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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-04-26 10:36:29 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
第9章 再び自分の死を予告する
45 弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。 

「人間には“霊”が宿っているんだよ。その霊を喚び出しさえするならば、自分が為さんと欲する人生の事は何だって出来ないことはないんだよ」

2019-04-26 09:38:32 | 日記
“神の子”の霊を喚び出しさえするならば、
人生の事は何だって出来ないことはないと、
マン女史は絶叫している。
これは“実相を観る”ということである。
“実相を現象化する”ということである。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
【わたしたちは高層の屋根の上にのぼって、金切声を振りしぼって、
「人間には“霊”が宿っているんだよ。その霊を喚び出しさえするならば、自分が為さんと欲する人生の事は何だって出来ないことはないんだよ」と叫ばなければならないのだ。人生を暗くしてしまうのは、此の“自己に宿る力”を自覚しないために生ずる恐怖であり、それは諸々の障礙(しょうがい)をつくるのである。
此の“自己に宿る力”は、どんな魔法の杖よりも、もっと素晴らしい奇跡を行なう能力をもちながら、私たちがそれを喚び出すのを待っているのである。また此の自己内在の力は、どんな魔法のカーペットが翼となって吾々を搬んでくれるよりも遠く遥かの国へ私たちを運んでくれるのである。】

もし「彼」に荘厳させたならば、宇宙の万物はすべてどのように美しくでも荘厳できるであろう

2019-04-26 09:22:25 | 日記
“神の子”を荘厳したりするのではなく、
“神の子”に万物を荘厳させることが必要だ。
“神の子”はもともと荘厳な存在だから
荘厳すべき存在ではない。
だが“神の子”に観により荘厳させれば
宇宙の万物はすべて美しく荘厳できると
臨済は言うのである。
(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)
【お前たちが今そのように説法を聞いているその「人」(無位の真人、無依の道人のこと、次の「彼」も同じ)をどう修行させたり悟らせたり、荘厳したりしようとするのか。「彼」は決して修行すべきものでもなく、荘厳できるものでもない。そのかわり、もし「彼」に荘厳させたならば、宇宙の万物はすべてどのように美しくでも荘厳できるであろう。お前たち、ここを取違えるな。】
以上の臨済の文から考察する。
 現象の移り変わりの一コマ一コマは、無依の道人(神の子)の展開である。無依の道人(実相人間)自体は神であり仏であるから、もともと荘厳なるものであり、それを荘厳することなどは出来ない。しかし実相人間をして万物を荘厳させれば、宇宙の万物はどのようにでも美しく荘厳できるのである。
 無依の道人とは“生命の実相”のことであるから、万物に宿る“霊”のことでもなる。アサガオの霊が「視えないいのち」であるように人間の霊は天地万物として展開する無依の道人「人間のいのち」のことであり、それは“生命の実相”であり“神の子”であるから「神」であるのだ。つまり現象は視えない神のいのちの現われであり、「現象世界は“神のいのち”しかない」と言えるのである。「いのち」は「神」であるから、現象世界は完全であるしかなく、私の肉体も完全であるしかない。自分の中に、すべてを創り出すいのち「神の子」が存在している。