の子・神の国」理念であるから、
言い換えればその人の「いのちそれ自体」であるから
その人が生きているということは、
その人の内に「完全なる状態」で
存在しているのである。
その人が生きているということは
その人が「いのち」であるということであり、
「いのち」とは「神の子」であるから
円満完全であるしかない。
こんな素晴らしい如意宝珠(髻宝珠)を持っているのが
人間という存在である。
持っているというか、
如意宝珠(髻宝珠)それ自体である。
人間は“神の子”が本体なのだ。
肉体は影である。

「宇宙の本体」の力をして彼(人)を通じて顕現せしむる様にすれば好い

2019-04-28 09:11:47 | 日記
「生命の実相」「神の子」「実相人間」「無依の道人」、
つまり「宇宙の本体」を
神想観により
顕現せしむれば
「宇宙の本体」の絶対なる創造力は
如何様にも発現されるのである。
この「宇宙の本体」は視えない実在であり、
現象の奥に存在しているのであるが、
それを現象に顕現できるのは
人間自身の「実相を観る」祈りによって
可能となるのである。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス 日本教文社)
【「吾れ創造す」~と絶対実在にまします、霊なる神の宣言したまえる事実の重大なる意義を吾等は看過(みのが)してはならない。人がつくるに非ずして霊なる神が創造し給うのである。また神は言い給う「吾れ為すに、誰れかそを妨げんや」と。あらゆる「生ける者」に於ては、それが植物にせよ、遊星にせよ、動物にせよ、はたまた人間にせよ、その内奥に潜む「宇宙の本体」が創造しつつあるのであって、「宇宙の本体」が創造しつつあるのであって、「宇宙の本体」の創造力を、吾々は吾々の生活に顕現するように、呼び寄せる事が出来るのである。「視よ、我れ戸の外に立ちて叩く、もし我が声を聞きて戸を開く者あらば、我その人の所(もと)にいたらん」と。「霊はその礼拝者を求めているのである。」諸君の内に神の創造力は働いているのである。「しずかに立ちて汝の神の救いを見よ。」これにも優(ま)した労苦からの解放があるであろうか。諸君は夜半(よなか)、寝床の中に目覚めたまま心臓に対して「毎分72回の脈拍を打て」と命じたり、肺臓に対して「今呼吸せよ」と令したり、血液に対して「全身を循環せよ」と号したりする必要はないのである。すべて此等は諸君の生命が内に潜む心に導かれながら、我れ知らずに行っている営みである。それ故にまた吾等は「この一つの細胞が使いちびて了ったから、新しい細胞をつくらねばならない。此の食物を消化するために、も少し余計消化液をつくらねばならない」とも考える必要はないのである。人は創造せねばならぬことはないのである。人は単に「霊」をしてその本来の力を顕現せしむれば好いのである。即ち「宇宙の本体」の力をして彼を通じて顕現せしむる様にすれば好いのである。】