創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

これが創価学会だ-20

2014-05-05 11:39:19 | Weblog
○これが創価学会だ…元幹部たちの告白…植村左内…あゆみ出版社…S45.2.10(1970)
──────(179頁から)────◇────────◇────────(以下、援用)
創価学会教義の出発点
◆得か損か
 創価学会は宗教団体ではない。
 こんなことをいうと、学会員たちは、異口同音に「とんでもない」というだろう。
 だが、事実は事実、嘘ではない。
 現在日本に、百万人以上の創価学会の退転者がいる。その数は、昭和四十年七月末の、駆引のな
い創価学会の本当の世帯数約百二十万世帯と、ほぽ同教と思って間違いない。
創価学会退転者の十人が十人、百人が百人、千人が千人、一万人が一万人、誰もが「創価学会は
宗教団体ではない」そうはっきり断言している。
 退転者たちは、昔は創価学会を宗教団体と信じ、それぞれに人一倍学会活動に専心してきた。折
伏の常勝将軍などと、学会員たちから畏敬の眼で見られた人もざらにいる。今頃まで学会にいたら、
当然、衆議院や参議院、あるいは地方議会議員になっていたはずの人たちもいる。
 そうした人たちが、何故学会をやめて、打倒創価学会を異口同音に叫んでいるのだろうか。それ
は、創価学会が、富士大石寺を小道具に、宗教という表看板のかげで、人間を不幸にし、社会を破
壞し統け、更に最高幹部らの欲望の実現を政界進出に求めてきたからだ。
 その証拠に、創価学会退転者の一人一人は、創価学会から威かされてきたような罰もなく、学会
時代より何倍も幸福な人間として、立派に社会に復帰している。
 創価学会を正しく直視した批判を、一般大衆の力強い世論として、一日も早く、社会悪と各種犯
罪の温床・創価学会を反省させなければならない。そうすることが、長年の間にわたり、創価学
会のために献身的な組織活動をし、一大魔境の温床づくりに営々としてきた退転者たちの、社会に
対するせめてもの罪亡ぼしだ。
 そうした創価学会の、許し難い悪の本質を知るためには、創価学会が宗教の仮面をかぶり、その
活動を宗教と称している以上、その宗教と称するものの内容がどういうものか、まずながめてみよ
う。
 創価学会の教義をあえて宗教と呼べば、それは、目的のためには方法手段を選ばぬ、徹底した現
世利益の追求だと、そういうことができる。創価学会の折伏教典(昭和42年度版269~270頁)によれ
ば、「宗教を心の問題だと思うのは、宗教に無知な者の浅はかな考え方で、宗教は利益追求のため
以外のなにものでもない」といっている。つまり、わたしたちが生きている限り、その生活の内容
は幸福か不幸か、得をするか損をするかのいずれか、つまり、正価値か反価値ということになり、
どうせなら、損をするより得をしたほうが良い。
こうした価値を追求する生活が宗数で、宗教は価値獲得の根源だと説いている。まったく大変な
宗教観だ。これが日蓮聖人の正しい仏法の教えだといい切っている。この価値追求を、もっと具体
的にいうと、「われわれが、また四畳半のところに生まれてきて、きたない着物を着て、年ごろに
なっても満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたりするのはいやです。生まれ落ちると、女中さん
が三十人もくっついて、ばあやが五人もいて、年ごろになれば、優秀な大学の卒業生として、お嫁
さんは向こうから飛びついてきて、良い子どもを生んで、りっぱな暮らしをして、そして死んでい
かなければならない」(折伏教典・34頁〜35頁)ということになる。
 そのために学会信仰が必要だという。学会信仰をしなければならない人を、四畳半のところへ生
まれてきた人に限定しているのは滑稽だが、こうした貧困な人たちを対象として「願いとして叶わ
ざることなし」という、安易な現世利益のマスプロ化を打ちだしたところに、学会教義の出発点が
ある。
 こうした学会教義を、いろいろともっともらしく飾りたてて、一見難解なものとして仕上げたの
が学会教学だが、元来、日蓮聖人の教義は、そんな低俗なものではない。
