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新約聖書「ルカによる福音書」

2018-07-15 19:02:26 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第一章>マリアの賛歌
54 その僕(しもべ)イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません。
55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
56 マリアは、3か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

「現象無し」とスカッと裁ち断り、実相独在を明快に斬然と主張した

2018-07-15 17:01:01 | 日記
谷口雅春先生が一貫してお説きになった「主張」は
「現象なし、実相独在」ということのみであった。
雅春先生の思想を受け継ごうと思う人は、
ただこれ一つ「現象なし、実相独在」を
人びとに伝えてゆけばよいのである。
それこそが尊師の御遺志を
受け継ぐことになるのだと信ずる。
(参考 生命の実相第27巻)
【生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として“在る”のであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない。混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、“無きもの”は混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。「現象は“現象としては”在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自伝が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと裁ち断り、実相独在を明快に斬然と主張しているからであるのである。】

宗教教育(生命の教育)

2018-07-15 12:46:06 | 日記
一気に実相超入なんて

離れ技は出来なくても

実相が顕われてくれば

神我一体の状態が

自分の環境世界に

現われてきます。

生命の教育も

つまり私が現役の教師時代に目ざしていた

児童生徒を信仰でよくしたいという願いも

実はこれだったのです。

現役時代には出来なくても

今ならできるでしょう。

でもそれでいいのです。

生命の教育なんて

特別な教育法があるわけでなく、

教師が実相をあらわして「神の子」の教育をすることが

それであって、

宗教教育(本物のです)のことを

いうのではないですか

「実相の正観」

2018-07-15 09:15:28 | 日記
実相を顕わすためには
「実相の正観」が必要である。
“観るものが現われる”というのは
本当にそうだ、と確信したものや事が
現われてくるということである。
神癒の体験談を読んで気づくことは
いろんな宗教を探し歩いて最後に生長の家にたどりついた人とか
もともとが
クリスチャンであったとか、
浄土真宗の熱心な信者であったとか
神仏を求め続けてきた経歴の持ち主が多い。
ただ肝腎の急所が他宗教は抜けていて
雅春先生のみ教えにはそれがあるから
実相を悟ることができたのである。
ただ他の宗教は肝腎の所が抜けているといっても
存在しないということではなく、
存在はしているが明確化されていないと
言った方が正しい。
私が言いたいことは
「実相の正観」ということであって、
実相とはそもそも何であるかの把握が
潜在意識が納得するまで過不足なく十分に為された時に、
「実相の正観」ができたということであるから、
やはり真理の探究が一番大事である。
ただし学的な真理の研究を
言っているのでないことは
勿論である。