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本当の自分

2018-07-08 21:02:03 | 日記
よく密教の仏画に

大仏の画が描かれていますが、

大仏のおなかのあたりに

小さな大仏が描かれているのがあります。

あのおなかのあたりに描かれている仏さまが

本当の自分ということなのではないでしょうか。

現象界のすべてが相応する実相をもつ

2018-07-08 19:35:36 | 日記
藤原敏之先生が『そのまま極楽の道』という本の中で
「実相とは理念のことです」と書いて下さっていたので
実相とは何かについて
ピンときました。
ちょうど今、
現象世界の奥には眼に見えない本体があって、
それが実相なのだというブログを
「正法眼蔵を読む」から
時々当ブログでも紹介していますが、
その眼に見えない本体こそが
キリスト教でいえばロゴス(神の言)であり、
仏教でいえば極楽なのです。
現象世界は仏さまが行をし合っている「行仏威儀」の世界なので、
私も仏さまであり、
家内も仏さまであり
木や草も山も雲も
仏さまなのです。
でも本体が理念世界ですから
現象は本体の即身成仏世界です。
私の本体は仏身であり実相身であり、
金剛身です。
実相が実感的に分ったことは
うれしいです。
実感できれば
自分自身が仏なのでお守り自身になります。
わかった理由は
絶対他力の実相全托観をしていることであり、
毎日思い切って出かける行を
しているからです。
藤原先生のご本の影響大です。
やはり仏教的にも実相が分ると(キリスト教のみならず)、
非常に心強く感じます。
あと神示集の中に
『実相金剛身の神示』を見ていただけますと
現象界のすべてが
実相である原形をもつ、
と書いてあるので、
ヒントになります。



当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり

2018-07-08 16:18:29 | 日記
かつて霊界にいた私は
現象の時間・空間世界において
魂の修行をして来なさいと
神様の命を受けて
この現象の世に
下生したのであった。
他のすべての人たちと同様である。
だが
人間として人生を送るには
物質と見える(本当は波動)衣を着て
肉体身に化さねばならない。
本当は理念“神の子”であるものがだ・・・。
(久遠いのちの歌)
【法身こそ応に『我』なり。
仏身こそ応に『我』なり。
金剛身こそ応に『我』なり。】
私は肉体をまとっていても“神の子”の理念である。
アサガオの花は物質に見えても“アサガオ”の理念である。
現象世界は物質世界に見えても理念世界である。
<白隠禅師坐禅和讃>
衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり


新約聖書「ルカによる福音書」

2018-07-08 11:01:29 | 日記
ルカによる福音書(日本聖書協会)
<第一章>イエスの誕生が予告される
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

ただあるのは最上乗の仏のみであり、仏のまします世界、浄妙国土のみである

2018-07-08 10:29:51 | 日記
実相世界は現象的には見えないが
現象世界の奥の奥に独在していて
それが本当の自分である。
(参考 正法眼蔵を読む 仏性の巻 谷口清超著)
【<仏性の処在>
これがすなわち百丈の言うところの説法である。この五蘊(五陰)というのは、現象であり、物であり心であるが、それがそのまま不壊なる実相身である。何故なら、現象本来無であるから、そのままズーッと実相に直入するからだ。五陰にさえぎられる何ものもない。開きっぱなしの門のようなものである。今の一時的現象は、この門のようなもので、開かれているから中が見透しだ。この世の中を生きていても、生に引っかかることはなく、死にのぞんでも死に遮られることもない。生に執着して、四苦八苦することもなく、死をみだりに恐怖することもない。強いてそうするのではなく、現象無しだから自然にそうなる。すでに仏性あるのみであり、仏のまします世界のみである。それ故現象に引っかかり、動揺したり、執着したり、あるいは厭離しようとして抵抗することがない。そんなことは、仏の道から外れたことである。今目の前にあらわれる一切の出来事は、すべて心があらわれであり、過去の因の果として出てくる仮の姿であるから、何も引っかかることはない。すべてはすぎ去って行き、ただあるのは最上乗の仏のみであり、仏のまします世界、浄妙国土のみである。かかる悟りを百丈懐海禅師はのべられたのであった。】