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運命の鍵は「この目に見える世界を本当にあるものと思うか、それともないと思うか」である

2018-08-15 16:13:33 | 日記
この世は神の国(実相世界)の写し世であり、
人間は神の理念である“神の子”なのだから
病気など実際にはあるわけはなく、
不完全や不幸など
一切存在しないのである。
この真理を信じることができれば、
心の法則に従って
神の国に属するよき世界が
自分の周辺に現実化するはずである。
ただこの真理を受け入れるためには、
この真理が
どこからきているのか、
信憑性があるのか
知らなければ、
信じること自体が不可能である。
しかしこれはキリストが説き
釈迦が説いた真理と同じものである。
私はここで詳しく書くことは
大変で出来ないので、
以前書いたブログを再度転載します。

キリスト教と仏教から見た実相独在
2018/5/17
「実相独在の真理」というのは
「肉体ナシ現象ナシ心もナシ実相あるのみ」の真理のことであり、
谷口雅春先生のみ教えを、
つまり聖経『甘露の法雨』の説いている真理を
究極的に要約したものである。
1 キリスト教から見る
キリストは
ロゴス(神の言)の肉化としてあり
そのようにヨハネによる福音書は捉えていて
このことは人間一般にも当てはまるが
キリストは「人間一般」の代表ととらえ
つまり真理「人間」というものを説明するために
ヨハネ神学が提起している。
真理キリストが
十字架にかけられたのは
時間・空間の存在を否定し
肉体と現象を抹殺し
そこで始めて
目に見えぬ「神の言葉世界」ロゴスが
復活するのである。
肉体や現象と見える五感に感じられるものをナシと観れば
そこにあるのはロゴス(神の言)のみである。
「肉体ナシ現象ナシ心もナシ実相あるのみ」です。
物質の世界でなく「いのちの世界」(神の言)の復活です。
人間自身が「神の言」なのですから
その時「現象の心」が「神の心」に入れ換わります。
2 仏教から見る
仏教の究極の真理は
「色即是空」である
物質・現象は「空」であると
いうことである。
しかし「空」というのは
「真空妙有」のことであって、
「真」(うそいつわりのない)「空」の中に
妙なる「実在」があるということである。
妙なる実在とは仏世界のことである。
だから現象世界はナイ「空」なのだけれども
つまり五官で見えるものは影法師なのだけれども
そこに目には見えない「妙なる実在」があると見る。
不生不滅の仏世界が現象の代わりに存在している。
アサガオの花は影法師なんだけど
見えない理念アサガオ(仏様アサガオ)は
ちゃんとある。
「肉体ナシ現象ナシ心もナシ実相あるのみ」です。
現象世界丸ごと自己なる大仏世界の示現であります。

この目に見える世界は
実際には存在しなくて、
代わりに目に見えない「円満完全大調和世界」が
存在しているという真理を
信じる人には、
実際にそのような世界が現われ
難病でも神癒します。
神の国に病気などある筈がないからです。
自分が“神の子”であり、
(自分の肉体をいかしているいのちが“神の子”であるという意味)、
万物が神なのですから、
(空気も植物も食物も神のいのちです)、
万物神ならざるものはないのであり、
たった今、またいつにおいても
私は父なる神に向き合っているわけです。
藤原敏之先生は
ユーチューブ動画の
宇治別格本山における講話で
「ないものはないと決めたら消える。要はお化けはあると決めるかおらんと決めるかのちがいです。
病気や貧乏はあると決めるかないと決めるかで決まります。
運命は人間の自覚によって決まります。
だから人間は神だ、と決めればよい。
夢の中の問題は覚めれば消えるのです。」
と語ってくださっています。
現象世界は
本当にある世界ではなく、
その奥というか裏に実在する実相世界(神の理念世界)が
本当にあるものなのです。
その実相世界への強烈な「信」が運命を変えます。

*追加 現象とは何か
さっき
目に見えるものは本当にあるものじゃなく、
目に見えない“実相”のみあると
書いたのですが、
では現象は何であるのかを書かなかったのは、
足りなかったと思い、
追加いたします。
「現象は心の影」でありまして、
過去において心に種を蒔き続けてきたものが
表現されているのです。
ですが実相世界は神の理念世界ですので、
それが現象の時間空間のスクリーン上に
展開されているのです。
ロゴスとか仏世界の展開は
縮めて一点化すれば、理念でありますが、
時空世界に展開されれば多様化し
神性とか仏性であるにしても
空といった一見無常なようにみえます。
その理念の展開は
人間の自由な心に乗って展開されるので、
つかみどころはないのですが、
総ての現象には
すべて目に見えない実相が貫かれています。
だから現象は心の影だから本当にあるものではなく、
目に見えない“神の心”が
本当にあるものなのです。


新約聖書「ルカによる福音書」

2018-08-15 11:24:46 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第二章>神殿で献げられる
36 またァシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき、嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、
37夫に死に分れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼とも神に仕えていたが、
38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

私は今実相世界にいる

2018-08-15 09:42:49 | 日記
私は今実相世界にいる。
私は今パソコンを叩いているが、
実相世界にいて
パソコンを叩いているのである。
これが終われば外出するつもりだが
その時だって暑い中、道路を歩きながら、
その時も実相に居ながら
それをすることである。
これは自覚の問題であって、
そう思わない人には
ただ物質世界で行動するだけであるが、
神の理念世界で行動していると思う人には、
神の国に存在する健康や、智慧、愛等の実相の御徳を
享受できるのである。
ただ自覚上のことのみで
こうした幸福があらわれるのだが、
この自覚を得ることが
真理を知るということである。

仏道というものは、宇宙にみちあふれた法則である

2018-08-15 09:20:20 | 日記
人間が“実相”それ自体であることを
生長の家は説いているが、
大乗仏教も同じように説いている。
キリスト教もヨハネ伝では
人間の代表者であるイエス・キリストを“ロゴス”(神の言葉)であると説いているので
やはり、同じことをべつの角度から説いているのである。
では道元禅師を見解を見てみよう。
(正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
<二つの道>
【仏道というものは、宇宙にみちあふれた法則であり、「実在」そのものであるから、これを修業しないでおこうとしても、そんなことは到底不可能である。それは人間の存在それ自体の存否にかかわる問題だからである。又、この大道を学ばないで何とか生き抜こうとしても、それではますます実相から遠ざかり、迷い苦しみ悩むだけであって、遂には必ず行き詰る。こうして仏道(大道)にかえらざるを得なくなる。つまり仏道とは、単なる釈尊の教えといったいみではなく、釈尊下生以前から、あり通しているところの宇宙の大法であって、これを遠ざけるということは全く不可能なことなのである。】