創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-23

2019-11-15 07:50:29 | Weblog

 --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 <この日本をどうする-2>
創価学会を斬る 藤原弘達著 日新報道出版部
    --言論出版妨害事件-- 昭和44年(1969年)
    ------(P.108)---(以下、本文)-------

◆ 他人を「ノロウ」ものの罪
 第三の罪は創価学会・公明党に一貫する反社会性とでもいえる罪である。これを解りやすくいいなおすならば、他をノロウものの罪といってもよいであろう。他人に対する寛容性のない、いじけた人間の意識の罪である。
 創価学会に集っている大多数の人間の知能レべルがどのぐらいであるかということについては、いろいろ議論のあるところだが、ともかく約700万世帯、1000万人余という数字は、それだけで驚異的な、社会的な圧力であることは間違いない。国民の10人に1人、幼児や少年をのぞけばそれ以上の割合で信者のいる計算になっている。犬も歩けば棒にあたるように、現状は何かしゃぺると必ず学会員につきあたるというようなことになりかねない。

 すでに「第一部」でも触れておいたように、こういう創価学会の戦後における異常なふくれあがり方は、民主主義の落ち穂拾いの結果である、というように表現できる。つまり、戦後民主主義による平均的底上げの恩典に浴することができず、また既成政党とか、既成宗教の網の目にもかからず、いうならば社会の底辺に放任されておったようなおびただしい国民大衆に対して、「信ずれば助かる」と働きかけたのがまさに創価学会だったわけである。

 “貧と病と争い”に悩む人々、つまり明日の糧に悩む人々、病気で苦しむ人々、精神的に荒廃している人々、要するにワラをもつかみたい人々に「創価学会に入れば、そこにはご本尊という幸福製造機があるのだ」というように、いともドライな表現で近づいたのが創価学会であった。
 過去は問わない“告白”形式によって、ノイローゼ、不安感、孤独感などのストレスを解消させるやりかたとか、つぶれそうな店にいって皆で買物をするといったやり方とか、こうした目に見える“現世利益”は、別に創価学会でなくともやろうと思えぱやれたわけだが、それを落ち徳拾いでもやるように丹念に行なったところに、創価学会組織の広がる原因があった。

 では宗教としてはどうかという点になると、信心そのものがかなり低次元の現世利益を対象としているだけに、まさに「イワシの頭も信心から」というようなものであろう。しかし創価学会のとりえは、この平凡な大衆サービスとでもいえるものを、狂気の熱意をもって行なった点にある。
 本来ならばそういう点においてこそ、大衆に暖かい手をさしのべ、大衆のためにサービスをし、大衆のために闘ってしかるべき日本の革新政党や既成宗教が、この時点において何もせずにサボッていたということの裏返しが学会の発展の因でもあったのだ。その意味では学会による落ち穂拾いはまさに大きな役割を果たしたといってもよい。

 しかし、それにしても創価学会の会員はやたらと“ゴリヤク”なるものを説く。創価学会の聖教新聞はまさに“ごりやく特集新聞”といっても過言でない。説きすぎると思えるほどに説きつづけるのである。信者は現世利益を何とかつかもうとして、半狂乱となって信仰に己れを打ちこむ、そして折伏の教えにしたがって説きあるき、一方ではやさしく暖かい手をさしのべながら、他方ではこれに反する凄みのあるオドシをきかせ、相手を自分のぺースにまきこむという折伏方式を次第に身につけてゆく。

 ではいったいこれらの行動の意味するものは何であるか。創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のように書かれている。
 「ちょつと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することになったのですが、出発の日に、東京訳で私が待っていたところ、佐木氏の方では、その前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハツキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナ力へ帰って、邪宗日蓮宗で葬式をだしたというのです。まるっきり、なっちやいないですね」(傍点・引用者)

 学会教学部、つまり学会のいちばん重要な頭脳にあたるところが、こんな,バカバカしい内容の本を堂々と出版しているのである。いったい創価学会は人間の死というものをなんと心得ているのであろうか。いわゆる邪宗を批判するのは、彼等の自由である。意見発表の自由によって競争していく、これはわれわれの関知するところではない。しかし創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子供の死を罰としてとらえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。これをもって学会批判の当然の“報い”と考えて堂々と公表する心理は、まさに恐るべき精神病理性と、人間性の冒涜と、とらざるをえない。まさに“他をノロウ罪”これが学会の本質なのである。

 われわれの日常生活には良いことも起こるし、悪いことも起こる。何か悪い結果がでると、これをただちに「邪教を信心したための害毒がなせるためだ」とか、「日蓮を誹謗したためにうける罪障だ」と結論してはばからない神経は、まことこっけいといわざるをえないし、それ自体、基本的に邪教の態度である。
 人の不幸をとりあげ、これを過去世よりの罪障とか、宿命とか観念させて、こういう不幸や罰からのがれるためには日蓮正宗を信じ、創価学会に入会する以外に道はないとして、人の不幸を入会勧誘のための手段として用いてよいものかどうか。しかも、その手段として行なわれるものの肥大によって、次第に宗教の本質を喪失してゆき、他をノロウ罪の中に人間性をば没却してゆく。ここに学会の反人間性をマザマザと感ぜざるをえないのである。
     ----------(つづく)---------112

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