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創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-36

2017-11-20 08:06:12 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                                 ----(P250)---(以下、本文)---
学会は「法華経」利用の最悪見本
 私は法華経について特別に研究したわけではない。これまで法華経自体を宗教学的に勉強する時間も、また信仰的な興味もなかったことは率直に認めなければならない。
 しかし日本の思想をいろいろと追求していくと、どうしてこんなに日蓮宗が奇妙にいろんな問題の接点に現われてくるのかということから、法華経とはいったい何であるかということに、かねて興味をもったものである。
 最近では戸頃重基・金沢大学教授の「変革思想としての法華経」(既掲『中央公論』)という論文を通じていろんなことを教えてもらった。これによると、法華経の歴史は古く、聖徳太子から最澄を経て中世に至るまで、だいたい時の宮中、幕府等において国を護る聖典中の最高の権威あるものとして、支配階級の信仰のより所にされたものである、ということである。

 当時の法華経理解がどの程度であったかということには多くの問題があるようである。ともかく外から伝わってきた仏教経典の中にあって、法華経がいわゆる「鎮護国家」、すなわち、国を護るという政治的な使命をもっており、国難を排除し、国を乱すような外敵を払いのけるための祈祷の教典であったことは間違いのないところのようである。
 そういう意味においては、法華経が「行」を通じて発生し、法華経を拝み学ぶことを通じて国を安んじたいという支配者の願望を反映したものであったことは否定できないところであろう。そこから“護国祈願”なるものが行なわれている。その中で最も有名だったのが、最澄が行なった、建武天皇七百三十七年から八百七年までのもの、その道場となったのが比叡山の延暦寺であったという歴史をもっている。古くは聖徳太子や最澄から、現在にいたるまでえんえんとつづく仏教の歴史の流れのなかにおける法華経の役割の大きさを改めて確認することの必要を感じている。

 そして、そういう歴史の流れの中において、日蓮とはいったい何であったかということに、当然法華経というものを介しても突き当たらざるをえないようである。私は、創価学会のやり方が七百年前の日蓮聖人の言葉をアレコレと引きながら、今日の状況に強引に当てはめていくやり方をば余りにもアナクロニズムであり、時代錯誤であると批判したものである。日蓮がすぐれた法華経の行者であり、また日本人としては珍しく権力の弾圧に抵抗した強烈な個性をもつ偉人であり、日本の仏教史上特異な地位を占めていることを否定するものではない。素晴しい坊さんであったことは問違いない。彼自身が貧しい海女の子として生まれながら、その身分的性のハンディ・キャップをはねのけるためにも既成宗教集団と激しく戦わざるをえず、既成集団と戦うことによって弾圧を受け、しかも当時の元寇という国難を背景として、彼の宗教者としての言動がまさに仏教史上に生き生きとした光彩を放っていることはまた何人もこれをみとめる宗教的歴史的事実なのである。
 その日蓮の中における法華経の占めた役割等々についてここで解説を試みるつもりはない。
 またそれだけの原典や文献に当たって、これをこころみるだけの時間的余裕ももってはいない。ただ、日蓮自身が「日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ、旆陀羅が家より出たりし」(佐渡御書)と自称しているように、日蓮が底辺の生まれであるということが当時の中世社会における大きなハンディ・キヤップとなり、そのハンディ・キヤップが同時に彼の法華経行者として権力への抵抗を生む一つのエトスになっている点に大きな興味と関心をもつものである。まさに日本人に珍しい強烈な反骨の僧なのだ。こういう日蓮の巨人的性格から発して、日蓮宗における様々な分派が流れでた。直弟子の数だけ日蓮宗派があるといわれるような分派を生み、日蓮正宗もまたそのひとつであるといえる。だから日蓮は解釈の仕方によつて実にさまざまなエスプリの源泉となる。とくに“護国”“国家鎮護”のナショナリズムの面が非常に強調されたことも事実である。これも所詮は権力者を諫める、いわゆる“諫争”の根拠になっても、それ以上の意味をもつかどうか疑問なのだが、そういうものが年を経て近代にまで生き続け、日本の新興宗教にも様々なイデオロギー的影響を与えていることもまぎれもない事実なのである。

 そのなかでも明治以後、田中智学を経て、髙山樗牛、井上日昭、さらには北一輝にまでつながる「炎の流れ」は無視できまい。やがて“一人一殺”ないしはクーデタを肯定する右翼的テロリズム等々として爆発する日本ファシズムの思想と行動に、独特の激しいエトスを与えたことは否定できないところといわなければならないだろう。
 「制度の矛盾をすベて人間の自覚の問題におきかえるのが、バースナル・レボリューション(人格革命)を唱えるファシズムの特徴である」と前掲の戸頃論文は言っているが、パースナル・レボリューションとはまさに文字通りピッタリ「人間革命」なのである。制度の矛盾すベてを人間の自覚の問題に置きかえていっている池田大作的発想の中からは、そういうファシズムの精神的特徴が、まこと遺憾なく思想史的な意味でも表明されているということである。
 「内なるファシズムを否定する」などといって、内面的反省についての当りのよいキヤッチフレーズにしているようだが、こういう池田大作における「内なるファシズムを否定する」という発想自体の中に、まさにファッショ的エトスというものが潜んでいることを否定することはできないのである。

 ここで私は、井上日召や北一輝についてのベるつもりはない。ただそういう法華経が幸徳秋水とか尾崎秀実のような社会主義者ないし共産主義者達にも、独特な変革のエトス、変革の倫理、行動の自信を与える経典になっているという側面をもっている点が無視できないのである。
 一方では超国家主義のエトスとなり、他方では革命のエトスとなりうるようなものを、イデオロギー的には一体これをどうみるべきなのか。ここで日本ファシズムにおける一方の指導者橋本欣五郎のことを思いだす。彼がソビエトにおける駐在武官の体験を背景にして、天皇を戴く共産主義的ロシア革命方式をもって日本ファシズムの、彼等なりの変革のイデオロギーにしなければならないといっていることだ。「天皇を戴く共産主義」……これと同じように政治的には全く左右両極に分かれるようなヲヂイカリズムをそれなりに支える根っ子になれるものが法華経の魅力なのかもしれない。とくに日蓮において行動化された基準に対する恣意的解釈はまさに基準なきにひとしいくらい勝手放題になっているといえるのだ。

 創価学会はそういう日蓮宗の中の一派、日蓮正宗を最大限に政治的に利用し、その立場を拡大しながら、王仏冥合、政教合体の政治的進出の方向を理論づけたり、さらに貧しい民衆層に足場をもつといいながら、底辺のエネルギーをチヤッカリと吸いあげ、最終の心身ともに老衰した段階においては「大師」号を自らに欲した日蓮のごとく、結構権力を志向したということもいえるのではないか。

 ともあれ私は、法華経理解の最も悪しき形態、日蓮利用の最も悪しき形態が創価学会において極まっているという感じをもたざるをえないということなのである。
       ---------(255P)-------つづく--

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