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本当にあるものは明るい神の理念世界(実相世界=神のいのち)だけです

2019-04-16 11:33:17 | 日記
現象は心の影であり、
時間・空間上に“いのち”(実相)が展開している一場面であるにすぎないのに、
なかなかそれを「ナイ」(非実在)だと
割り切れないのです。
現象に何かしら引っかかっている間は
実相世界がたった今ここに存在していると
思えないのです。
でも三正行を
特に実相の探求と神想観を間断なく実行しているうちに、
現象をナイものとして
あっさりと割り切って観ることができるようになってきます。
そうなると現象を引きずることが無くなってくるので、
それなら現象がないなら何があるのだ、
ということになり、
“いのち”があり、“実相”があり、“神の理念”のみが
見えないけれども存在していると
いうことになります。
これらは見えないし形がなく
つかめないです。
一言でいうと“神の子”です。
【物質の奥に、肉体の奥に、霊妙きわまりなく完全なる存在あり。】
これであります。
これこそ人間の本当の相である「生命の実相」であります。
「肉体なし現象なし心もなし実相あるのみ」であります。

“自己を空しく”して“神の子”を念ずる瞑想を続けることの必要性

2019-04-16 09:24:41 | 日記
神相観においては
“自己を空しく”する必要がある。
“神の子”になろうと希求することは
自己を空しくすることと
同じである。
また神相観においては
神の理念世界即ち実相世界を
絶えず念じ続けることが大事である。
この2点についてマン女史は説いている。

(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<“自己が空しくなる”ことは私によっては、真の尊厳性と人間の可能性とを開発することになる>
【地上に於ける魂の発達の究極的目標は、真の謙虚すなわち“自己を空しくする”心境に達することであると私には思えるのである。“自己を空しくする”とは、私にとっては、土の塵に生いた虫ケラのような低い生活をするのではないのである。“自己が空しくなる”ことは私によっては、今まで埋没せられていた真の尊厳性と人間の可能性とを開発することになり、人間が自由の主体たるの自覚を得て、自己解放を遂げ、自己表現の内からなる神もよおしに導かれて、力に満たされたる神の生命と愛と美とを本質とする自己の実相を自覚するに至ることを意味するのである。わたしたちは「詩篇」の作者ダビデと共に、“何とて神は人間のことに関心をもち給うや”といぶからざるを得ないのである。まことにもわたしたちは神から一顧の恵みを受けるにも価しないものだと、あの病院にいた婦人がしたように自分自身を思わずにはいられないのである。わたしたちはその恵みにことえるに何かをせずにはいられないのである。わたしたちが神を知れば知るほど、一層人間が受けている恩恵を知ることになるのである。そして“愛”と“驚異”と感謝とに満たされて跪(ひざまず)かずにはいられないのである。この跪きこそ私にとっては本当に“謙虚”(へりくだり)である。そしてこの境地に達した後にのみ、人間の魂の発達が、彼がかくありたいと信ずる如く際涯無く伸びることを得るのだと私には思えるのである。】
<魂の底から実相“神の子”を念ずる瞑想を続けること>
【かくの如き想念をもち、魂の底から実相“神の子”を念ずる瞑想を続けるならば、神の彼岸に到達しようとする旅路に、その人の魂は更に数百由旬を前進することが出来、すべての創造がそれに向って進んで行きつつあるところの遥かなる聖所にまで近づいて行くことができるのである。それこそ活きて動く信仰であり、きわめて高いタイプの信仰であるのである。】