◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
----------改頁----------279--本文
●宗教法人設立の裏事情
組織に流れるお金の量を豊かにし、それにより組織を養い拡大するために、戸田氏は会長就任前後に一つの計画を立てました。すなわち創価学会を財団法人にすることです。財団法人は、公益のために提供された財産をもとに設立される組織体ですから、税制面で優遇されます。ところが、行政当局から認可されなかったために、戸田会長はやむを得ず計画を変更して、宗教法人を設立することを決意して、その趣旨を『聖教新聞』の広告欄に大きく載せました(昭和二十六年十一月一日付の『聖教新聞』)。
これに対して、日蓮正宗宗務院庶務部長・細井精道尊師(後の第六十六世・日達上人)は、戸田会長を総本山に呼び出し、その真意を尋ねられました。戸田氏の弁明はこうです。
「(一つには)我々の折伏活動が全国的活動となり、邪宗との決戦に至る時の大難を予想し、本山を守護し諸難を会長の一身に受けるの覚悟に外ならないということ。
二つには将来の折伏活動の便宜の上から、宗教法人でなければならない」
と。
右の一つ目の弁明は、いちおう、もっともらしく聞こえますが、戸田氏が財団法人設立を計画していたことを考え合わせると、後付けの知恵による弁明のように思えます。宗教法人として認可されれば、土地、建物などの不動産を宗教施設として購入し保有していても、全て免税の恩典を受けられ、その上、収益事業も減税されるのですから。
「一般の公益法人(約二万五〇〇〇ある)のなかには、税制面で優遇措置を受けながら、本来の公益活動をしていないものがあることに批判も出ている。」〈『現代用語の基礎知識』2000年度版,自由国民社)
宗教法人も公益法人の一つですが、池田会長の時代になると、創価学会は、公益活動どころか、数々の反社会的活動に手を染めるようになりました。また、宗教法人を隠れみのにした、様々な脱税疑惑が報じられました。
さて、話を戻し、戸田氏の弁明のうち、二つ目の理由の意味がよく分かりません。あえて推測するならば、御宗門の一切の指導を受けずに、勝手気ままに会を運営していきたい、との希望の表明とも受け取れます。それ故、学会の宗教法人化は、将来、日蓮正宗から独立して、新宗教を始める布石なのではないか、と多くの御僧侶が心配されたのも、無理からぬことだったのです。
●会長と会員に二重の基準
宗教組織、とりわけ日蓮正宗の組織には、宗祖大聖人の信心の血脈を流れ通わさなければなりません。ところが、戸田会長は、戦前の理事長時代から一貫して、創価学会の組織の中に、信心とは別に、お金を注入して循環させることを企て、実行してきました。
この企ては、成功した時はともかく、失敗した時は、組織が潰れる(昭和十八年)か、存続の危機に陥る(昭和二十五年八月)など、大変なことになります。また、成功したとしても、大蔵商事などのように、すさまじい高利で大儲けをすれば、貸し手も借り手も共に心を汚すことは自明の理でしょう。
この大蔵商事で凄い腕前を発揮したのが、池田大作営業部長でした。当時を振り返って池田はこう述べています。
「大蔵商事では一番いやな仕事をした。どうしてこんないやな仕事をするのかと思つた」(第九回社長会昭和四十三年二月)
と。
池田が、寝ている病人の布団をはがして持ち去った、という噂を立てられたのも、この頃のことです。
組織の血脈(血管)に金融、つまり貸し借りのお金を流れ通わしたことは、戸田氏にいやおうなしに矛盾した言動を取らせるようになりました。その一つが、会長のすること(したこと)はすべて正しいが、一般会員が会長と同じことを真似てする場合、正しいこともあれば誤りもある、というものです。たとえば、会長は、一般会員やその友人.知人からお金を借り集めて、そのお金を誰かに貸して金利の差額を儲けてもよいが、一般会員が同じことをするのはよくない、というのです。つまり、会長と会員の間に、異なった評価基準を設けたのです。
しかし、この理屈はどう考えてもおかしい。およそ、理事長とか会長といわれる人は、全会員の手本となるべき人です。会員がその手本どおりにして何が悪い、という主張に反論することは難しいと思います。
戸田氏が会長に就任してしばらくの間、『聖教新聞』紙上には、「利用信心」「信仰利用」の「罪名」で、かなりの人々が監査部指令で除名されていますが、当時、このことに疑問を投げかける幹部は、誰一人おりませんでした。監査部長の柏原ヤスさんをはじめ、側近の誰もが、会長のロボットのような存在なのでした。
●「会長の目となり耳となれ!」
昭和二十九年四月四日の『聖教』紙に、学会辞令として“情報部”の設置が告げられ、情報部長に山浦千鶴子、情報部最高顧問に池田大作が任命されました。この情報部の設置は会員間に不安と疑心を引き起こしたと見えて、同年六月六日の『聖教』紙には、「情報部は会長先生の耳目」という見出しで、小泉理事長の談話を載せました。一部省略してご紹介します。
「無理解なる一部支部内の者が、これを支部内の欠点を会長先生に云いつける機関である、即ちスパイ的行為であるとの言動をなすが、情報部は広宣流布大願に立たれる会長先生の目となり耳となって、その拘負遂行に誤りなからしむるものであって、各支部各地区の状況を誤りなく報告し、又社会各層の動きに、俊敏なる情報網を張って、誤りない資料を提供すベき任務を有する」--と述べています。
さらに半年後の十二月十九日の同紙は、情報部が解体され、「新たに渉外部設置」として、池田が初代渉外部長になったことを報じています。
こうして池田は、金融面では戸田会長とその愛人の森重紀美子さんに次ぐ学会第三位の地位を手に入れ、渉外部(情報部)の最高の地位に登り、年来の野心である「天下を盗る」展望が大きく開けました。しかし、なお乗り越えなければならない大きな障害がありました。ほかならぬ、石田次男氏の存在です。
石田氏は、昭和二十五年の入信で、その年の十一月、まだ入信一週間目にすぎないのに、和泉美代秘書部長の紹介で戸田理事長に面会、翌年の三月、戸田氏から突然の呼び出しを受け、聖教新聞の編集をすることになりました。いかに、戸田氏からその才能を高く評価されていたかがうかがわれます。
石田氏は、芝浦高専(現,芝浦工業大学)工科の出身ながら、聖教新聞初代編集長となり、よく戸田氏の期待にこたえていました。また、『折伏教典』(初版)の生命論も石田氏が書きました。文筆の能力も教養も、池田とは雲泥の差があったことになります。
池田は次のように回想しています。
「昭和二十八年で戸田先生の時代の基礎が出来、三十年頃から後に託す事を考えられた。石田次男を跡継ぎにしょうとしたが、うまくいかず、後の二年間は完全にはずれた」(第五十回社長会昭和四十六年七月)
と。
なぜ、戸田氏晩年の二年間で、次の会長の最有力候補であった石田氏が会長後継者レースから外れたのか? 私の考えを申し上げる前に、昭和二十七、八年ごろの和泉美代さんの心境を推理してみたいと思います。
--------改頁--------284--つづく--
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます