gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

実相即現象

2019-04-27 10:12:34 | 日記
現象世界とは実相世界である。
もちろんストレートに同じとは言えない。
実相の反映が現象という意味で「現象即実相」と言えるのである。
そのことを理解するには
「現象非実在」ということが分る必要がある。
(参考 心と運命 谷口雅春・ホルムス著 日本教文社)
【大預言者モーゼは此の「生命の実在」をば燃ゆるが如き叢林のうちで見たのである。彼自身のうちに、そして又「大自然」のうちに彼は形及び美以上の「或るもの」を見出したのである。彼はその「或るもの」を彼自身の内にある「或るもの」に応答する「大自然」のうちに見出したのである。そして彼はそれと対話しながら、「あなたは誰ですか?」とたずねた。と、彼は此の存在者を定義することは出来なかったが、それは「吾れは実在するところのものなり。」と答えたかの様に思われたのである。「吾れは・・・・なり」とは「生命」或いは「存在」を肯定したのである。「吾れは実在するところのもの」とは言葉にて定義することが出来ないと云うことを示すのである。言説にて定義すべからざるものとは「絶対」でなければならない。然らば「生命」とは絶対でなければならない。それは渾てである。それ故に「渾てなるもの」は自然及び人間のうちにのみ見出されるのではなく、自然に即し、人間に即し、しかも自然又は人間を超越せる一層偉大なものであることが解るのである。吾等が認めるところのすべての存在物はそれと一体であり、不可分であるのである~何故なら凡ては生命であるからだ。そして此の生命こそ吾人が「霊」と呼ぶところのものである。
「霊」はそれ故に「生命」であり、「心」であり、「叡智」であり、「渾て」である。されば如何なる事物でも如何なる人間でも、「吾れは実在する」と云うことは出来るのである。「吾れは実在する」とは動詞“to be”から来た言葉であって、「絶えず在る」ことをあらわすのである。それ故に「実在」とは時間と空間とを超越して「在る」ところのものをあらわす。それは「“はじめ”に在りしところのものであり、今あるところのものであり、久遠にあるところのもの」である。それは吾等の外部にあるところのものではない。それは寧ろ吾等の衷(うち)に内在して吾等を今ある相に造りつつあるものである。それは吾等に宿る「霊」乃至「第一原因」である。事物として表現しつつあるのは、この霊性の幽微なる本質なのである。従って吾等の肉体も亦本質に於て「霊」である。吾々はそれを外面若しくは客観的立場から肉体としてみるのである。併し若し吾等がそれを内部から見るならば、それは「霊」であり、「実在」である。それ故に凡ゆる事物はその精髄に於て一つなのである。何故なら凡ては「実在」であり、「実在」は渾てであり、対立を絶しているからである。】
上の文章は
「色即是空・空即是色」を実によく説明している。

「久遠実相」の世界が“神の子”として現象に活きて働く

2019-04-27 09:58:56 | 日記
(参考 詳説 神想観 谷口雅春 日本教文社)
「久遠実相」の世界とは如何なる世界のことか。
『詳説 神想観』の記述を引用する。
【「実相世界」及び「実相覚」についての問答
問 「久遠実相」の世界とは、如何なる世界のことでありますか。これを他の言葉で言えば、神界、霊界というほどの意味でございますか。
答 久遠実相の世界というのは、神界、霊界というような意味ではありません。単に「実相の世界」といって宜しいのであります。「久遠」というのは、生滅常なき現象世界に対して永遠不壊の実相世界を形容したのであります。「実相世界」を霊界のことだと思う人がありますが、霊界というのは現象界の一部で霊魂の住む世界でありまして、そこには迷える苦悶せる亡者の霊魂も居りますが、「実相世界」とは神の創造(つく)り給うたままの完全さが今も永遠に続いている世界でありまして、現象世界の“奥に”と言おうか、“内面に”と言おうか、“背後に”と言おうか、今も実在しているのでありまして、この実相世界においてはあらゆるもの凡て至妙に、あらゆるもの凡て完全に、一切のもの凡て神の創造せるままに、神の無限智と無限愛と無限生命と無限能力とを体現しているのであります。】
この実相世界を自己の内面に、主として神想観により、
自覚するように修しているうちに、
現象世界においても
それに呼応する実相を自覚できるようになってきます。
それは生きた実在、つまり“神の子”のことであり、
“神の子”は人の内面にあるのですが、
同時に現象において
視えないですが現象の本体として(霊として)
活動しているわけです。
これを“実相人間”といったり、
“無依の道人”といったりします。
現象世界は「視えない実相世界」なのです。