アディントンのいう“科学的祈り”には
説得力があり、私投稿者は
神想観を行なう上で
大いに参考にさせていただいている。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<“愛”を完うせんがために必要な何かを求めるのであれば“科学的祈り”である>
【常に必ず報いを得るような祈りというものはあるであろうか? 然り、常に祈り求めて報いられるところの祈りというものがあることをわたしは信ずるのである。もしわれわれの祈りが、その祈りの動機が“愛”を完うせんがために必要な何かを求めるのであれば、祈りを用いて、確信をもって、それを受け得ることを期待して祈ることは“科学的祈り”であると言い得るのである。】
<科学的祈りは、神の普遍的な“一つの心”の中に自己が坐を占めて、自己の内に宿り給うところの神に振向くところの祈りである>
【(懇願の祈りと違って)“科学的祈り”であるところの“積極肯定の祈り”というのは、既に決定的であるところの(既に実相に於いて存するところの)神の聖なる御業を受像し得るように自分自身を変化するところの祈りであるのである。“懇願の祈り”は、人間の外にあるところの神に、遥かなるところに在(いま)すところの神を想定して、祈るのであるが、科学的祈りは、神の普遍的な“一つの心”の中に自己が坐を占めて、自己の内に宿り給うところの神に振向くところの祈りである。両者の混同を避けるために“科学的祈り”をわたしは“霊的精神治療”と称することにする。今後、たびたびわたしは“霊的精神治療”という語を使うことがあると思うが、それは“科学的祈り”のことを意味するのだと知って置いて頂きたい。】
<凡て祈りて願う事は、すべて得たりと信ぜよ、然らば得べし>
【聖書は次の如く書いている。―
“彼ら朝早く路(みち)をすぎしに、無花果(いちじく)の樹の、根より枯れたるを見る。ペテロ思い出してイエスに言う「ラビ見給え、呪い給いし無花果の樹は枯れたり」イエス答えて言い給う「神を信ぜよ、誠に汝らに告ぐ、人もし此の山に「移りて海に入れ」と言うとも、其の言うところ必ず成るべしと信じて、心に疑わずば、その如く成るべし、この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願う事は、すべて得たりと信ぜよ、然らば得べし」(『マルコ伝』第11章20-24節)】
<“愛”に基づいて生まれたところの願いであるならば、祝福は、吾々みずからの上には勿論、それに関与するすべてのものの上に来(きた)るのである>
【何という力強い教えであろうぞ! 神から人間に賜りし力の行使には何らの限定もないのである。山を動かすことも可能なのである。無花果の樹を枯らす如き一見否定的に見える如き現象さえも、“言葉の力”を通してそれを実現することが出来るのである。「凡そ汝の願うところの事は何事にても」その願いに神は何らの限定をも置き給わないのである。わたし達は今日、イエスの言葉を立証するために生活しているのである。凡そわたし達の欲するところのものは、それが何であろうとも持つことができるのである。時には、そんなにも希望の実現が早いので、わたし達を驚かすことがあるのである。“愛”に基づいて生まれたところの願いであるならば、祝福は、吾々みずからの上には勿論、それに関与するすべてのものの上に来(きた)るのである。これに反して愛に基づかない願いであるならば、吾々は難関にぶつかって、次回には、もっと善いものを選ぶように教えられるのである。】