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やさしいようで実に奥が深いのが「生命の実相」の真理です

2018-07-26 19:11:46 | 日記
「生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。」
これは自分が「神の子」であることを悟れば
神癒が起こる、
と言っているのです。
「神の子」に病気がある筈がないからです。
でもこのことが分るには
親である“神”とはそもそもどんな存在であるのか
分る必要があります。
自分の親がどんな存在であるのか、
怖いのか優しいのか、
どんな力の持ち主なのか
知る必要があります。
あと“神の子”って何なのか、についても
知らねばなりません。
さらに神様と人とが
親子関係に入る必要があります。
神さまと人が
親子になってしまうと(正確に言えば親子なのだと気づくと)
子も自分の本体が神だと分るので
神の力が自然にあらわれて、
神癒が起こるのです。
ですが以上述べた
「神って何か」
「神の子とは何か」
「神と人と親子になる」
の3つがはっきりしないと
人間の生命が自性円満の自覚は
得られないでしょう。
藤原先生は
信仰に対して
1 真剣であること
2 素直であること
が必要であると書いておられますが、
私もそうだと思います。
「生命の実相」の真理を
探求する必要があります。
「人間は神の子である」ということは
とても分り易い言葉ですが
このことの真理は
実に実に奥深いというのは
まぎれもなく真実なのです。
藤原敏之先生のユーチューブ講話は
理解にとても役立ちます。

生長の家出現の目的

2018-07-26 11:51:51 | 日記
生命の実相第一巻に
「生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。」と
書かれています。
「これは本当の自分が「神の子」(仏子)であることを自覚すれば、神癒が起こります」
ということと同じ意味です。
久遠いのちの歌をごらんください。
【久遠いのちの歌
是の身は霓(にじ)の如し
霓(にじ)は久しく立つ能わず、
須臾(しゅゆ)にして消ゆ。

是の身は泡の如し、
泡は久しく立つ能わず、
須臾(しゅゆ)にして消ゆ。

是の身は幻(まぼろし)の如し、
幻は久しく立つ能わず、
須臾(しゅゆ)にして消ゆ。

是の身は響(ひびき)の如し、
響(ひびき)は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は稲妻の如し、
稲妻は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は浮雲(うきぐも)の如し、
浮雲は久しく立つ能わず、
須臾にして消ゆ。

是の身は水流(すいりゅう)の如し。
水流(すいりゅう)は久しく立つ能わず、
念々に流れ去る。

是の身は芭蕉(ばしょう)の如し、
実ありと見ゆれども、
中空(なかくう)にして実あらず。

是の身は炎(ほのお)の如し、
温(あたた)かく見ゆれども、
一切を焼き尽(つく)して空(むな)し。

是の身は夢(ゆめ)の如し、
実(じつ)ありと見ゆれども、
虚(きょ)にして空(むな)し。

是の身は迷より出(い)ず、
実(じつ)ありと見ゆれども、
妄(もう)にして空(むな)し。

この身は主(しゅ)なし、
主(しゅ)ありと見ゆれども、
主(しゅ)なくして空(むな)し。

この身は心性(こころ)なし、
心性(こころ)ありと見ゆれども、
瓦礫(がれき)の如く心性(こころ)なし。

この身は生命(いのち)なし
旋風(せんぷう)に舞う樹の葉の如く、
唯業力(ただごうりき)に転ぜらる。

是の身は不浄なり、
美しく見ゆれども、
内(うち)に醜(みにく)きもの充満す。

是の身は無常なり、
堅固(けんご)なりと見ゆれども、
必ずや当(まさ)に死すべき時臨(きた)らん。

泡の如く、霓(にじ)の如く、
幻(まぼろし)の如く、響(ひびき)の如く、
過ぎ去るものは実在に非ず。

汝ら実在に非ざるものを、
「我」なりと云うべからず。
当(まさ)にこれを「我」と云うべからず。

空(むな)しきものは「我」に非ず、
死するものは「我」に非ず 、
無常なるものは「我」に非ず。

法(ほっ)身(しん)こそ応(まさ)に「我」なり。
仏(ぶっ)身(しん)こそ応(まさ)に「我」なり。
金剛(こんごう)身(しん)こそ応(まさ)に「我」なり。
不壊(ふえ)なるものこそ応(まさ)に「我」なり。

死せざるものこそ応(まさ)に「我」なり。
尽(じん)十方(じっぽう)に満(み)つるものこそ応(まさ)に「我」なり。】

この最後の12行を人々に伝えることが
谷口雅春先生と生長の家出現の
目的であります。