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2018年7月勉強会資料

2018-07-16 10:07:56 | 日記
2018年7月勉強会資料 

当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり
2018/7/8
かつて霊界にいた私は
現象の時間・空間世界において
魂の修行をして来なさいと
神様の命を受けて
この現象の世に
下生したのであった。
他のすべての人たちと同様である。
だが
人間として人生を送るには
物質と見える(本当は波動)衣を着て
肉体身に化さねばならない。
本当は理念“神の子”であるものがだ・・・。
(久遠いのちの歌)
【法身こそ応に『我』なり。
仏身こそ応に『我』なり。
金剛身こそ応に『我』なり。】
私は肉体をまとっていても“神の子”の理念である。
アサガオの花は物質に見えても“アサガオ”の理念である。
現象世界は物質世界に見えても理念世界である。
<白隠禅師坐禅和讃>
衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり

現象界のすべてが相応する実相をもつ
2018/7/8
藤原敏之先生が『そのまま極楽の道』という本の中で
「実相とは理念のことです」と書いて下さっていたので
実相とは何かについて
ピンときました。
ちょうど今、
現象世界の奥には眼に見えない本体があって、
それが実相なのだというブログを
「正法眼蔵を読む」から
時々当ブログでも紹介していますが、
その眼に見えない本体こそが
キリスト教でいえばロゴス(神の言)であり、
仏教でいえば極楽なのです。
現象世界は仏さまが行をし合っている「行仏威儀」の世界なので、
私も仏さまであり、
家内も仏さまであり
木や草も山も雲も
仏さまなのです。
でも本体が理念世界ですから
現象は本体の即身成仏世界です。
私の本体は仏身であり実相身であり、
金剛身です。
実相が実感的に分ったことは
うれしいです。
実感できれば
自分自身が仏なのでお守り自身になります。
わかった理由は
絶対他力の実相全托観をしていることであり、
毎日思い切って出かける行を
しているからです。
藤原先生のご本の影響大です。
やはり仏教的にも実相が分ると(キリスト教のみならず)、
非常に心強く感じます。
あと神示集の中に
『実相金剛身の神示』を見ていただけますと
現象界のすべてが
実相である原形をもつ、
と書いてあるので、
ヒントになります。

本当の自分
2018/7/8
よく密教の仏画に
大仏の画が描かれていますが、
大仏のおなかのあたりに
小さな大仏が描かれているのがあります。
あのおなかのあたりに描かれている仏さまが
本当の自分ということなのではないでしょうか。

実相は現象に依存していない
2018/7/11
実相世界は
現象世界にまったく依存していない。
このことを説明しているよい文章がある。
(参考 正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
【<不依倚一物>
ところがそれに対して黄檗はこう答えた。
「十二時中不依倚一物」(ふえいいちもつ)
十二時は今の二十四時間であって、四六時中ということだ。いつもいつも、一物にも頼らぬ。常に独在して、独立独歩、これが仏性だ。その仏性の我は、たとい二十四時間の時間の枠内で生活しているように見えていても、時間に依存している存在ではない。「不依倚」である。又「不依倚一物」現象の物質に何ら依存していない。時間の枠の中で、この地上に生活しているようであって、そうではない。実相に在住するところの仏性である。従って「仏性明見」だ。仏性が明らかに見ているのである。しからばこの時間空間の現象界にいて、いついかなる国土にあるようでも、そこは絶対なる仏の国であり、「今」が“その時”なのである。】

生きているということは、そこに完全なる実相があるということ
2018/7/12
現象世界は実相の映しであり
実相は完全なる理念であり、
“いのち”そのものの世界であるなら
現象の心が
心のレンズの曇り即ち迷いの汚点を払拭出来れば
現象は実相の映しであるから
現象世界にも実相世界同様の
円満完全が現われるはずである。
ところで人が生きているということは
そこに生命があるということだから
生命は完全であるので
現象は本来なら円満完全であるのが本当だ。
不完全な生命など有り得ない。
円満完全が現われていないなら
それは真理の把握が不徹底で
現象アリとして
現象にとらわれるところが
未だあるからなのだ。
やはり潜在意識の底に達するまで
真理の把握とそれの実感が
必要である。

人間はすでに救われている、何故なら仏であるからだ
2018/7/12
人間はすでに救われている。
どんな場所にいてもだ。
何故なら仏であるからだ。
このことを真理的に知る必要がある。
<白隠禅師坐禅和讃>
【衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし】
聖経『甘露の法雨』より
【悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に
罪を犯さんと欲するも
罪を犯すこと能わず、
悉く夢なければ自性無病なるが故に
病に罹らんと欲するも
病に罹ること能わず、
悉く夢なければ本来永生(かぎりなきいのち)なるが故に
死滅すること能わず。】
【常楽の国土は内にのみあり、
内に常楽の国土を自覚してのみ
外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。
内に無限健康の生命を自覚してのみ
外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。】
雅春先生は
人間は実相の映しであるから
実相を離れたことなど一度もないと、
生命の実相第8巻「無限生命に汲む道」で
お書きになってくださっています。
神の子であり仏子である私たちは
実相の映しですから、
常に絶対安全を離れたことはないのです。
この事実を知って
確信にもっていきましょう。

自分の心の奥に“仏”が実在している
2018/7/13
さっきドトールで「生命の実相」27巻を読んだ時、
自分の心の奥に仏さまが存在しているのだと
はっきり理解できた気がしました。
現象の自分が仏さまだというのではなく、
現象の自分の“心の奥”に
実際に“仏さまが存在している”なんて
実にすごいことです。
「人間は神の子である」だけでは端的すぎて分らない方も
今日のご文章では
分り易いのではないかと感じます。

