創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価・公明のスキャンダル-6

2018-08-16 06:20:24 | Weblog

 <サイコパス・池田の“人脈・金脈・性脈”>
創価学会・公明党--スキャンダル・ウォッチング
     これでもあなたは信じますか   内藤国夫  (日新報道 1989/06)
    ------(P.37)---(以下、本文)-------

鈴木 琢郎………ただ今“学会エリー卜集団”のトップだが
 学会第一庶務室長。第一庶務というセクションは、池田一人の身辺の世話から始まって、あらゆることを手掛ける池田の秘書集団のこと。常時、40名ほどのスタッフを配属させている。
 学会組織においては「池田先生との距離」が絶対視される。つまり、その距離が信心の尺度、組織内での影響力の源泉とされるわけだ。その意味で、第一庶務のスタッフは池田との距離が物理的に最も近く、学会本部の中でもエリートであるとされる。鈴木は、現在そのエリート集団の中のトップである。
                      ☆
 鈴木は最近、鈴木琢郎名義でリクルート株の譲渡に関わった当の本人ではないか、ということで騒がれた。
 買った株がなんと10万株(一説によると20万株)という巨額なもの。秘書名義でリクルート株を買った議員先生たちよろしく池田が秘書の鈴木名義で買ったのでは、とウワサになった。
 鈴木は長い間、本部広報室渉外局に配属されていた。それがいきなり第一庶務室長に抜擢。
 因みに、歴代の第一庶務室長は、中西治雄、原田稔、持永利之、富岡正史、鈴木琢郎の順。その殆どがやがて挫折し、終りを全うしていない。
 鈴木は昭和59年、池田がブラジルを訪問するのに先立って現地を訪れ、現地の邦字新聞『日伯毎日』を買収しようとし、失敗したことでも有名だ。この他に『パウリスタ新聞』では3千㌦の工作資金を受け取らせることに成功したりもしている。総て池田が現地に着く前段階での、池田を偉大な指導者に見せるための裏工作である。このブラジルでの日系紙買収工作劇は、同じく邦字新聞の『週刊時事』に詳しく暴露された。

唐沢 照明………学会用地を買い漁った“地上げ屋”さん
 この4月に副理事長の岡安博司にその座を譲り定年退職した創価大学前理事長・唐沢照明は、在職中、理事にして理事長に非ずという不思議な人物だった。
 唐沢にとって理事長の肩書は、池田の指示の下、大学周辺で行なってきた土地買い漁りのための看板として与えられたもの。従って、経営陣の最高責任者の地位にありながら、入学式などの公式行事で挨拶一つするわけでなく、大学の実務にも殆ど携わらない。教員組合との賃金交渉にも出席しないのだ。唐沢は、ただひたすら八王子の土地を買い漁ることをその職責としていた。
 「多摩に菩提寺を作りますよ。日本一のお寺を作る。3百年前の様式で作る。創価山立宗寺と名付け、萩をずっと植えて、月をあびながら、生きるために永遠のために懇談しましょう。設計は八矢のところでやる。石畳、燈炉等を作る」(昭和47年4月18日第60回社長会)
 「大学の近くに数万坪の土地を買つて数10億。牧口児童館とか--戸田記念館……世界の本部にする。公会堂、講堂。地方の人がもう何千人でも収容できる恒久的な本部、広宣流布の本山を作っておきたい。会員から応援してもらって。これでほぼ日本の機構が確立…本山は坊さん……どうしょうもない。学会は別法人。見事なものを作りたい」(50年6月16日第1回中央会議)これらの発言に端的に示されているように、池田は八王子を学会の総本山、世界の本部にするとの、八王子創価王国構想を強く抱いていた。
 大石寺のある富士宮市で、山崎正友に画策させて念願の名誉市民の称号を手に入れた直後の昭和50年、池田は山崎に対し「次は八王子でできないか。あちらに学会の本山を作って、将来、創価市としたい。今、唐沢や八尋(副会長・弁護士)にやらせているが、君も手が空いたら向こうに入ってくれ」と、天理教の天理市のように、八王子市を創価市としたいとの胸の内を語ってもいる。
                      ☆
 この池田の構想実現のための土地購入部門での現場責任者が、唐沢だったのである。だが、もともと台湾で中小企業を経営し、年に数度は渡台しているという唐沢の手腕は、所詮は土地ブロー力ー的で、あまり洗練されたものではなかったらしい。ために、51年には学会関東センターを建設するための土地購入に失敗、その過程で業者の贈り物を受け、こっそり1億円の約束手形を切っていたことなどが発覚し、問題となった。
 また、これに先立つ50年5月5日には、創価大学内の天空広場で、池田から土地の購入状況を問われ、言い訳めいた答をしたために「一流の人間は、あれはどうなったというとき『こうなった』『これはこうなりました』というのでなければならない。もしならなければ、祈れ! 君にはそれが足りない。『だからこうだ』という言い訳は言うな。煩わしい。要するに勝ったか負けたかだ」と激しく叱責されてもいる。
 そのような唐沢を中心にしての土地買い漁りだったが、既に創価大学周辺は、殆ど学会によつて買い占められ、大学名義のものを含めれば、その面積は10万坪にものぼる。着々と創価王国構想は推し進められている。
 その意味では、学術の府たる大学の理事長職におよそ学術とは縁のなさそうな唐沢を配し、地上げ屋まがいの仕事をさせた池田の作戦は、それなりの功を奏しつつあるといえよう。

富岡 正史………お気の毒な学会転落人生の体現者
 元学会三重県長。県長というのは、学会の各県の最高責任者のことである。しかし、富岡は元第一庶務室長まで経験した学会エリートである。単に学会内だけでなく、東大出身で、学会本部に勤める前は本田技研にいた、社会的に見てもエリート。とても三重県長くんだりで収まる人ではない。三重県長というのは、富岡にとって明らかに左遷だったのである。
                      ☆
 富岡の左遷には曰くつきエピソードがある。第一庶務室長時代、池田が創価学園で「寿司を食いたい」といい出し、室長自ら慌てて寿司を買いに近くの寿司屋に出かけたことがあった。
 ところが、その寿司屋に行くと、店員に「池田先生はうちのような店の寿司は召し上がらないでしよう」といわれたという。さて、どうすべきか。富岡は東大出身のエリートであるが、どこかヌケたところがある。店員のいったことをそのまま池田に報告したのである。 それを聞いた池田は、物凄い剣幕で富岡をどなりつけた。「とんでもない! そういう時は『いえ、どんなものでもうちの会長は召し上がります』となぜいわないのか!」。富岡はこの寿司屋の一件で第一庶務室長を解任され、三重に飛ばされたというわけである。
 富岡が三重に飛ばされた時、ちょうど三重では宗門と地元の学会との争いが激しくなった頃だった。富岡は「私が三重に来たのは本当の池田先生の学会をつくるためだ」などといって、急に威張り始めたという。威張らなくては本人の気が収まらないからなのだろうが、本田技研にそのまま在職していれば、今頃は役員コースをひた走っていたのかもしれない。気の毒を絵に描いたような転落人生である。
  -----(42P)----つづく--
                          〈目次一覧は、本項第2回「H30/8/12」に登載〉

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