肉体は
実相生命の時間・空間面への展開の一場面に過ぎないのに
これを“生命そのもの”と見て
体の調子について
いちいち心配してしまうことが
迷いなのです。
現象世界は実相(いのち)それ自体ではなく、
いのちの表現体にすぎない。
その表現というのは、
いのちの表現は表現でも
自分の心の表現なのです。
実相(神の心)の映しなんですが、
表現されたものは自分の心の影ですから、
実相をそのまま映していないので
心が迷いを影として映すと
肉体面に現れる場合には
病気になったりすることもあります。
だから私たちは肉体は「カラダ(空だ)」と思い切って
いちいち病状にとらわれず、
本体(実相)は円満完全なる「神の子」であると
確信する必要があります。
本当の人間はこの肉体を使っている”いのち”です。
この生命の実相の真理さえ分ってくれば、
どんな病気でも克服できるというのが
キリストが
釈迦が
谷口雅春先生が起こした神癒の理由です。
真理が分れば神癒はちゃんと起こります。
もともと人間は本体が“神の子”であり“仏子”ですので、
神癒が起こるのですが、
これは不思議なことでは
全くないと、
私は思います。
谷口雅春先生は
「イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!」
と生命の実相20卷に書いておられますが、
現象をあると思い心配していたのでは、
現象の奥の奥にある実相が顕われる邪魔となってしまうのです。
実相生命の時間・空間面への展開の一場面に過ぎないのに
これを“生命そのもの”と見て
体の調子について
いちいち心配してしまうことが
迷いなのです。
現象世界は実相(いのち)それ自体ではなく、
いのちの表現体にすぎない。
その表現というのは、
いのちの表現は表現でも
自分の心の表現なのです。
実相(神の心)の映しなんですが、
表現されたものは自分の心の影ですから、
実相をそのまま映していないので
心が迷いを影として映すと
肉体面に現れる場合には
病気になったりすることもあります。
だから私たちは肉体は「カラダ(空だ)」と思い切って
いちいち病状にとらわれず、
本体(実相)は円満完全なる「神の子」であると
確信する必要があります。
本当の人間はこの肉体を使っている”いのち”です。
この生命の実相の真理さえ分ってくれば、
どんな病気でも克服できるというのが
キリストが
釈迦が
谷口雅春先生が起こした神癒の理由です。
真理が分れば神癒はちゃんと起こります。
もともと人間は本体が“神の子”であり“仏子”ですので、
神癒が起こるのですが、
これは不思議なことでは
全くないと、
私は思います。
谷口雅春先生は
「イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!」
と生命の実相20卷に書いておられますが、
現象をあると思い心配していたのでは、
現象の奥の奥にある実相が顕われる邪魔となってしまうのです。