続・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和46=1971 日新報道)
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◆ 「藤原・池田」会談を反古にした池田の“不誠実”
もっとも、私がここまで言い切る心境になったのは、五月三日の池田発言前後から起こった間接的な池田会長との接触の過程とその到達した結論にもとづくものであることをここでつけ加えたい。『創価学会を斬る』の問題においても、私はあくまでも事実にもとづいてものをいってきたつもりだし、その点はこんどの謝罪発言に対応する私自身の態度のとり方にも一貫していることを、理解してもらうために必要であろう。
池田会長は五月十六日に「公明党の右寄りを残念に思う」などを内容とする談話を、問題発生以来初の記者会見で述べているが、その終わりで、「藤原弘達氏との話合いを心配してくれる人もいるが、私としては学会を新しく生まれ変わらせるよう努力することが先決と考えている」と述べている。
私と池田会長との話合いをとりもとうとしたのは、東急の五島昇社長である。五島昇はともかく池田謝罪発言も行なわれ、いうならば「全面降伏」という形になったことであるから、この際、できるだけ早く事件の当事者である私に会い、詫びることは詫びて一応「休戦条約」でも結んではどうかということで、池田会長と私との間の仲介を申し出てきた。五島昇とは「大正会」の集まリなどで、かなり旧知の中であるし、いうなれば広義の友人で、人柄もよく知っていた。
彼と会って話してみると、あまりいつまでも泥試合的斬り合いを続けてゆくのもどうかと思うので、このあたりで池田会長に会い、ザックバランな話合いをして、言いたいことや筋道をはっきりさせ、休戦して「よい意味のアドバイザー」になってやってくれないかということであった。そしてその点の交渉については池田会長から「白紙委任」されているので、ここまで筋を通せばという線をだしてくれないか、という具体的申入れを受けたのである。
五島昇はこういうのである。池田会長は心身ともに疲れているし、私に対しても相済まないと思っている。男らしく頭をさげて詫びているのだから「武士の情」ではないが、そこは彼の立場を考えてやって、それなりの礼をもって対応するのが、エチケットではないか。また五島の言い方は、自分の経営者としての体験をまじえて、なんとか池田会長を立ち直らせてやりたいという同情にあふれていた。その態度は淡々として飾り気がなく、田中角栄前幹事長が私にアプ口ーチしたときの押しつけがましい態度などとは、まさに月とスッポンくらいの違いがあった。とくに田中角栄のときのように政治的思惑があるとかんぐる必要もなかった。 その当時私自身もあまり簡単に池田会長が謝罪するということで、いささか拍子抜けのした心境にもなっていたし、頭を下げてきているのに、それを据えものにして斬りつけるような大人気ないこともしたくたかった。そこで私の要求する条件を池田会長がのみ、ちゃんとした覚書を交換したうえで話合いをし、一応の「休戦」ということで、池田会長の「新生」の努力を見守るということならということで、五島昇の提案にともかく応じることになったのである。
その条件というのは、ほぼ以下のような内容である。
①創価学会、公明党による言論出版妨害は単に道義上の問題にとどまらず、憲法および刑法、独禁法違反などの疑義のある行為であることを認め、その責任を明らかにするために、池田会長は前向きの処置をとることを確約する。
②創価学会と公明党との分離は、ひとり人事面のみならず、組織、財政、運動等すベての面にわたって行なわれるものであることを確約する。
③学会員における政党支持の自由は、特定政党である公明党を、全組織をあげて支援などするものでないことを意味する。
④折伏等によつて発生した被害については厳重に調査のうえ善処する。
以上を覚書の形式にして、池田、藤原両者と仲介人五島昇が署名し、そのこまかい内容については、三者の完全な了解がないかぎり外部に発表しないという申合せであった。
その後の交渉の過程では①の内容はあまりにも五月三日発言と食言する内容になるので「言論出版妨害については、会長の責任において具体的事実を調査のうえ処置する」というやや漠然たる表現にあらためてほしい、という池田会長からの申し入れを受け、これには快く応じることにした。
この条件の守られる限り、私も池田会長のアドバイザーとして協力するもやぶさかでない旨が附記されて、その大筋を、会見後同時に別々に記者会見して発表するという段どりまでついたのである。五月十一日会談、五月十三日記者会見ということまで決まった。
『創価学会を斬る』のなかで「公明党解散」を主張し、この組織をもって民主主義の敵と断定した私としては、この程度の条件では大いに不満であった。中途ハンパな妥協をしたという世論の反発をうける可能性のあることも十分に計算に入れていた。
しかし考えてみると、私自身はあくまでも言論人であり、政治家でもなけれぱ事業家でもないのだ。創価学会が、もし池田会長の猛省によって文字通り民主的に「新生」できるとするならぱ、やはり一応池田会長の政治力ないし、リーダーシップにまつのが、それなりの手順といわなくてはならない。百パーセントの信用などむろんできないけれども、あれだけ天下に向かって謝罪した池田会長のメンツと力量に、五島昇ともどもに一応の期待を託してみようという気持にもなった。
むろんのことだが、この覚書をうらづける裏取引きなどはいっさい存在しない。あくまでも男と男との紳士協定でいこうということ、私はまことに淡々とした心境であり、本当にちゃんとやるなら、池田会長にできるだけやりやすくしてやりたいとまで思ったのである。いささか浪曲調かもしれないが、単に斬るばかりが言論人の使命でもあるまい。相手が本当に反省してやり直そうという善意があるならば、昨日の敵でも同じ日本人である。少しでもヘルプしてやることは、男として当然の心意気だくらいに割り切っていた。
ところがどうであろう。池田会長はいよいよ会見するという前日になって五島昇のところへあらわれ、突如として無期限の会談延期を申し入れてきたのである。さんざん私の言論によって“斬り”まくられたために一種の臆病かぜに見舞われたものか、相談した側近の反対その他複雑な内部事情もあったようで、涙を流しての延期懇願だったというのだ。五島昇もさすがに呆れてしまい、わざわざ私のところへ来られて詫びをいう始末だった。それでいて池田会長は、五月十六日の記者会見では、私との話合いの動きのあったことにふれて、それは先決問題ではないという意味のことを一方的に発表してしまったのである。
率直にいって、私はうんざりしてしまった。
とてもこれは、男対男で対等に話合いのできる人物ではないことを直観したといってよい。あまりにも度量が狭小であり、卑法であり、やり方が汚いのだ。こんな人間を神格化する組織のあまりのバカパ力しさに唖然としながらも、これがまさに創価学会の本質であることを、改めて確認させてもらったような気がした。
---------(225P)-------つづく--
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