 宗教を心の問題だと思うのは、宗教に無知な者の浅はかな考え方だとした創価学会の前提は、日
蓮仏法に対して、とんでもない根本的誤りを犯かしている。誤った前提に、数々の誤りを積み重ね、
組み合わせて出来あがつた学会教学だが、およそ宗教と全く無関係な方向に走り、人間を功利心の
塊にしたとしても不思議はない。
 創価学会で否定している心を、日蓮仏法では肯定している。肯定しているだけではなく、最高の
ものとして重視している。
 日蓮大聖人の御遺文、日女御前御返事(学会版御書全集1244頁)には「此の御本尊全く余所に求る
事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり」と。また、一念三千理事(学会版御書全集408頁)には「心縁
と合すれば則ち三種世間・三千の性相皆心より起る」と。更に、十二因縁御書では「心は法華経な
り、法華経は我等が心なり、法華経を知らざるは即ち我が身を知らざるなり」と説いている。
 これを簡単に説明すると、まず日女御前卸返事では、御本尊は、わたしたち衆生の心の中(胸中の
肉団)にあると喝破されている。これを九識心王真如の都というのだと、いわれている。
九識については御義口伝(御書全集730頁)に「我観一切普皆平等とは九識なり」また、「日蓮等の
類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は豈我観一切普皆平等の九識の修業に非ずや」と説かれている。
 つまり、九識は仏ということができる。
 また、九識はわたしたち人間の本休ともいえる。もっとくだいていうと、心が内外の対境に対し
て、その異同を知る作用を識という。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を六識といい、これに
末那識、阿頼識、阿魔羅識を加えたものを九識という。
 阿魔羅識を如来蔵識ともいい、この第九識を心王と立てる。心王とは心の主作用をいい、心の伴
作用を心所という。真実で、しかも虚妄をはなれ、不変不改のものを、これを真如という。九識は
真如の本識だから、真如の都といわれた。つまり、どういっても同じことだが、日蓮聖人の教えの
究極は、心にある。
 だから十二因縁御書にあるように、心は法華経即ち九識即ち我が身ということになる。一念三千
理事では、人生、家庭、社会などのもろもろの現象、様相は、人間の心が内外の対境に縁すること
によって起こるものだと説かれている。宗教を心の問題ではないとした、創価学会の教義は、とん
でもないひが事だ。

◆無戒の仏法
 日蓮聖人の御遺文、南条兵衛七郎殿御書(全集1495頁)に「仏入滅の次の日より千年をば正法と
申して持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり破戒の者は多く得道すくなし、
像法千年の後は末法万年なり持戒もなし破戒無戒の者のみ国に充満せん」とある。
 末法、つまり現代の大衆はすべて無戒の者だけで、従って末法の宗教は無戒でなければならない。
現代人に戒律を説いても、これは大変な努力を必要とする。
 別に戒律をもうけなくとも、大衆が無意識無明に振り回わされることなく、その言動も自ら則を
超えない道があるなら、結構なことではないか。
 教行証御書(御書全集1282頁)に「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善
の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」とあるように、妙法
蓮華経は万戒ということになる。つまり、寿量文底三大祕法の南無妙法蓮華経を護持すれば、五
戒十戒、二百五十戒というような戒律をたもち、自分で修業しなくとも、自然に万戒の徳が備わり、
得道することができる。法華経が末法の正法といわれるゆえんが、ここにある。
 しかし、寿量文底・三大祕法の南無妙法蓮華経を護持するということは、創価学会がいうように、
富士大石寺の板本尊に題目を唱えたり、公明党の選挙票稼ぎをすることでは決してない。それはま
ず心の組立を知り、それを磨き、自らが応身仏であるとの自覚に立って自行化他の南無妙法蓮華経
