創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価公明党との決別-10

2016-06-14 23:06:44 | Weblog

  創価公明党との決別    --OB議員の赤裸々な体験集
     創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編(2012/11-人間の科学社)
       ------(56P、以下本文)-------
【9】臨終正念の精神で七百回登山へ 水口和夫
◆珠玉の如き思い出--I戸田城聖会長直々の指導
 私の信仰の原点は、創価学会の戸田城聖二代会長から直々に受けた珠玉の如き指導の数々だと思っています。少年時代の私が、病弱で生活力の乏しかった父と、健気にもそれを支えていた母、さらに妹と共に日蓮正宗・創価学会に入信したのは昭和二十六年十一月十一日でした。同年の五月三日には戸田先生が第二代会長に就任し、僅か約三〇〇〇世帯の会員数にもかかわらず、あの有名な「七十五万世帯弘教の達成」を宣言し、歴史に残る折伏大行進が開始され、私が入会した翌月には約五七〇〇世帯へとほぼ倍増した時代でありました。
 当時、私は両親に連れられて千代田区西神田にあった学会本部を何度も訪れた記憶があります。多くの悩みを抱えた学会員が戸田先生の教えを求めて、狭い本部に押し寄せていました。子供心にも、厳しくも慈愛に満ちて指導されている戸田先生の姿を見て、感激しつつ帰途についたものです。やがて中学生になると、豊島公会堂で開かれていた本部幹部会や男子部幹部会、一般講義などに川越から駆けつけ、戸田先生の指導に身を乗り出して聴いたものです。時には壇上に上げてもらい、先生の目と鼻の先で講義を受けたこともあり、今にして思えば懐かしくも珠玉のような思い出のひとこまです。
 同三十一年春、一三歳の中学生だった私にとって、信仰上の大きな転機が訪れました。
 その年の四月、日昇上人から血脈相承を受けて登座された第六十五世日淳上人の清らかな御座替わり登山会が行われ、私も臨時輸送班の一員として参加することが叶ったのです。
 その時の戸田先生の雄姿は申すまでもなく、宗門の秘宝・御肉牙の拝観が行われるなど、文字通り感動の連続でした。この年、創価学会はついに会員数百五〇万人を達成したのです。

◆父を手伝いながら思う存分、学会活動に没頭--六期二四年の議員生活スター卜
 やがて、戸田先生から池田大作第三代会長の時代に入り、同三十五年の会長就任の年に父が念願の水口不動産を興しました。私もサラリーマン生活にピリオドを打ち、父の会社を手伝いながら思う存分、学会活動に没頭できる環境が整ったのでした。その後、家庭的にも妻と二人の子供に恵まれ、文字通り東奔西走しながら御本尊様の功徳に感謝する毎日でした。そんな中、同四十六年四月の川越市議選への出馬が決まり、大御本尊様と宗門、創価学会を外護する使命に奮い立ち、迷うことなく選挙戦に挑みました。そして六期二四年に渡る議員生活がスタートしたのです。私は一貫して、正しい政治、庶民のための政治を通して、それが微力ながら広宣流布のお役に立てばと頑張ってきました。
 ところが同五十九年頃、あることから信仰の基本である自分の勤行が乱れていることに気づき、地元の本種寺を訪れました。そして毎朝、御住職と共に勤行唱題行を実践させていただいたのです。この習慣は、余程の事情がない限り続け、今日にまで至っています。
 また、市会議員と不動産業を営んでいた関係もあり、本種寺の建て替え工事や墓苑造成の際には、専門的な知識や知恵を駆使して自分なりに納得できる御奉公ができ、万分の一なりと御報恩につながつたものと信じています。

◆学会・公明党は日蓮正宗には無縁の存在--入会四〇周年の記念日に退会
 そして青天の霹靂ともいえる平成三年の創価学会の宗門からの破門、翌年の池田大作氏の信徒除名という衝撃的な事態が訪れました。私は、平成二年秋の本部幹部会での池田発言を同時放送で聴き、大いなる疑問とシヨックを受けたのを覚えています。宗門と創価学会は一体不二であるべきなのに、恐れ多くも宗門と猊下様の批難をするとは…。 それでも、その時は五十二年路線の時のように、再び僧俗和合が実現するだろうと言い聞かせて自分を納得させようとしていました。
 それと、同時期は翌年春の統一選挙を前に、既に六期目の選挙準備に入っていました。
 私の後援会は、創価学会組熾をべースとしながらも非学会員の支援者が多くいて、信仰上の理由だけで出馬断念するわけにいかない雰囲気でした。内心、宗教上の葛藤を抱えながらも、否応なしに実質的な選挙戦に突入し、学会組織もフル回転という状況となりました。その結果、見事上位での六選を果たすことができたのです。
 しかし平成三年、宗門と創価学会・公明党の対立抗争は最悪の状況へと進み、ついに創価学会破門という決定的な事態となったのでした。もはや躊躇している段階ではありません。大御本尊様に背き、宗門をないがしろにする創価学会・公明党は、日蓮正宗には無縁の存在です。私と家族は同年十一月十日、宗門の「創価学会解散勧告」が出されたのを契機に、入会満四十周年の記念日をもって正式な退会届を提出し、法華講の一員として広宣流布を目指すことを誓ったのです。一方、離党届は同月二十六日、党県連へ正式に提出しました。

◆妻と一緒に名前が書かれた敷物を踏み絵に--異常な反応の学会
 その後、議員活動は無所属という立場で、やり残した地域活動などの公的役割を果たすことに全力を尽くし、六期目の任期を全うし、何の迷いやためらいもなく議員生活に別れを告げました。当然のように学会組織は私と家内に対し、異常なほどの反応を示しました。「恩知らず」「裏切り者」「卑劣な二枚舌」などの悪口雑言は日常茶飯事で、地元の学会会館の階段には私と妻の名前を書いた敷物を置き、あたかも江戸時代のキリシタン狩りで行われた“踏み絵”のように、その上を歩かせたのです。
 日蓮正宗の信徒としての良心に従つて行動するや、それまで同志であり仲間であった人達が、別世界の人のように私と家族を一斉に非難・攻撃してきたのは、覚悟していた状況でしたが、それが怖いからといって正しい信仰を曲げるわけにはいきません。ただ、圏婦人部長をしていた家内にとっては、私以上に辛く苦しい体験だったことでしよう。

◆大御本尊様へ御目通り登山--脱会後六〇〇回
 その後、同二年に脱会して反創価学会活動を展開していた龍年光氏らの活動に合流し、私も本格的な学会攻撃の陣営に加わりました。邪教創価学会を撲滅する会をはじめ四月会、創価学会被害者の会、学会・公明党を糺すOB有志の会へと続く長く厳しい戦いでした。その間、私は四回に亘って心筋梗塞に襲われ、何度か生死の境をさまよいましたが、御本尊様の功徳に護られ、一昨年の佳節の年は元気いっぱいの姿と晴れ晴れとした心境で、記念登山に参加することができたのです。
 私は、脱会して法華講員となって以来、よほどの事情がない限り毎月二~三回、添書での登山を続けています。いつ果てるかも知れない命と向き合いながら、それこそ明日死んでも悔いなしと腹を決め、大御本尊様へ御目通りして参りました。同三年十一月から二十三年暮れまでに登山させていただいた数は六〇〇回に達し、本年も臨終正念の精神で継続しております。
 今、「七百回の登山達成」を当面の目標として、改めて決意を固めているところです。
             (元川越市会議員/本種寺元講頭/川越市在住)

       ---------(61P)-------つづく--

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