生命の実相の悟りは
実相独在を悟ることであると
知的に分っている人は
たくさんいます。
しかしその方法論について
断固として指導できた指導者の残された記録としては
私は藤原敏之先生以外は
見当りません。
谷口雅春先生の直接の講話や録画は
別にしてです。
私自身はもう雅春先生のご講話を一度も聞けない時に
参加したものですから、
雅春先生ご自身の直接のご講義は
うかがったことがないのです。
『大聖師御講義続々甘露の法雨』という本では
沢山の講師先生の指導例が載っていますが、
役に立つことはありますが、
綿密な方法論ではありません。
藤原敏之先生の5冊の本は
正に具体的な方法論そのものです。
実際のところ
病気の人や問題のある人、
さらに神癒の必要なさし迫った人にとっては、
実相の真理もそうですが
実相を顕わすための
方法論が必要なのです。
この方法論に関していえば、
これは私の個人的意見ですが、
あまり書いている人がないようです。
また講義している人も見かけないです。
神癒の指導は
指導者がいのちがけでやる必要があるし、
実相を観ることができる人じゃないとできないです。
この神癒を求めている人や
実相をいのちがけで独力で顕わそうとする人にとって
理論もそうだが、
方法論が欲しいのです。
実相を求めるには
心の問題ですが
肉体を十字架に架ける、つまり
いのちを神様にお預けする必要があります。
このことがこわいと感じる人は多いです。
これは身体の行動が必要なだけに
勇気も必要だし、
安心して行動できる「信」も必要です。
「信」とは何か、
「信」はどのようにして生まれるのか、
このことの順序理解もいります。
実相というものは
「ある」と信じるものだけに現れる、
実在であっても主観的なものですから、
自分のいのちが神の子(実相)であるという確信を
求める人が使える方法論が
不可欠なのです。
実相独在が観念的なものにとどまってしまっているので、
方法論がないと現象なし実相独在が
実感的につかめません。
勿論これの大聖典は
勿論『生命の実相』ですが・・・。
受け継ぐ人が希小なのです、方法論をです。
実相独在を悟ることであると
知的に分っている人は
たくさんいます。
しかしその方法論について
断固として指導できた指導者の残された記録としては
私は藤原敏之先生以外は
見当りません。
谷口雅春先生の直接の講話や録画は
別にしてです。
私自身はもう雅春先生のご講話を一度も聞けない時に
参加したものですから、
雅春先生ご自身の直接のご講義は
うかがったことがないのです。
『大聖師御講義続々甘露の法雨』という本では
沢山の講師先生の指導例が載っていますが、
役に立つことはありますが、
綿密な方法論ではありません。
藤原敏之先生の5冊の本は
正に具体的な方法論そのものです。
実際のところ
病気の人や問題のある人、
さらに神癒の必要なさし迫った人にとっては、
実相の真理もそうですが
実相を顕わすための
方法論が必要なのです。
この方法論に関していえば、
これは私の個人的意見ですが、
あまり書いている人がないようです。
また講義している人も見かけないです。
神癒の指導は
指導者がいのちがけでやる必要があるし、
実相を観ることができる人じゃないとできないです。
この神癒を求めている人や
実相をいのちがけで独力で顕わそうとする人にとって
理論もそうだが、
方法論が欲しいのです。
実相を求めるには
心の問題ですが
肉体を十字架に架ける、つまり
いのちを神様にお預けする必要があります。
このことがこわいと感じる人は多いです。
これは身体の行動が必要なだけに
勇気も必要だし、
安心して行動できる「信」も必要です。
「信」とは何か、
「信」はどのようにして生まれるのか、
このことの順序理解もいります。
実相というものは
「ある」と信じるものだけに現れる、
実在であっても主観的なものですから、
自分のいのちが神の子(実相)であるという確信を
求める人が使える方法論が
不可欠なのです。
実相独在が観念的なものにとどまってしまっているので、
方法論がないと現象なし実相独在が
実感的につかめません。
勿論これの大聖典は
勿論『生命の実相』ですが・・・。
受け継ぐ人が希小なのです、方法論をです。