「神に無我全托する」ことで
神癒を得たという実例が
この本には多く出てくるのだが、
下に紹介するケースは
とても理解し易く
全托とはこういう
ものだということが、
よく分った。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳 日本教文社)
<人間は人間を癒すことはできない>
【メアリー・ジェーンは一般の工場で働くタイプの人間ではなく、あるサークルの仲間では心霊治療家としてみとめられていたのであった。
というのは彼女が他の人々のために祈ってあげた時には、彼らは癒されたのであった。多くの人々が彼女の助けを必要として祈って貰いに来たのであった。そして今、ここに、自分自身を救い得ざる愚かなるこの苦境に立たされているのであった。彼女は繰返し繰返しこの問題を反復して自分にたずねて見るのであった。「何故わたしは自分自身を救い得ないのですか?」と。】
<彼女自身の力では自分というものを癒すことはできない>
【彼女の胸にグッと来たのは、彼女自身の力では自分というものを癒すことはできないという考えだった。何故なら人間が人間を癒すとということは決してできない。そのできない仕事を自分で試みようとしつつあったのだと彼女は気がついたのだった。唯内部に宿る神の霊のみが人間を癒し得るということだった。】
<いやしくも信仰治療家たる彼女自身は病気になってはならないのだった>
【他の人のために自分の信仰がはたらくとき、彼女の信仰には何の欠陥もなく効を奏したのだった。しかしながら自分自身の場合にはどうであろうか。彼女は自分が信仰治療家として好結果を挙げなければならなかった。いやしくも信仰治療家たる彼女自身は病気になってはならないのだった。人々はどう考えるであろうか。そこには彼女の背景を支えている霊的プライドというようなものが幾らかあったのではないか?】
<自力の完全放棄の、此処に解答があり、此処に鍵があった>
【そのような情況下に於いて彼女は自力のすべてを投げ捨てた。彼女はどうにも自分自身の力では解決の道を見出し得ないからであった。この自力の完全放棄の、此処に解答があり、此処に鍵があった。彼女は為すべき仕事があった。彼女は大いなる御手に支えられていたのであって、その大いなる御手から彼女は見棄てられはしなかった。その瞬間から彼女は健康を回復しはじめたのであった。奇蹟的な過程を通して神癒が起りはじめた。それは、医者も看護婦も、そして今までの経過を知っているすべての人々を驚かせた。】
<彼女は、精神の向き方を一転して神へ振向き、神の生命と一体になったのであった>
【メアリー・ジェーンは、己が人生に為すべき仕事があるということ、生きることの意義目的を自覚したとき、彼女は、死の方向に注意力を集注していた精神の向き方を一転して神へ振向き、神の生命と一体になったのであった。今や彼女は生きんとする意志をもち生を持続したい願いをもったのであった。】