を行ずることを意味する。そうすることによって、思うがままに自由奔放な生活を送ることが、そ
れがそのまま則を超えずすべての戒律にぴたりと嵌りこんでしまうということだ。
 日蓮仏法は、たしかに無戒を説いている。しかしそれは、創価学会がいうような、そんな安直な
低俗な道ではない。人間得道のための修行の場だ。

◆板本尊は、まっかな偽もの
 創価学会では、富士大石寺の奉安殿に安置されている板本尊(縦144㎝、横65㎝、厚さ6.5㎝の長
方形の楠のマンダラ)を信仰対象として、これに題目をあげて願い、折伏をし、公明党の選挙票を
搔き集めさえすれば、どんな願い事も百パーセントかない、死ぬ時までに必ず成仏して、つぎに生
まれ代つてくる時は、幸福のすべてを具えて生まれてくるといっている。
 ここでまずいっておきたいことは、日蓮聖人は、創価学会の説のような仏陀観から見た本尊観を、
どこにも説いていないということだ。日蓮聖人の本尊観は成仏観を通して見た本尊観で、本尊問答
抄(御書全集395頁)には「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く
法華経の題目を以て本尊となすべし」といわれている。また一生成仏抄(御書全集383頁)には「妙
法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず、そ法なり」とい
われている。
 したがって仏教理論的には、富士大石寺の板本尊について云々することは、全くナンセンスなこ
とかも知れない。しかし現実には学会員たちが、この板本尊に血みちをあげて夢中になっているか
ら、この板本尊の正体を明らかにしておく必要がある。
この板本尊は人法一箇といわれ、それがそのまま日蓮聖人そのものだともいいっている。また、宇
宙の生命の当体ともいつている。正確な呼び名は、一閻浮提総与の御本尊といい、弘安二年十月十
二日に、日蓮聖人が楠の板に書いたものを、弟子の日法上人が彫刻して金泥にしたと創価学会では
主張している。
 ところが、創価学会の小平教学部長がその著書の中で「たしかに、弘安二年十月十二日に、この
御本尊が図顕されたという文証は何処にもない。しかし証拠はなくとも弘安二年十月十二日に図顕
されたことに間違いない」と苦しい首い逃れをいつているように、創価学会にとつてオールマイテ
ィな存在であるはずのこの板本尊は、その戸籍が極めて瞹眛模糊としている。
 創価学会が主張するように、後世の民衆を根本から救い切る力を持った、それほど偉大な本尊な
ら、しかも、日蓮聖人の出世の本懐といわれるほどのものであるなら、何処かに日蓮聖人ご自身の
記録があっても良いはずのものではなかろうか。ところが、それが一向に見当たらないから不思議
だ。
弘安二年十月十二日、つまり板本尊が図頭されたと称する同じ日に、日蓮聖人は日興上人に宛て
書状をつかわされている。。これは学会版御書全集の1456頁に『伯耆殿等御返事』として収録されて
いるが、その内容は、当時の熱原の法難に対する一連の沙汰書で、板本尊のことには一言半句もふ
れていない。どう考えても、おかしな話だ。
 日興上人、即ち伯耆坊といえば、富士大石寺の開山でもあり、創価学会にいわせれば、日蓮聖人
から血脈を相承した正滴ということにもなつている。どこをどう考えても、これでは余りにもつじ
つまが合わな過ぎる。
 一生の間を通じて、実に尨大な書状を、折にふれて門下につかわされた日蓮聖人が、これほどの
大事を何故書き残されなかったのか、それは、それほどの大事が無かったからだと解釈するほか、
理解のしょうがない。
 熱原の法難といえば、創価学会が苦しまぎれに、日蓮聖人の、出世の本懐を証する文証だとしてい
る。聖人御難事(御書全集1189頁)もまた、御自身の法難を引用されて、熱原の法難に対処する心構
えを、門下に説かれたものでしかない。創価学会では聖人御難事の「此の法門申しはじめて今に
二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の
本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先々に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は
