創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作「権力者」の構造-5

2014-05-25 11:41:32 | Weblog
○池田大作「権力者」の構造……溝口敦…講談社+α文庫…(2005/9) <=5>
──────(47頁から)────◇───────◇──────(以下、援用)
第二章 偽造の履歴
◆創価学会との出会い
昭和二十二(一九四七)年八月十四日は池田にとって、記念すべき転生の契機とな
った日付だった。その日、彼は創価学会に初めてふれ、以後、半信半疑のうちに創価
学会員としての生活を始める。創価学会との出会いは、それ以前の要領を得ない生活
から池田の足を洗わせ、彼を確信ある男に仕上げていった。それは新生に等しい、彼
の生涯の画期となる事件であり、その池田に持った意味は強調して、しすぎることは
ない。
 しかし、その遭遇は、のちに創作された入信神話(これについては後述する)のよう
には神秘的でも劇的でもなかつたし、それからの道程も坦々たる一本道ではなかっ
た。
 池田は昭和三十年ころ、宗教学者のインタビューに答えて、入信前の心理や座談会
の模様、入信までの経緯や信者としての生活等を語っている(小口偉|編「宗教と信
仰の心理学」新心理学講座,第四、前章でも引用した)。
インタビューでの池田の回答は、いくつか細かな事項が、一般に行われている説と
相違するが、宗教学者・日隈威徳はもっとも事実に近く、かなり率直なものと見るこ
とができるとしており、少なくとも池田の当時のいつわらぬ心境を察知するには十分
である(池田に関する資料は発表年時の古いものほど、ことに会長就任前のものほど、信
憑性が高いといえる)。以下、それを敷衍するかたちで彼の入信の状況とその後の生活
を見てみょう(『宗教と信仰の心理学』からの池田発言の引用に限って《》で括る)。
《終戦の反動でなにかやりたいという気持があって、学校時代の友人にさそわれて創
価学会の本部へ行きました。その友だちは哲学のいい話があるがこないか、とさそっ
たのです。私は友人と二人で行ったのですが三、四十人もいたでしようか。五時間く
らいもそこで締めあげられたのです》
 ふつう池田と創価学会(戸田)との出会いの場は、蒲田の焼野原にあった、池田の
小学校時代の友人宅で行われた座談会の席上とされている。
「私が信心したのは満十八歳のときで、小学校の同僚で女の人から折伏されたので
す」(『聖教新聞』昭和三十四年二月六日)
 とあるように、池田は小学校の同級生である三宅ゆたか家の次女に誘われ、創価学
会の集まりに出かけたのが最初である。池田は彼女に好意を持っていたので、それに
魅かれて出席した(『週刊文春」昭和五十五年六月十九日号)。そしてその後、この『宗
教と信仰の心理学』にあるように、西神田にあった日本正学館内の創価学会本部へ出
かけた。「五時間くらいもそこで締めあげられた」は強引な折伏の様子と、それに対
する池田の、いまだ健全な心事を推察させる。
 このころ、新興宗教は、第一次大戦前後の大本教に代表される第一期、日中戦争開
始までの大本教、ひとのみち、生長の家、霊友会などの第二期の後を受けて、「神々
のラッシュ・アワー」といわれる第三の隆盛期を迎えていた。
 敗戦直後の庶民は天皇制宗教の衰微、家族制度の変改、経済的思想的混乱等に見舞
われ、先行き不安感を深めていた。そのような社会心理状態は、国家と神社神道の完
全な分離を命じるの神道指令や宗教団体法の廃止、宗教法人令の公布施行など
の一連の信教自由化策と相まって、個人の現世利益を説き、崩れさった天皇の権威に
かわって心の拠りどころを示す新興宗教の形成と成長に絶好の基盤を提供していた。
 池田もまた「なにかやりたい」と思うものの、生活規範となる信念や、生活の基礎
というべき健康を得られずに、拠りどころを求める一人であり、創価学会も再建とは
いえ、新たな旗揚げにかわらぬ群小教団の中の一つだった。両者の出会いは、多くの
教団の中から池田が創価学会を意図的に選んだのでもなく、病・貧・争に悩む無数の
青年のうちから創価学会が池田に目をつけたのでもなく、まつたくの偶然にすぎなか
った。

◆創価学会の歴史
 ここで簡単に創価学会の歴史と、池田入信時の状態にふれておこう。
 同会の前身・創価教育学会は昭和五年、牧ロ常三郎、戸田甚ー(のちの城聖)によ
り創設されたとされる(一説に、昭和五年は牧口の『創価教育学体系』第一巻が発刊され
た年にすぎず、十二年の発会式をもって創立の年とする見方がある)。彼らはこの二年前、
日蓮正宗に入信している。
 当初創価教育学会は牧口の著述した『創価教育学体系』の刊行を目的とし、宗教臭
はほとんどなかったが、しだいに日蓮正宗への傾斜を深め、十二年政友会・古島一
雄、元外交官・秋月左都夫を顧問、牧口を会長、戸田を理事長にして正式発足し、外
部に研究生を求めた際には、正宗の信者であることが条件となっていた(宗教学者・
竹中信常はその著『創価学会』で、「いくら探求しても、創価学会が日蓮正宗と結びつかね
ばならなかったという、理由をいまだ発見することはできない」としている)。
 同会は小学校教員を中心として、昭和十五年五百人、同十六年三千人と増加し、機
関誌『価値創造」を創刊するまでに順調に発展していったが、十八年、当時全戸に配
布されていた伊勢神宮のオフダの受領を拒否して弾圧され(後に詳述する)、牧口、戸
田をはじめ幹部二十一名が投獄された。獄中で牧口、戸田、矢島周平を除く幹部たち
は転向し、牧口は十九年老衰と栄養失調で獄死した。
 戸田は二十年七月、保釈出所し、下獄中に解体した彼自身の事業の建てなおしに着
手するかたわら、創価教育学会を創価学会と改めて再建し、二十一年正月から戦前の
会員等に法華経を講じはじめた。
 同年五月には第一回、第二回幹部会を相ついで開き、理事長に戸田、理事に本間直
四郎、岩崎洋三、西川喜万、藤森富作、原島鲤之助、小泉隆、辻武寿をあて、六月に
は『価値創造』再刊第一号を発行、また青年部を結成した。
 当時の創価学会の拠点は蒲田(小泉、辻、小平芳平)、鶴見(森田悌二)、小岩(和泉
覚)、杉並(山浦千鶴子、柏原ヤス)、目白(原島)等にとどまり、そこでは月に 一、二
回の座談会が行われた。また八月には富士大石寺で、二十九名を集めて戦後第一回の
夏季講習会が開かれ、九月には栃木県那須や群馬県桐生で地方折伏を始め、二十一年
中に創価学会の再建をほぼ軌道にのせている。
 戦時中の創価教育学会への弾圧は、天皇制や侵略戦争に反対したからではなく、そ
れらをいっそう強化するために、その誤りを諫める(国家諫暁)という立場を固執し
たために加えられたものであった。
 しかし、同会は他の多くの教団のように権力の指示を忠実に奉じて踊ったのではな
く、逆倒したかたちではあったが、権力に対して批判的で、統制に抵抗したのであ
り、そうした経歴が戦後の強い発言権を保障していた(佐木秋夫「創価学会の歴史につ
いて」、『文化評論』昭和四十五年三月号)。
 創価学会が国体護持、戦争協力にこれつとめてきたひとのみち(PL教団)や生長
の家のように看板や教理を塗りかえることなく、短期間に戦前の水準に回復したのは
自然であり、昭和二十二年時にも毎月十─二十世帯の新入信者を保っていたという。
 池田入信前の主たる会員には前出のほか、奥山和平、柏木敏、寺坂陽三、木下鹿
次、竜年光、酒井うめ、牛田寛、原田立らがいたにすぎず、池田が後日、会長の地位
はともかく、ある程度出世するに不都合なほど多数とはいえなかった。彼はまだ遅れ
てきた青年ではなかったわけである。
《南無妙法蓮華経は嫌いだつたので、ずいぶん反対したのですが、理論で破れて信仰
しなければいけないということになってしまったのです。負けたのでシャクにさわっ
てしかたがない。その時の感じをいえば、理論をうけとめる素地がないからわからな
い。それだのに相手は確信をもって話している。こちらは観念的で浮いているような
感じがしたんです》
 池田は、「南無妙法蓮華経は嫌いだったので」といっているが、彼の父親は真言宗
の強信者であったうえ、当時の風潮も、たとえばPL教団ではお守りをアミュレット
と呼びかえるなビ、植民地風が濃厚であり、日蓮正宗ならずとも仏教でありさえすれ
ば、一様に時代遅れに見え、若い池田が信仰するには抵抗の多いものがあった。が、
彼は座談会の前に、「討論して負けたら、いさぎよく従う」と明言していた手前、不
承不承入信しなければならなかった。
 東洋商業をその年の三月に出たばかりの池田は、戸田に仕込まれた小平芳平の理屈
