創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価を斬る・41年目の検証-55

2017-03-01 10:15:30 | Weblog

藤原弘達・創価学会を斬る 41年目の検証 言論出版の自由を守る会編
                 (日新報道 2012/2)
    ------(257P)---(以下、本文)-------

①言論出版妨害事件は池田大作の指示と命令で起きた/山崎正友
◆ 全ての元凶は池田大作
 昭和45年に起こった創価学会による言論出版妨害事件は、元公明党委員長矢野絢也氏(当時・書記長)をして、
「これをさかいに、創価学会は興から亡の過程に入った……」と慨嘆させた、創価学会にとって決定的な影響を及ぼした事件であった。
  これを転機に、創価学会は単なる狂暴な狂信集団から大きく変質して、今日の陰険な謀略・詐術的集団への道をたどったのである。
 その過程に深くかかわり、これを助長推進した当事者の一人として、反省と懺悔を込めて、その真相をふりかえり、改めて国民に警鐘を鳴らす次第である。
 昭和44年夏、評論家(明治大学政治学教授)の藤原弘達氏は『創価学会を斬る』を執筆し、11月に刊行した。このことをゲラの段階で察知した創価学会は、あらゆる手段を用いて出版を阻止しようとはかった。
 出版社(日新報道)に圧力をかけ、藤原弘達氏に対しても出版を止めるよう強要した。法的に出版差し止めの仮処分、名誉棄損による告訴も検討したが、無理だとわかると今度は大手取次店に銀行筋から圧力をかけさせ、取り次ぎを阻止しようとした。
 大手新聞に広告が掲載されないよう圧力をかけた。創価学会の幹部が全国の書店をまわり、「潮出版社の社員」と名乗って、集団暴力や不買運動をちらつかせて「創価学会を斬る』を店頭から引っ込めるよう強要した。
 更には、竹入義勝公明党委員長を介して当時の自民党幹事長・田中角栄氏と赤坂の料亭で会い、出版差し止めへの協力を要請した。田中角栄氏は、これを受けて藤原弘達氏に会い、『創価学会を斬る』の一括買い上げと出版中止を持ちかけたが、藤原氏は断った。
 折から昭和44年暮れ、総選挙が行われ、創価学会・公明党とはげしく対峙していた日本共産がこれを攻撃材料として取り上げたのに対し、テレビ討論で公明党代表が“事実無根”と応じたことから、選挙後もこれをめぐって両党間ではげしいやりとりがつづいた。
 やがて一般マスコミも取り上げ、藤原弘達氏だけでなく内藤国夫氏、隈部大蔵氏ら多くの創価学会批判ジャーナリストに対し、同様の言論・出版妨害がなされていたことが明らかにされた。
 更に折伏や組織をあげての選挙運動、国立戒壇問題に創価学会と公明党との政教一致問題など、さまざまなスキャンダルや反社会的体質までが俎上にあげられ、マスコミのみならず国会でも追及が行われ、全国民的な関心事となった。
 昭和45年5月3日、池田大作は創価学会本部総会における講演で国民に謝罪し、言論の自由の遵守と政教分離、国立戒壇の否定や反社会的体質の改善等を約束した。
 それにより、騒動は一応収束した。
 池田大作は言論出版妨害事件について、「熱心な会員が行きすぎてやったことだ」として、自分のしたことではないと弁明した。しかし言論出版妨害事伴は、まぎれもなく池田大作自身の指示と命令によって惹き起こされたのである。
 当時、単身あるいは秋谷栄之助氏(現・会長)とともに藤原弘達氏宅に押しかけ、出版をやめるよう強要した藤原行正氏(元・創価学会渉外局長、昭和60年代初めに大橋敏雄代議士とともに池田大作批判を行った)は、その著書の中で、「44年8月末、朝早く北条さんから自宅へ電話をもらい、私は学会本部で池田から一つの仕事を命じられた。(中略)
(北條・秋谷同席で、池田大作は)
『政治評論家の藤原弘達が学会批判の本を出そうとしている。選挙前にこんな本が出るのは邪魔だ』
『藤原君は、彼と面識があっただろう。すぐに相手と話をつけて、余計な雑音を押さえろ』
 池田はいつもこの調子だった」(藤原行正著「池田大作の素顔」1989年4月発行、112頁)と述べている。
  更に、藤原弘達氏との出会いが不調に終わると池田大作は、「もっと強引に頼み込め。きみのやり方は手ぬるいんじゃないか。向こうからやられてもいい覚悟で徹底的にやってこい」(同書117~118頁)と叱咤した。
 更に同年10月15日、田中角栄氏が池田大作に頼まれて赤坂の料亭で藤原弘達氏と会談したとき、池田大作は竹入委員長と隣の部屋に身を潜ませ、こっそり聞き耳を立てていたのである。(同書126頁)

◆ 箱根に逃げた池田大作
 池田大作は公明党首脳に「事実無根で押し通せ」と厳命し、そのため藤原弘達氏が激怒し騒ぎがエスカレートした。すると彼らのせいにして、学会首脳たちの前で総括した。矢野絢也氏は箱根研修所で、皆の前で池田大作から数珠で何度も頭を打ちすえられた。
 昭和45年1月に入ると、池田大作は学会首脳や公明党議員に、他党やマスコミに対するなりふりかまわぬ接待攻勢をかけさせたり、恥さらしのモミ消し工作をやらせる一方、本人は重病人を装って、原島嵩氏ら特別書籍メンバーと第一庶務の女性たちだけをつれ、箱根研修所に逃避した。
 首脳たちの前に出るときは、頭に3つも4つも氷嚢をのせ、「ウンウン」とうなってみせた。
 その一方で、日に数回入浴し、第一庶務の女性とふしだらな生活にひたった。東京から伝えられる情報に一喜一憂し、夜中に原島氏らをたたき起こしてはオロオ口して「どうしたらいいか」と取り乱していた。
 池田大作は、5月3日の講演ですベてを他人の責任にし、謝罪するとともにさまざまな約束をしたが、現在の姿を見ればわかるように、何一つ改革されていない。すべて反故にし開き直っている。
 言論問題の後始末にあたって、池田大作は言った。
「学会を本格的に作りかえる。外は豪華客船のように、そして中身は最新鋭の戦艦にするのだ」
 私は創価学会本部の中枢に置かれ、池田大作の指示のもと、創価学会の作りなおしにかかった。
 私の仕事はすべての会計書類や法人事務書類を作りかえ、表向きは平和な合議による運営をよそおい、内実は池田大作の権威を更に強め、先鋭な牙を研ぎすますための作業であった。
 世間の目をごまかし、政教分離など一切しないでおきながら、完全にしているように見せかけるための迷彩を作り上げることだった。隠密裏に相手を倒すため、情報や謀略という陰険な牙を鋭利に研ぎすます作業だつた。
 池田大作と創価学会の引き起こすスキャンダルや反社会的行為を巧みに隠蔽し、池田大作の力リスマ化を一層はかる作業が加わつて、私はいささかうんざりした。
 従来の直接的なやり方ではなく、広告掲載や聖教新聞の印刷、池田本の出版というアメと、不買運動をちらつかせるムチを用い、マスコミを懐柔するとともに、全国の書店への巧みなアブローチによって、店頭から学会批判の出版物を追放する、より狡滑な言論出版妨害のシステムの構築作業であった。
 自民党から共産党にいたるまで懐柔し、労働組合や他宗とさえ、こっそりと手を握ろうと画策した。それらの工作のほとんどに成功して、今日の創価学会は外からはなかなかわかりにくい集団になった。
 唯一の失敗は、日蓮正宗を乗っ取って支配下におき、自らを末法の本仏・日蓮大聖人の再誕と位置づけることであった。日蓮正宗の死に物狂いの反撃と、私や原島嵩氏らの離反等もあって、池田大作は遂に日蓮正宗から破門され、返り討ちにあった。

◆ 創価学会の反社会的体質は不変
 言論問題で大きく変わり、巧みにカムフラージュされ迷彩がほどこされた中で、一向に変わらぬこともある。
 一つは、批判者、敵対者に対するえげつない攻撃である。公的な批判に対し、個人的な攻撃や陰険な手法を用いて対応する。オウム真理教と本質において変わらない。
 二つは、恥知らずな自己宣伝とナルシシズムである。聖教新聞一面には、相変わらず最大級の誇張した表現で池田大作を褒めたたえる記事が満載しており、金正日をたたえる北朝鮮の機関紙と瓜二つである。そして他の面の、現在我が国で出版されている出版物の中で最も汚い下品な表現をつらねる、敵対者への攻撃記事と、サイケデリックなコントラストをなしている。
 三つ目は、池田大作の見果てぬ国主への夢である。
 重病が噂される中で、久しぶりに6月の幹部会に姿をあらわした池田大作の姿には、生気と精気が失せて、老いの妄執だけが感じられる。
 死んでも死に切れない、病気になってもおちおち休んでいられない妄執が、創価学会の中心をいま静かにむしばみつつある。(文中・一部敬称略)
       ---------(263P)-------つづく--

 

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