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本当の人間はこの肉体を使っている”いのち”である

2018-08-02 16:45:56 | 日記
肉体は
実相生命の時間・空間面への展開の一場面に過ぎないのに
これを“生命そのもの”と見て
体の調子について
いちいち心配してしまうことが
迷いなのです。
現象世界は実相(いのち)それ自体ではなく、
いのちの表現体にすぎない。
その表現というのは、
いのちの表現は表現でも
自分の心の表現なのです。
実相(神の心)の映しなんですが、
表現されたものは自分の心の影ですから、
実相をそのまま映していないので
心が迷いを影として映すと
肉体面に現れる場合には
病気になったりすることもあります。
だから私たちは肉体は「カラダ(空だ)」と思い切って
いちいち病状にとらわれず、
本体(実相)は円満完全なる「神の子」であると
確信する必要があります。
本当の人間はこの肉体を使っている”いのち”です。
この生命の実相の真理さえ分ってくれば、
どんな病気でも克服できるというのが
キリストが
釈迦が
谷口雅春先生が起こした神癒の理由です。
真理が分れば神癒はちゃんと起こります。
もともと人間は本体が“神の子”であり“仏子”ですので、
神癒が起こるのですが、
これは不思議なことでは
全くないと、
私は思います。
谷口雅春先生は
「イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!」
と生命の実相20卷に書いておられますが、
現象をあると思い心配していたのでは、
現象の奥の奥にある実相が顕われる邪魔となってしまうのです。


現象の「有」と絶対有とのちがい(その2)

2018-08-02 11:12:59 | 日記
実相が現象にどのような状態で反映されているかについての
正法眼蔵からの投稿の2回目です。
これは現象アサガオと理念アサガオの違いを思い起せば
分りやすいと思います。
正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
<何故肉体に生れるか>
【しからばそのような絶対有が、肉体に入って来るとは又これ如何。そんな筈がないではないか。絶対なる存在が相対肉体に入る。そんなバカな話はないではないか。人間でもそうだ。仏性なる人間が、小さな肉体人間として、肉体化して出てくる。それは無限を有限にとじこめようとするようなものであって、全くありうべからざることである。
では、どうして犬の肉体に仏性ありなのか。それは、犬の“肉体”に“仏性”が入ってくるのではない。又肉体の奥の一部分に仏性があるのではない。あるのは「仏性」だけであって、肉体はないのである。皮袋はナイ。ナイから入るということもない。しかし、仮に入るような姿にあらわれてくるのである。】

“人間我”抹殺が“神我”(実相)出現の条件となる

2018-08-02 09:36:37 | 日記
キリストは以下のように言っているが、
人間我を抹殺すれば神我(実相)が出てくると
いうことである。
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第二章
3・1―15 イエスとニコデモとの対話―新生について
1.パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
2.この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3.イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
4.ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
5.イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。
6.肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。

仏教では“諸法無我”とか“我慢(我の慢心)を取り除け”
ということが
正法眼蔵を含め
あらゆる所に書いてあり、
“我”を除く修行が
僧侶の大事な日課だ。
日常の人間生活を去って、
坐禅において無我になる修行など
普通の人には不可能な生活である。
谷口雅春先生は、静坐合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた時に、
まさに神から
真理の啓示を受けたのであった。
この瞬間、尊師は実相を悟ったのであり、
物質は無く、
実相のみあると悟った時に、
人間我の脱落があった。
それまでは心の悍馬に苦しむ普通の人であった。
でも完全に我を落とすまでには、
徐々にではあることが
盗難事件その他の体験が必要であったことでわかる。
以上から実相を顕わすためには
人間我を抹殺する必要があることは
明らかである。
人間が生れ持ってきた人間我は
食べること、職を得ること、結婚すること、
その他現象生活の基盤になるものだから
これを抹殺するなどということは
全く容易ではない。
キリスト教の修道僧も
坐禅の修行僧も
そのことで生涯苦しんだ。
でも現象我は
物質ありと思っていての自分だし、
現象とか物質が実際は実相の反映であって存在しないのであるから
真理を知って“現象我”を“神我”に取り換えることなしには、
本当に生き甲斐のある生活を
送ることはできないのである。
まして指導者が
物質あり現象ありを認める指導を行うとしたら、
教えを受けた人は
実相から遠のく事必定である。
藤原敏之先生が
強いご指導ができる根拠は
現象我抹殺は其の気になれば誰にもできるし、
そこにこそ永遠の喜びありと
確信しているからに他ならない。