に太刀打ちできなかったばかりか、逆に頭から呑まれてしまった(池田を折伏したの
は戸田ではない。これについては後述する)。
 戸田はヒバリ天とあだ名されたように、人生の浮沈をきわめ、辛酸をなめつくした
経歴の持主であった。
 彼は明治三十三(一九〇〇)年二月、石川県に生まれ、三十七年、一家をあげて北
海道石狩郡に移住した後、厚田尋常高等小学校を卒業、独学して尋常小学校准訓導の
資格を得、大正七年、夕張郡の真谷地尋常小学校に勤め、同年中に正訓導の資格を得
た。
 大正九年、同校を退職、上京し、八月ころ、下谷の西町小学校校長であった牧口常三
郎を訪ね、同校の臨時代用教員として採用され、以後、牧口の忠実な部下となった。
 牧口も苦学力行という経歴では戸田と同様であり、それが牧口の学者肌、戸田の街
の事業家風といつた両者の気風の相違とともに、彼らの親交を終生飽きさせないものに
していた。
 牧口は明治四二(一八七一)年六月、新潟県に生まれ、苦学して二十六年、北海道尋
常師範学校を卒業、付属小学校の訓導になり、地理学を研究し、三十四年、上京し
た。志賀重昂等の協力を得、三十六年、「人生地理学』を著し、好評であつたが、学
界には受け入れられず、また刊行により小川琢治、新渡戸稲造等の知己を得たもの
の、経済的にも恵まれず、三十八年ころから、生活のために雑誌編集、文部省嘱託等
を経験し、四十二年には東京麴町の富士見小学校の首席訓導になり、教師生活に逆戻
りした。
 一時、退職し、大正元年、『教授の統合中心としての郷土科研究』を著し、二年に
は台東区東盛小学校の校長になり、以後昭和七年まで数校の小学校校長を歴任し、そ
のかたわら『創価教育学体系』を著作していた(池田諭「牧口常三郎』)。
 大正十年、戸田は牧口とともに西町小学校から三笠小学校に異動したが、十一年、
同校を退職し、生計のために下駄の露天商、八千代生命の保険外交員を始める一方、
十二年には受験塾「時習学館」を開設した。が、同年長女を、翌年妻を失い、彼自身
も結核に冒され、宗教に救いを見いだそうとキリスト教に入信していた。
 十三年ころから中央大学経済学部の夜間部に通い、昭和五年には時習学館で使った
テキスト等を集めて学習参考書『推理式指導算術』を著し、百万部を売り捌いたとい
う。
 同年、創価教育学会の発足後、戸田は時習学館を弟子に讓つて新たに設立した日本
正学館を根城に、大道書房、奥川書房、秀英舎等の小出版社や平和食品等に投資し、
また手形割引会社の日本商事の設立、千葉県の醤油問屋,平野商店の買収、証拠金を
納めてれ兜町証券界への進出など、最盛期には十七の会社を支配し、資産金は六百万
円、月収は一万円を超え、ことに大道書房からは同郷の子母沢寛の書き下ろしを慰問
袋用に刊行して莫大な利益をあげ、創価教育学会の財政面を支えたという(日隅『戸
田城聖』)。
 だが、前述したように創価教育学会への弾圧と彼自身の下獄のため、二十年出所し
ても彼の事業は解体し、逆に二百数十万円の借財を抱えていた。戸田は終戦を待たず
に早速、事業再建に着手し、同年八月には中学生相手に数学、物象を六ヵ月分前金二
十五円で通信教授する「日本正学館」を設立し、九月末には英語の通信講座にも手を
広げ、池田入信時には出版業に転進していた。
池田がこうした海千山千の戸田に学んだ小平を論破するには、東洋商業卒という学
歴も、協友会での読書も、なに一つ助けにならないほどに貧弱すぎたが、それ以上に
彼は、小平の地についた確信者の気魄に圧倒されたのであろう。
確信の困難な時代に確信する者は、その抱く確信がどのようなものであれ、確信す
るというただ一事で、人に威迫力を発揮できる。
戸田や創価学会幹部たちに仕込まれる前の池田の確信の無さや曖昧さは、ことによ
ると、現実をとりこぼすまいとする誠実さや、判断を手控える謙譲の表れであったか
もしれない。が、それは世俗的な成功とは縁遠く、確信なしには池田の会長という地
位もなかったであろう。懐疑論者はつねに割に合うことがないのだ。
確信の対象は、鰯の頭も信心からといわれるように教義の優劣を問わず、宗教であ
る必要もない。もちろん確信の内容は生活を規定するが、要は生活の全面にわたるほ
どに広く、生活規範として働くほどに深く信ずれば、少なくとも人を圧倒できよう。
 池田を呑んだ小平や戸田の確信は、のちに池田の獲得した確信でもあつた。

◆入信
《そのときの話というのはこうなんです。『これから先のこと、二十年先のことがわ
かるか。これから年とって、その先(?)なんのため生きたかを考えることになる
が、それならば今のうちに考えたらいいではないか。自分の宿命は自分でも知らない
ではないか。誰が援助しても、社会的に偉くなっても宿命だけはわからない。宿命は
解決できるか、人生ひとたび死ぬではないか。苦しんで死ぬのではしかたない。この
四つの全部がわかっていれば信仰の必要はない。わからなければ真面目に考えろ。信
仰をしろというのです。
 私はこれに答えられず、信仰すると答えたのです。それでお題目を唱えろというこ
とでしたが、はずかしくてしかたがなかったのです。友人は入信しないで黙っていま
した。それから御本尊をお下げするという話で、私は三十分間ほどいりませんとがん
ばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました》
 池田の授戒(入信の儀式)はこの折伏から十日後の八月二十四日、中野の観喜寮
(のちの、昭倫寺)で行われた。これによれば本部で即刻入信したとも取れるが、文章
の省略であることは次の証言に明らかである。
「堀米曰淳(日蓮正宗第六十五世法主)師からよく聞かされたものだが、池田の御授戒
は日淳師が住職をしていた中野の観喜寮でだったんですね。池田は小平に連れられて
来たが、御授戒だけは受けたものの御本尊を受けるのはどうしても嫌だという。日淳
師は仕方なく小平に持たせ、そのうち池田の気が変わるだろうからといったそうで
す」(当時、宗門の機関誌『大日蓮』の編集を手伝ってい、のちに、創価学会我孫子支部参
与の瀬尾正吉談)
「はずかしくて」は、十九歳の新しがり屋の青年の感情として、十分うなずける。
 当時、創価学会の折伏法は、戦前の価値論から、生活体験を重視する方向に移って
いた。
 牧口の「価値論」とは人生の目的を幸福の追求にありとし、幸福の追求とは価値の
創造獲得であるとするものである。その価値は、新カント学派の真・善・美の三価値
から真を除き、利を加えて、美・利・善の序列で三段階に分けられる。美は人間の部
分的な価値の対象、つまり感覚等にかかわるから個人の利より低く、善は公利だか
ら、単なる利より高い。
 また美・利・善に対して醜・害・悪の三反価値があり、それはそれぞれ大・中・小
の三等級に分けられる。頂点は大善であり、そこで日蓮教学と結びつき、罰論が導入
されて、大善を知りながら行わないのは大悪とされる。
 牧口の「価値論」は現在、学界からまったく無視され、ことにその日蓮正宗教学と
の結びつきは恣意的とされている。
 戸田は「価値論」を「生命論」の論拠としてないがしろにせず、『折伏教典』に一
章を設け、二十九年には戸田補訂で再刊もしているが、その会員への普及度は低く、
また折伏や講義の実践にもさして用いられなかった。価値論から入るより、まず開口
一番、「あなたは幸福か?」とぶつけ、「我々には完全無欠な大生命哲学がある。これ
によって宿命を転換し」と水をむけ、「現証」で説得する方式が多く取られた。「価値
論」の非論理性を嫌ったのではなく、なにより創価学会の大衆化には理屈より実体
験、実利という観点からであった。
 それは敗戦後という時代に、積極的に弱肉強食の思想を肯定し、とまどいながら
も、すすまざるを得ない世の趨勢に投じたものであった。
「牧口先生が教えられたことは主として価値論であった。……それに対して、戸田先
生が教えられたことは、『しょせん、世の中で、たよれるものは、自分以外にない』
という、敗戦後の混乱のなかで、だれでもが感じている真理であった。……戸田先生
は、御本尊様は功徳聚である。御本尊を信じ、自行化他の題目に励むことによって、
病人は健康体に、貧乏人は金持ちに、バカは、利口になると教えられたのである。
……頼るものは自分の力以外にないことは、だれしも認めざるを得ない。きびしい現
実であった。自己の生命力を豊かにし、福運を増し、生活を裕福にすると説く仏法が
受け入れられたことは理の当然であり、深い深い仏智によると拝さねばならない」
(桕原ヤス「再建期の教学」、『大白蓮華』昭和三十九年一月号)
 池田に対しても同様な方策が取られたと思われる。依然として貧・病・争に悩む池
田が顔をあげて自身の将来を見れば、絶望以外になく、彼は小平のいう「宿命」に無
関心ではいられなかっただろう。先行き不安というより、お先真っ暗な池田に、そし
て、世に乗り出す者として自分の運命に鋭敏たらざるを得ない池田に、小平の話はい
かに論証不可能なものであれ、問題のあらわな提起として一定の衝迫力を持った。
 しかし、その「宿命論」は、一個の独立人格としての存在理由は何か、といったよ
うな突きつめた問いに接触はしても、その問い自体ではなかった。なぜなら、そのよ
うな問いに本気で立ち向かうならば、それまで安全に見えていた大地に突然割れ目が
でき、そこから深淵をのぞきこむような不安や不気味さに襲われるからだ(神谷美恵
子『生きがいについて』)。
 池田はそうした知の危機を通過しなかった。彼の弱さが、存在理由の追求の最中
に、安易に手を締めさせたのである。存在意義の根拠は、つねに自分の内にはなく、
他者の中にのみ見出し得るものだが、池田はこのインタビューの最終部で述べるよう
に、彼自身の「ずっと順調で申し分のない幸」の享受以上のものを望むことがなかっ
た。彼の病身も彼を手一杯それにかかずらわせて、彼の精神の病いを防いでいた。池
田が精神の危機を通過しなかったことこそ、宗教者に見られる精神の高貴さや気品に
欠けさせるものであつた。
───────(~63頁)───────◇─────────(引用ここまで、つづく)

