現象世界とは実相世界である。
もちろんストレートに同じとは言えない。
実相の反映が現象という意味で「現象即実相」と言えるのである。
そのことを理解するには
「現象非実在」ということが分る必要がある。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス著 日本教文社)
【大預言者モーゼは此の「生命の実在」をば燃ゆるが如き叢林のうちで見たのである。彼自身のうちに、そして又「大自然」のうちに彼は形及び美以上の「或るもの」を見出したのである。彼はその「或るもの」を彼自身の内にある「或るもの」に応答する「大自然」のうちに見出したのである。そして彼はそれと対話しながら、「あなたは誰ですか?」とたずねた。と、彼は此の存在者を定義することは出来なかったが、それは「吾れは実在するところのものなり。」と答えたかの様に思われたのである。「吾れは・・・・なり」とは「生命」或いは「存在」を肯定したのである。「吾れは実在するところのもの」とは言葉にて定義することが出来ないと云うことを示すのである。言説にて定義すべからざるものとは「絶対」でなければならない。然らば「生命」とは絶対でなければならない。それは渾てである。それ故に「渾てなるもの」は自然及び人間のうちにのみ見出されるのではなく、自然に即し、人間に即し、しかも自然又は人間を超越せる一層偉大なものであることが解るのである。吾等が認めるところのすべての存在物はそれと一体であり、不可分であるのである~何故なら凡ては生命であるからだ。そして此の生命こそ吾人が「霊」と呼ぶところのものである。
「霊」はそれ故に「生命」であり、「心」であり、「叡智」であり、「渾て」である。されば如何なる事物でも如何なる人間でも、「吾れは実在する」と云うことは出来るのである。「吾れは実在する」とは動詞“to be”から来た言葉であって、「絶えず在る」ことをあらわすのである。それ故に「実在」とは時間と空間とを超越して「在る」ところのものをあらわす。それは「“はじめ”に在りしところのものであり、今あるところのものであり、久遠にあるところのもの」である。それは吾等の外部にあるところのものではない。それは寧ろ吾等の衷(うち)に内在して吾等を今ある相に造りつつあるものである。それは吾等に宿る「霊」乃至「第一原因」である。事物として表現しつつあるのは、この霊性の幽微なる本質なのである。従って吾等の肉体も亦本質に於て「霊」である。吾々はそれを外面若しくは客観的立場から肉体としてみるのである。併し若し吾等がそれを内部から見るならば、それは「霊」であり、「実在」である。それ故に凡ゆる事物はその精髄に於て一つなのである。何故なら凡ては「実在」であり、「実在」は渾てであり、対立を絶しているからである。】
上の文章は
「色即是空・空即是色」を実によく説明している。