(参考 生命の実相第27巻)
【皆さん、極楽は今在る、ここにある、極楽は仏と仏のみの住む処である。ここに語るわたしは仏であり、それを聴く皆さんも仏である。すでにわたしも皆さんも仏である。(この肉体のことを言っているのではありません。この肉体は仮現(かげ)であって実在ではない。実在でないから常に移りかわる。そんなものを自分自身だと思ってはなりません。肉体の奥にあるあなたの実相―これこそ本当のあなた自身なのです)この実相が仏であり、これは移りかわらない、今も未来も過去も仏であり、今も未来も過去も仏である。仏のみが実在である。仏のほかに何もない―これを知ることが仏様にすべてを捧げたことなのです。仏様よりほかに何もない。現世に生きていようと、来世に往生しようと、要するに仏の世界である。この信仰があったら、われわれは臨終に不安になったりフラついたりすることはなくなってしまう。いつも大安心であって、今も極楽、死んでからも極楽往生なのであります。】

人間は「神の子「仏子」である真実に早く気がつき、「神の子」「仏子」の権利を取り戻さないと・・・
2018/7/14
本当は人間は実相の反映であるから
「神の子」「仏子」であるのに
そのように自覚していないから
「神の子」「仏子」の権利を
使えないでいるのです。
ですから実在が「神の子」「仏子」である事実を悟り、
現象の自分という人間が
実相の現象世界(色と形世界)への反映なんだから
実相世界同様に「神の子」「仏子」であると
気がつけば
神の子「仏子」としての権利が
使えるわけなのです。
ただ現象人間がそのまま「神の子」「仏子」であると
いうことではなく
現象人間の奥に「神の子」「仏子」が
本体として実在していると
いうことなのです。
でもやがて人は
実際に自分の意識的自覚として
「神の子」仏子」であるという気持ちに
なって行きます。
これが本来の在り方であり、
「神の子」「仏子」の素晴らしい生活に
なってくるのです。
もともと「神の子」「仏子」であるのに、
ただその事実を忘れちゃっているから、
自分で放蕩息子みたいな生き方をして苦しむこともありますが
一日も早く、
本来の「神の子」「仏子」の真実に
気がつくべきであるのです。

「生命の実相」を知る者は、“生ける水が腹から湧いて出る
2018/7/16
現象は現象心の現われであるから「無し」で
その代わりに「実相独在」のみなのだ、
という真理がはっきりとわかり、
神想観で「実相」を観じる努力を、
たとえ実相が見えなくてもあると決め込んで致しますと
だんだんと実相の素晴らしさが現象化してまいります。
つまり実相が出てきます。
このことは新約ヨハネ伝にも書かれています。
【<ヨハネによる福音書7・37~39 イエスは生ける水
(37)祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
(38)わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
(39)これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊(みたま)をさして言われたのである。】
【<ヨハネによる福音書第6・52~59 イエスは聖餐式のパン
(52)そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
(53)イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
(54)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
(55)わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
(56)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
(57)生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
(58)天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
(59)これらのことは、イエスがカぺナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
さらにまた人間は「神の子」であると
信じた人は、神からどんな時にも護られることになるのです。
ですので、人間は「神の子」であることを知り神さまと親子関係に入ることは、絶対に必要です。緊急の課題であります。
【詩篇 第 91 章
1 いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。】


「現象無し」とスカッと裁ち断り、実相独在を明快に斬然と主張した
2018/7/14
谷口雅春先生が一貫してお説きになった「主張」は
「現象なし、実相独在」ということのみであった。
雅春先生の思想を受け継ごうと思う人は、
ただこれ一つ「現象なし、実相独在」を
人びとに伝えてゆけばよいのである。
それこそが尊師の御遺志を
受け継ぐことになるのだと信ずる。
(参考 生命の実相第27巻)
【生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。「現象あり」と観ずればわれらは現象に力を認めるがゆえに現象を征服することができないのである。「現象も現象として“在る”のであって、かく本体界のみを主張し、本体界の完全観念を現象界にも適用せんとするのは、本体界と現象界とを混同するものである」との諸宗教家または哲学者よりの非難があるが、われらは本体界と現象界とを混同するのではない。混同とは現象界を在りと認めての立場であるが、われらは現象界無しと自覚するがゆえに、“無きもの”は混同するの恐れなきがゆえに、われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、現象界の不幸を征服することができるのである。「現象は“現象としては”在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自伝が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴らしい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと裁ち断り、実相独在を明快に斬然と主張しているからであるのである。】

「生命の実相」を知る者は、“生ける水”が腹から湧いて出る

2018-07-16 09:52:50 | 日記
現象は現象心の現われであるから「無し」で
その代わりに「実相独在」のみなのだ、
という真理がはっきりとわかり、
神想観で「実相」を観じる努力を、
たとえ実相が見えなくてもあると決め込んで致しますと
だんだんと実相の素晴らしさが現象化してまいります。
つまり実相が出てきます。
このことは新約ヨハネ伝にも書かれています。
【<ヨハネによる福音書7・37~39 イエスは生ける水
(37)祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
(38)わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
(39)これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊(みたま)をさして言われたのである。】
【<ヨハネによる福音書第6・52~59 イエスは聖餐式のパン
(52)そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
(53)イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
(54)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
(55)わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
(56)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
(57)生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
(58)天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
(59)これらのことは、イエスがカぺナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
さらにまた人間は「神の子」であると
信じた人は、神からどんな時にも護られることになるのです。
ですので、人間は「神の子」であることを知り神さまと親子関係に入ることは、絶対に必要です。緊急の課題であります。
【詩篇 第 91 章
1 いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。】