gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

今まで家庭の厄介者だと考えられていた此の老婦人は、この家庭の貴い資産となったのであった。

2019-04-20 09:57:21 | 日記
自己に宿る“神の力”を信ずる力の欠如が
その人の不如意な生活の根本原因である。
この真理を知ることは
あらゆる人に勇気をもたらすことになるのであるから、
真理をこそ
人に知らせる必要があるのだ。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
以下はある家庭の話である。
<今まで家庭の厄介者だと考えられていた此の老婦人は、この家庭の貴い資産となったのであった。>
【彼らは風邪ひく習慣から逸れただけではなく、生活の不安や、怒りや、破壊的な想念感情を克服し得るに従って、彼らは自分の金を前より上手に使うようになり、前より多く儲けることができるようになり、人生が楽しく感じられるようになったのだった。姑になる老婦人は最早、自分の欲しない手枷足枷ではなくなった。彼女は愛をもって扱われることによって、自分はこの世に存在価値があって人から好かれているという確信が湧いて来て、信仰の或る段階である所の自尊自敬の心が起って来た。そして、嫁から見てさえも“彼女は新たに生れ変って意地悪の姑ではなくなった”と言われ得るようになったのである。そして今まで家庭の厄介者だと考えられていた此の老婦人は、この家庭の貴い資産となったのであった。若い婦人はかねてから外へ働きに行きたいと思って、時間がなく、それを敢えてしたならば問題が起ることをおそれて、今までそれを実行してみたことがなかったのである。彼女は信仰を得て、過去を顧みて自己分析してみたとき、問題が起るかも知れぬと恐怖していたのは、外から問題が起ってくるのではなく、自己に宿る“神の力”を信ずる力の欠如から起るのであると気がついて、その恐怖を克服し、外で働くようになって豊かに収入が得られることになった。】

“神の子”(無依の道人)の働きを臨済が説く

2019-04-20 09:04:03 | 日記
臨済録が見たくなって
開けてみました。
存在の探求の続きとしてですが・・・
現象に働く「見えない“神の子”」についてです。
このものが、
肉体と現象を操る実相人間(神の子)なのです。

(参考 臨済録 朝比奈宗源 タチバナ教養文庫)
<生や死から大自在を得たいと思ったら、今そこで説法を聞いているその「人」を見究めよ。>
【 お前たちが、衣服を脱いだり着たりするように、生や死から大自由を得たいと思ったら、今そこで説法を聞いているその「人」を見究めよ。その「人」は形も無く姿も無く、根も無く本も無く、どこにもとどまらず、ぴちぴちとして、あらゆる外境に応じてはたらき、しかもはたらいたという跡もない。だから追っかければ追っかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほど離れる。ここの子細は自分で会得する以外にない。】
<お前たちが今説法を聞いているものは、お前たちの肉体ではない。その肉体を使っている主人公なのだ。>
【お前たちの一念の瞋りが火となってお前たちを焼き苦しめる。お前たちの一念の喜びが風となってお前たちを翻弄する。もしこれらに実体の無いことがはっきり会得できれば、外境に振りまわされず、いかなる処でもよく外境を使いこなし、東から出て西へ入り、南から出て北へ入り、中央から出て端へ入り、端から出て中央へ入ることも、水上を歩くことは地上を歩くように、地上を歩くことは水上を歩くように自由になる。なぜそうなるかというと、四大は夢や幻のようなもの、実体が無いと、体得するからだ。修行者たちよ、お前たちが今説法を聞いているものは、お前たちの肉体ではない。その肉体を使っている主人公なのだ。もし、このように見究め得たならば、死ぬも生きるも自由であろう。】
<お前たちの一念心が三界を作り出し、さらに縁に応じて自己が外境に転ぜられて六塵となるのだ。>
【随所に主となることができればその場その場がみな真実である。外のものについて廻ってはいけない。お前たちの心に一念の疑いが浮かべばそれが魔である。菩薩ですら疑いを起せば、生死の魔につけ込まれる。先ずなによりも計らいを止め、外に向って求めてはならない。外の境が現れたならば、すぐに自己にたちかえり、それが自己であると見破れ。ただただお前たちの今そこにはたらいているものを信ぜよ。それが出来れば、面倒なことは一つもない。お前たちの一念心が三界を作り出し、さらに縁に応じて自己が外境に転ぜられて六塵となるのだ。】