各々かつしろしめせり」を、余、即ち日蓮聖人が二十七年で出世の本懐を遂げたと訳している。だ
から、十月十二日の板本尊は日蓮聖人の出世の本懐だと、こういっている。
 ところが、この聖人御難事は弘安二年十月一日におしたためになったもので、十月十二日にした
ためられたものではない。弘安二年十一月三十日にしたためられた、中興入道消息(御書全集1332頁)
の「建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間・退転なく申しつより候」と対
比して読めば、聖人卸難事の「余は二十七年なり云々」は、出世の本懐を遂げたことの意味でない
ことが、いっそうはっきりする。
 富士大石寺の五十九世、堀日亨上人は、その著書「熱原法難史」の中で『先師がよく、聖人御難
事をもって本尊戒壇建立の証とされているが、その文便はないようである』と、全面的に創価学会
の主張を否定している。
 先師とは、大石寺二十六世の日寛上人のこと。日寛上人は、日蓮上人の御遺文を自我流の直覚で
解釈して、日蓮仏法をとんでもなくゆがめてしまった。この日寛教学と、創価学会の価値論とをう
まい具合に交ぜ合わせて、板本尊というシェー力ーで振りだしたのが、現在の日蓮正宗という名の
カクテルだ。
 堀日亨上人は、学会版御書全集の編纂にあたった方で、その発刊の辞で二代会長戸田城聖氏が、
「斯学に造詣深き日蓮正宗五十九世の法主たりし堀日亨上人猊下が、云々」と讃辞を呈しているの
も、皮肉なとり合わせではないか。いまも述べてきたように、大石寺の板本尊に対する日蓮聖人自
らの文証は、なにもない。あえて何らかの形で文証を求めるとするなら、なかなか傑作な文証が、
大石寺の古文書の中にある。
 富士宗学要集五の家中見聞抄に「或時日法御影を造り奉らんと欲して七面大明神に祈念し給う、
感応の至りか浮本出来せり、此の本を以つて大聖、戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す、今の板本
尊之なり」明細誌には「此の木甲斐七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男
弥四郎国重之を取り上げて大聖人に献ず等云々、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝云
々」祖師伝には「九代日有、板本尊を偽作の為め癩人となり甲州杉山に死す云々」
 七面山が開山されたのは、永仁二年九月十九日というのが、史実に基づいた正確な時代とされて
いる。これは弘安二年から数えて十六年目にあたる。また板本尊の文証は、日蓮聖人御入滅後二百
年間にはなにもない。大石寺の第九代法主、日有上人は日蓮聖人滅後二百一年の人。
 この日有上人についてはさらに、明応ニ年九月二十五日(祖滅二十二年)の富士山本門寺文書集日
浄記に「日有開山(開山日興上人)の本懐に背き未開、未見の板本尊を彫刻す、若し日有の狂惑世間
に流布せば興門の道俗共に無間地獄に堕し将来悲しむべし、悲しむべし」と書かれている。
 富士山本門寺(北山本門寺)は大石寺と同じ日興上人の開山、日浄上人は北山本門寺の六世で、
大石寺九世の日有上人と同時代の人。日興上人は本に本尊を彫むことについて、富士一跡門徒存知
の事(御書全集1606頁)に、「一、御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賤する由・諸
方に其の聞え有り所謂日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を
捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者
なり」と誡められている。
 これらの文証を総合すると、大石寺の板本尊は日蓮聖人の御作ではもちろん無く、日蓮聖人時代
の作でもなく、後世日有上人の偽作というのが、本当らしい。なによりも日興上人が、木に本尊を
彫むことを誡められたその文証が、こともあろうに堂々と、学会版御書全集に掲載されているのは
面白い。
 日蓮聖人の出世の本懐が彫刻の板本尊だとするなら、日興上人が彫刻の板本尊を禁じられるはず
がない。現在の富士大石寺には、弘安二年の御作と称されるもののほかに、彫刻の板本尊がゴロゴ
ロしている。その末寺の本尊もすベて、彫刻の板本尊だけだ。これは、開山日興上人の本懐に背い
た謗法の姿といえる。
 弘安二年十月十二日の板本尊については、さらに面白い話がある。創価学会版、戸田城聖先生質
間会集23頁に……
「こういう問題があるのです。有師様という方がいらっしやった」日有上人と申しあげて、お偉い
方なのです。その方が、その一閻浮提総与のお曼荼羅を偽作したと、邪宗ではいうのです。これは
大問題なのです。それから私は、宗務総監に話したのです。『そんなことがあるのですか』と聞い
たら、そんなことはないというのです。ないのがあたりまえです。『でも有師様が何か作ったもの
はないのですか』といったら、『ある』というのです。『日蓮大聖人さまの御本尊を板曼茶羅にし
たという事実はある』というのです。
 私もおどろきました。りっぱな御本尊さまです。そして、金文字が一ペんはがれたのです。それ
が、元禄だか文化だか知らないけれども、徳川時代の塗方師のはしがきがうしろにあるのです。有
師様が作った本尊というのは、それなのです。それがあの、小さい御宝蔵があるでしょう。その御
宝蔵にあるのです。
 まあ、本山はのん気なものです。しかし、それはだれにも見せないのです。私ががんばったので、
私と教学部長には見せた。それであと秘書部員ふたりには、正式に見せない。私と教学部長だけは、
きちんと拝んで、ほかの者は石だたみの上で拝んだのです。だから、いまの大御本尊さまは、有師
様が偽作したと、こういうことをいう者がいます。有師様が作った御本尊さまは、きちんと別にあ
るのです』
 と記録されている。日有上人は、たしかに板本尊を彫刻したが、この板本尊は、奉安殿の弘安二
年の板本尊とは別に宝蔵の中にあるといつている。
 しかし、宝蔵の中にあるはずの日有上人の板本尊は、戸田城聖氏と小平教学部長を除いて、誰も
見た者がない。戸田城聖氏がいうような、りっぱな御本尊さまなら、大石寺の何処かに安置したら
よさそうなものだ。安置できない理由はどこにもない。あるものなら、安置しないことのほうが不
思議だ。
安置するに相応しい場所は、大石寺の中にあり余るほどある。しかも、安置しないだけでなく、
だれにも見せないというのは、ますますもって不可解なことだ。板本尊の偽作論が、やかましく云
々されてきただけに、事実日有師作のものがあるのなら、安置するのが常識だ。にもかかわらず、
安置できないということは、安置できないだけでなく、だれにも見せないということは、とりもな
おさず日有師作の本尊は、宝蔵の中にないということに他ならない。
 大石寺の一年一度のお虫払いに、宝蔵の中の宝物は必ず陽の目を見るはずなのに、日有師作の板
本尊は、その後杳として消息をたち、今日まで誰も見た者がないというのは、これをどう解釈した
らよいのか。過去には宝蔵の中にあつたのだが、今は無い。こう解釈すべきだろう。過去とは、戸
田城聖氏が見たと称する時よりも、はるか遠い昔の意味だ。つまり、戸田城聖氏も本当は見なかっ
た。無いものを、見られるはずがない。
 それでは、過去に宝蔵の中にあった日有師作の本尊は、現在何処にあるのだろうか。創価学会会
長、池田大作氏の言葉をかりてはっきりさせてみょう。
 池田大作氏は、昭和三十九年五月三日の、日大請堂における第27回本部総会の席上、次のような
発言をしている。
「広宣流布の時きたって大御本尊さまは御宝蔵から奉安殿へ、奉安殿から正本堂へとお出ましにな
るのであります」
つまり、現在奉安殿に安置されている板本尊は、その昔宝蔵の中にあったという。いいかえれば、
日有上人作の板本尊は、奉安殿の中に現存し、学会員たちが血みちをあげて拝んでいると、こうも
いえる。
 いずれにしても、どの角度からみても、弘安二年の板本尊は、後世の日有師の偽作ということに
なるのではなかろうか。さらにこれを科学的に立証するなら、弘安二年の板本尊は、その筆跡鑑定
でも、後世偽作説を裏付けることができる。
 日連聖人の御真筆のマンダラ百二十三輻と比較対照すると、板本尊は弘安二年における日蓮聖人
の年代的持徴に反し、完成時代の筆法を主として、各年代の筆蹟的要素が雑然と取り入れられてい
る。さらに、日蓮聖人の筆とは異なる筆蹟的要索までが加わっている。即ち弘安二年御作と称する
板本尊は、明らかに後世の偽作と証明される。
 ここで創価学会を定義すると、創価学会とは、嘘の教義と、嘘の本尊と、すべてが嘘で固まった
無明の集団ということになりはしないだろうか。

◆その教義のカクテルべース
 創価学会が称する日蓮正宗とは、日寛教学と、創価学会の価値論とを、うまい具合に交ぜ合わせて、
板本尊というシェーカーで振りだしたカクテルだと前述した。
 現在の学会教義のカクテルべースは、日寛教学というより、価値論だといったほうが当っている。
それほど低俗愚劣な教義をもって、宗教と自負しているのが、創価学会という一大魔団の実相だ。
 創価学会の発足は、宗教団体としてではなく、教育界に対する刷新団体としてのものだった。そ
れは、昭和五年、初代会長牧口常三郎氏が〝創価教育学〟という教育目的論を発表したことにはじ
まる。
 故新渡部稲造博士が「創価教育学はその目的論において、過去現在の教育目的論に厳粛なる解剖
のメスをふるい、その根本的誤謬を指摘し、その清算の上に教育の母体たる現実社会に即せる新し
きいわゆる独創的教育目的論を建設したものである。云々」と讚辞を送っていることでも明らかだ。
この創価教育学大系の中に、価値論に表現された『利』の概念が、宗教の場を、時限の低い、許容
される限りの世俗の中に引きずりおろし、創価学会流日蓮正宗の骨子となった。
『利』という概念は、ヴインデルバントやリップス、リッケルトといったような新カント派哲学者
の影響を受け、これにアメリカ流のプラグマティズムを導入したものといえる。真・善・美・聖の
認識の系列について、聖という宗教的価値の発想を利に利に置き換え、これに真を包含させて造り
だした、美・利・善という、極めて世俗的な認識の系列が牧口氏の価値論を形成している。
 これはたしかに、反面、新カント派の主知主義的傾向の認識論に対して、主意主義的な『生の哲
学』の立場に立っているともいえるが、価値論の内容的観点においては、それは既に哲学ではなく、
大衆的欲望の肯定につながる、低俗的な。リアリズムといつたほうがあたっている。
 価値論に「目的とするところは個人にとっても社会にとっても、全人類の一人一人が無上最大の
幸福を獲得するにある」而してその幸福の要素はすべてが価値の創造である」と。また、「価値と
は目的に対する手段の関係に立って実在が(物質的でも精神的でも)その目的を達成せしむる力の
総量をいうので、人生の目的たる生命の保全に対し有利と判断させる各々の種類程度に則して善と
いい利といい美という」といっていることでも明らかだ。
 価値論と日寛教学のカクテルで洗脳された学会員たちが、その小市民的欲望の。リアリズムを板
本尊の中に求めて、「願いとして叶う」はずの期待可能のとりこになったとしても、少しも不思議
なことはない。
 その結果、学会員たちの日常が、凶悪犯罪の道につながるのは、必然的な社会現象だといっても、
あながち的はずれな結論ではあるまい。「願いとして叶う」はずの期待可能性を求めて、創価学会
に奉仕する生活は、やがて、学会員自らその自己を喪失し、自らを破壊してやまないからだ。

───────(~195頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆猿はエサのために芸をする。
 宗教とは‥‥詐欺・ウソ・ハッタリ・偽善の〝総合デパート〟
 私の立ち位置は、創価・日蓮正宗、日蓮に釈迦‥イエスにアッラーも‥‥
 ただ、近世の天才は池田ですねぇ‥‥
 何分私のカミさん、70過ぎて池田教の信じゃ‥
 〝絵に画いたバナナ〟であることを知らずに‥‥を祈ります。
 そうなんです。〝知らぬが仏〟が一番の幸せですねぇ‥‥。

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)

 

 
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