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新約聖書「ルカによる福音書」

2018-07-28 16:44:20 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第一章>ザカリヤの預言
78 これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

藤原敏之先生の伝道姿勢

2018-07-28 16:18:26 | 日記
藤原敏之先生が
長野県の教化部長である時に
主として信濃練成において
おびただしい数の難病奇病重症患者を癒やしたのには
何か特別のことをしたのかというと
そうではないのです。
これはキリストが行ったと同じように
人間の実相(本当のありかた)は“神の子”であるから
その実相に気づかせ、
実相を顕わし出すことができたと
いうことなのです。
自分の中に“神の子”(仏子)が
厳然と存在しているという事実に気づかせ、
病者が自分をその“神の子”(仏子)に
委ねることに成功した時に
奇蹟が起ったということなのです。
ですから
創造主への信と
神に造られたものの本体(つまり神の子・仏子)の完全さへの確信が
神癒の起った理由になります。
しかしこれは真実(真理)なのです。
私たちが住むこの世界は
本当は神の完全世界の映しであります。
藤原先生の伝道姿勢は
以下のようなものです。
(参考 安心と喜びを得る道 藤原敏之 日本教文社)
【私にはみ教え通り、治らぬ病気も不自由な身体も“ない”という確固たる信念がありますから癌も悪性の腫瘍も一切相手にせず、唯々実相の完全さをのみ観じていく唯一筋でありました。ただ礼拝し、ただ合掌し、拝み切って、私心を放下して、講話し、諸行事を担当しておりました。そうしますと、次から次へと奇蹟的に難病が消え不完全な状態が本来の完全な姿にかえり、救いを成就してお帰りになるのであります。】


創造主と神の創り給うた実相世界の円満完全さへの信が生長の家の信仰

2018-07-28 10:48:04 | 日記
イエス・キリストが
ラザロを癒やしたり、
多くの病人を癒やすことを得たのは
創造主である神と
神の心で創り給うた実相世界の完全なることへの
信によるものであります。
神への絶対信頼と実相世界への絶対信頼とは
一つものと見ることができます。
藤原敏之先生が普通では治らない重症の病人を癒やせたのも、
神への信頼と神の創り給うた神の理念的存在の確信が
絶対的なものであったからです。
人はこれを奇蹟と呼びますが、
むしろ正しい考え方の所産であります。
現象世界は神の理念としての
目には見えない第一創造の世界の反映ですが、
人間が神から与えられた自由な心で描いた心の影であるので、
根底に実相世界が存在しているとはいえ、
実相と離れ実相からみては大いに歪んだ映像に
なっている場合があります。
ですから
神なる創造主の第一創造の完全世界を
つまり現象のフィルムの原版を
完全なるものに戻せば
心の影なる歪んだ現象も
完全さを取り戻すことになります。
実相の円満完全なることを
確信することです。
神の理念世界だから
完全なのです。
藤原敏之先生が
数多くの奇蹟を導いたのは
神と神の子(実相)への信の力によるものであると
思います。
藤原先生は特に「信」が強かったのです。
藤原先生だけでなく、
生長の家の神癒の奇蹟は
ことごとくそれであります。
そこで必要なのが
幼子の如く善なる愛なる神を信ぜよ、
ということです。
これは「神への無条件降伏」という言葉と
意味的には同じです。
この心境になるのに
私は時間がかかっています。
でもこのことの為には
神罰と思っていたのは神の罰なんかじゃなく
実は人間の自由な心が描いてきた間違いの心への
自己処罰なのだということが分らないといけません。
罰を当てる神などは存在しなくて
神は善であり愛であり万物を生々化育する存在であって
いつも人間を見守って下さっている存在だと
知らねばなりません。
人間の不幸は神の罰なんかじゃなく
心の影です。
神罰を当てる神では、幼子のごとく信じることが
不可能です。
善なる愛なる創造主への絶対信頼と
創造主の創り給うた実相世界の完全さへの確信が
生長の家の信仰なのです。
これが確立すれば
自分を救えるし
他の人も救えるでしょう。