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新約聖書「ルカによる福音書」

2019-04-03 12:37:36 | 日記
新約聖書「ルカによる福音書」
第9章 ペトロ、信仰を言い表す
19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」

人間は人間を癒すことはできない

2019-04-03 11:04:19 | 日記
「神に無我全托する」ことで
神癒を得たという実例が
この本には多く出てくるのだが、
下に紹介するケースは
とても理解し易く
全托とはこういう
ものだということが、
よく分った。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<人間は人間を癒すことはできない>
【メアリー・ジェーンは一般の工場で働くタイプの人間ではなく、あるサークルの仲間では心霊治療家としてみとめられていたのであった。
というのは彼女が他の人々のために祈ってあげた時には、彼らは癒されたのであった。多くの人々が彼女の助けを必要として祈って貰いに来たのであった。そして今、ここに、自分自身を救い得ざる愚かなるこの苦境に立たされているのであった。彼女は繰返し繰返しこの問題を反復して自分にたずねて見るのであった。「何故わたしは自分自身を救い得ないのですか?」と。】
<彼女自身の力では自分というものを癒すことはできない>
【彼女の胸にグッと来たのは、彼女自身の力では自分というものを癒すことはできないという考えだった。何故なら人間が人間を癒すとということは決してできない。そのできない仕事を自分で試みようとしつつあったのだと彼女は気がついたのだった。唯内部に宿る神の霊のみが人間を癒し得るということだった。】
<いやしくも信仰治療家たる彼女自身は病気になってはならないのだった>
【他の人のために自分の信仰がはたらくとき、彼女の信仰には何の欠陥もなく効を奏したのだった。しかしながら自分自身の場合にはどうであろうか。彼女は自分が信仰治療家として好結果を挙げなければならなかった。いやしくも信仰治療家たる彼女自身は病気になってはならないのだった。人々はどう考えるであろうか。そこには彼女の背景を支えている霊的プライドというようなものが幾らかあったのではないか?】
<自力の完全放棄の、此処に解答があり、此処に鍵があった>
【そのような情況下に於いて彼女は自力のすべてを投げ捨てた。彼女はどうにも自分自身の力では解決の道を見出し得ないからであった。この自力の完全放棄の、此処に解答があり、此処に鍵があった。彼女は為すべき仕事があった。彼女は大いなる御手に支えられていたのであって、その大いなる御手から彼女は見棄てられはしなかった。その瞬間から彼女は健康を回復しはじめたのであった。奇蹟的な過程を通して神癒が起りはじめた。それは、医者も看護婦も、そして今までの経過を知っているすべての人々を驚かせた。】
<彼女は、精神の向き方を一転して神へ振向き、神の生命と一体になったのであった>
【メアリー・ジェーンは、己が人生に為すべき仕事があるということ、生きることの意義目的を自覚したとき、彼女は、死の方向に注意力を集注していた精神の向き方を一転して神へ振向き、神の生命と一体になったのであった。今や彼女は生きんとする意志をもち生を持続したい願いをもったのであった。】

“人間神の子”“生命の実相”の真理を最後まで信じ続ける者は救われる

2019-04-03 10:24:38 | 日記
この現象世界は
実は実相世界であって
「善であり愛である、つまり神の力のみが存在する」ところの
世界なのである。
つまりこの現象世界は丸ごと「神の心」である。
現象は実相が基盤となっている。
アディントンはそのことを
【容態や現象的条件には何の力もない。
境遇や環境的条件には何の力もない。
宇宙には唯一つ”神の力”のみが存在するのである。
わが内に、今此処に全能なる神が在(いま)す。
この全能なる神の完全なる正しい活動を妨げるものはなのもない。
神の正しき活動を妨げる人も、場所も、物も条件も、そんなものは何一つないのである。】
【万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ】だから、
ここは神一元なのであって、
マイナスの消極的な想念は非実在だ。
この実相独在という唯神実相哲学は
聖典の読誦、聖経の読誦、神想観そして愛行によって
つまり生長の家三正行によって
分るようになる。
つまりこの現象の世が
現実に神の子・神の国世界に
変貌するのだ。
“人間神の子”“生命の実相”の真理は
病気やその他人生苦を救ってくれるということを
最後まで信じ続ける者は救われる。
「求めよ、さらば与えられん」である。

「無」である実相を観ずべし

2019-04-03 09:32:52 | 日記
私は神に全托の祈りについて
アディントンが
これこそが実相顕現の鍵だと言っているのは同感なのだけれども
全托について同感であっても
祈り方が難しいと思うのである。
「全托」「全托」と思うあまり
「有」(現象)を観じて空回りすることが
よくあるからである。
よく感情が動かないと実相は顕われないと言って
感情が動くことが最後の決め手であると
言う考えがあるが、
これも気持ちが変化しないと
実相が顕われたとはいえないという意味なら分かるけれど
こと観法に関していえば、
現象から離れて実相の世界で祈らないと
充分に効果が上がりにくいのではなかろうか。
禅宗の坐禅においては、
無の世界において実相を観ようとするのだし、
たしか正法眼蔵に
こんな話があった。
「この不思量底(実相)をどのように思量するのか」という問いに対して
老師は「非思量」と答えているのである。
つまり現象を超えた観をすべしと
答えているのである。
このことについて
2か月くらい前に
夜のことだが
「見えない神の子」を観じなさい、
「見えない実相」を観じなさい、
という啓示があり、
それをその時ノートに書きつけておいたのであった。
それ以来神想観において
「神の子円満完全」「実相円満完全」という代わりに
「見えない神の子円満完全」「見えない実相円満完全」とか
「無である神の子円満完全」「無である実相円満完全」と念じて
実相の世界に入り切れるまでは
「見えない」とか「無である」とかの言葉を加えて
「有」(現象)を遮断した観法を実修するようにしている。
観法においては無感情の方がよいのだ。
実相世界というのは
現象とは次元の超えた世界なのであるから、
この空とか無の世界の奥に存在している実相に
ストレートに焦点を当てる必要があるのである。
私はクリスチャン・サイエンスが
真理キリストに「全托」こそは
神癒の鍵だと主張していることに賛成ではあるのだが、
その全托の祈り方には
やはり方法があるのであって、
ただがむしゃらに神に任せよう任せようと
あせって祈っても空回りして
実相の観にならないこともあると
言いたいのである。
坐禅的な静的な要素も必要だ。
私の体験から得た私の見解である。