◆今このブログが熱い!!  <対話を求めて
  非活・休活・フラ活の学会員から、〝カキコ〟が急増している。
 コメントの一部(抜粋)を紹介
      ―池田氏がいちばん知っている創価のインチキ―

 センセイは、頭から日蓮さんの教えなど信じていません。
 信じてないから、ここまで罰当たりのようなことをしたという意味では、矛盾はないと思いますね。
 私が池田氏がはかりしれないと思うのは、信じてないものを誰よりも信じてるふりをし、本気で信仰している者の教祖となって扇動したことです。
 金儲けのためにここまでできるのは、ふつうの神経ではありません。
 お金をもらう代わりに、それに見合う絶対的な確信やコミュニティを提供したんだから何が悪い、という理屈なんでしょうか。
 私は、創価の教えた教学などインチキも甚だしかった、日蓮さんは異端で特異なお坊さんだっ たと知った時点で、それでビジネスをした池田氏を心底恐ろしいと思いました。
 金の亡者であるビジネスマンはたくさんいますけど、自分の扱ってる商品には絶対の自信がある、自分が本気で惚れ込んでいるという人が殆どなんじゃないでしょうか。
 インチキと知ってインチキ商売をする。
 しかもその商品は品物ではなく宗教。世界中を巻き込んでまで。
 正気じゃないですよね。

◆―コミュニティを提供―そうなんですねぇ…池田教からの覚醒で、大きな悩みですね……
 マルクスでした?…〝宗教はアヘン〟…急激な離脱は〝リバウンド〟きついですね。
 昔ほどでないですヨ?…転勤・転居は大きなチャンスですな…それでも追いかけ?
 パートやアルバイト、スポーツジムに習い事等々……別のコミュニティ…に逃げる。
 
 私のカミさん(74歳)、最近〝グループ長〟になって元気イッパイ…毎日池田マンセーの
〝コチコチ〟…に、私、しんどくなり逃げて今一人暮らし。

 〝やさしくなければ人でない、…が、人は強くなければ生きられない!!〟
 〝……のフリをして〟平和を共有せよ。……欧米の箴言……

 カミさん?…死ぬまで覚醒しないで欲しいですよ…
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