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自我滅却の果てに、実相が顕われる

2018-08-29 13:28:38 | 日記
自我を滅却し切った時、
神があらわれると、
藤原先生は説いています。
用賀のお医者さんでお世話になったK・I講師が
私に遺して下さった“最後の鍵となるもの”と
同一であることに気づきました。
(参考 すべてを癒やす道 藤原敏之 日本教文社)
【信仰とは自我の滅却であり、自己否定にあります。正しい信仰とはこれまで私だと思ってあらゆる努力をしていたのがだんだんと自我の限界がわかり、自分の努力ではどうすることも出来ないと悟り、息一つ自分でしていないという事実に目ざめ、絶対絶命の境地に追いこまれ、一切を捨てて、神の中に飛びこむことであります。そのとき一切の都合がなくなり、都合がなくなれば善も悪も存在しない、ただ善のみの世界に超入するのであります。悪があると思うから、どうして逃げようかという心配が起るのでありますが、一切が神であり、神以外からくるものは何一つないと悟れば、不足などあるはずもなく、ただ感謝だけになります。問題を解決し、救われるというのはこのような信仰に徹することであります。一切の人に物に事に感謝し、喜んでお受けする心境になる。これが谷口雅春先生のお説き下さる生長の家であり、救いの根本は実にこの無条件に感謝することであります。神以外のものや、神以外の人間をみている限り本当の生長の家ではありません。生長の家は唯心実相論であり、神一元、善一元論に徹した教えであります。二元的人生観には、救いは断じてあり得ません。人間が否定され、現象が否定されない信仰はどこまでいってもにせものであります。それは当てにする心であって、信でないからであります。この世界は信じた通り、認めた通りになる世界でありますから、信が確立したとき、救いは成就します。信とは絶対であり、神以外のものが一切否定された心境であります。そのままであり、何もないそのままであります。無条件であります。条件のないのが満足であり、絶対安心であります。救われる必要さえなくなるのであります。救われたいと思うのは、神以外の自分を認めている証拠であり、救われていない自分があるからであります。自我の否定とは、自分がなくなることであります。最悪を覚悟したものには不安はありません。調子のよいことや、都合のよいことなぞ考えるから不足があり、不幸だと感ずるのであります。】

新約聖書「ルカによる福音書」

2018-08-29 11:49:12 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第三章>洗礼者ヨハネ、教えを宣べる
7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免(まぬか)れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムを造り出すことがおできになる。