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「救われ済み」の自覚

2018-08-12 18:49:03 | 日記
藤原敏之先生は
『救われ済みの人生』という本を
お書きになっていますが、
人間は“実相神の子”でありますから、
すべての人が
実際は救われずみで
あるわけです。
ただ私は
2年前大手術を受けた関係もあって、
実相円満完全の自覚が欲しくて
それこそ必死の思いで
生命の実相の追及を
つまり行として
行ってきたわけです。
ところが最近
自分はすでに救われずみなのだという自覚が
できてきていることに
気がついたのです。
これは生命の実相の真理が
かなりはっきりと分ってきたことと一緒でした。
でも手の舞い足の踏む場所を知らず、
というような狂喜の状態にはならないのですが、
それはそれで
私はいいです。
とにかく、
救われず済みという、
ほっと安堵の気持が
出てきただけで
うれしいです。

新約聖書「ルカによる福音書」

2018-08-12 16:12:18 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第二章>神殿で献げられる
26 そして、主が遣わすメシヤに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。

現象は“仏の説法”

2018-08-12 11:26:35 | 日記
「現象は自分の心の現われであって、本当にあるものではない。本当にあるものは目には見えないものだ」
と藤原敏之先生は説く。
谷口雅春先生は現象を仏教の解釈である「三界は唯心の所現」と説明したり、
観世音菩薩の働きと説くこともある。
道元禅師は正法眼蔵で「現象は仏の説法」と
説くのである。
現象は“実在”するものではない。実在するのは“実相”のみである。
現象は
人間が実相から外れた時に、
そのことを説法したり、
実相に乗った生活をしている時には喜びごとを現わしたりして
ほめてくれる働きをしているのである。
次の文章でそのことが分る。
(正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
<莫妄想>
【長沙の岑和尚は南泉普願和尚の法嗣であるが、その岑和尚の法会に出席した竺尚書が、こんな質問をした。
「ミミズを半分に切断したところ、二つの頭が動き出しました。一体仏性はどちらの頭にあるのでしょうか」
師は答えられた。
「妄想するなよ」
尚書はいう。
「しかし動いておりまする」
師云く。「それはただ肉体の成分が散っていないからじゃ」
さてこの珍妙な問答を考えてみることにしよう。尚書はミミズを両段したというが、まだ切断しない時は、それを一段といってよいのか? 又そこに仏性があるとでもいうのか? 仏祖の本意としては、そうではあるまい。ミミズそのものは一段ではなく、両段でもない。無形の理念なのだ。】

(正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
<仏、法をとく>
【「風火未散」は、仏が説法しているのだ。即ちこの現象界は仏の法を説く姿である。単に崩れ行く物質世界がまだ残っているなどという無味乾燥なことではない。未散風火、いまだ散ぜざる風火は、法がほとけを説き続けるのだ。つまり現象そのものは、仏をあらわし出している。一音で説法する時が来た。説法の一音、総てが法を説いているではないか。これを知れ、法は一音につくされている。コトバが真理だからである。(ここにいう「法」とは現象ではなく、真理のいみである。)】

*追加 生長の家のみ教えは「本当にあるものは現象ではなく、目に見えない実相である」ということです。

遅々としてはいるが確実な信仰の深まり方

2018-08-12 10:00:49 | 日記
「見えるものは心の影だから
本当にあるものではなく
見えない実相が
本当にあるのである。」
このことは
私はそのとおりだと
知的には理解し信じる決断はしていますが、
朝になると
その確信が若干薄らぐのをおぼえます。
だから毎日一回は
藤原先生の講話録画を見て
信念を新たにするわけです。
キリストが弟子たちに
信仰の薄いことを嘆いたことが聖書にありますが、
私も同様で、
残念に思うのですが、
でも
それでも再び聖典を読み、
ビデオを聞き、
昨日よりは今日はと
信を深める手立てをとります。
四部経の一日10回読みは
このことのための有力な手段であり、
信念を強めるために欠かせないのが
神想観を真剣にやることです。
真剣さが欠けると
翌日の体調に影響します。
それでも一日一日のこうした修行で、
私は人から見れば驚嘆する健康を得ています。
真理が毎日少しづつですが深まって行くのは
神さまのお蔭であり、
私の向上の在り方は
タイプとしてこれしかないので、
一気に実相超入などできなくても
不満などありませんし、
これが神の愛なのかと思います。
多分ブログを見てくださっている方は
もどかしい信仰の歩みに
あきれていらっしゃるかと思いますが、
実は確実に少しずつ進歩しています。
もしよろしかったら次のブログで
経過をごらんください。
http://blog.livedoor.jp/marutakaeiji/
で検索できると思います。