創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

新・創価学会を斬る-27

2017-11-11 10:32:59 | Weblog

新・創価学会を斬る 藤原弘達 (昭和56/12 ¥500- 日新報道)

                                   ----(P177)---(以下、本文)---
第六章 いまや知れわたってきた池田ら幹部の虚像性
◆ どうしょうもない池田の俗物性
 まだ一部の無智な学会員は、池田を“会長先生”と呼んで神格化された姿に感激しているが、これは池田の人間を知らず、講演とか、テープでの講話を聞くだけでそう思っているに過ぎないものだ。講演とかテープとか出版物にでている池田はすべて演出された池田の虚像である。ちょうど役者が舞台に出るとき、これ以上は化けられないほどに化粧を施してでるようなものだ。それだけ入念に手をかけているのだから、一応は良く見えないのが不思議だといえる。一般の人でいえば一生一代の晴姿ばかりを見せられているのであって、たいていは池田の素顔を知らない。
 インテリ性のあるB長クラスがだんだん批判的になったということは、この厚化粧をやっと見破れるようになったということにほかならない。私はこういう人たちが、まだ神格化されている池田の素顔を他の学会員に知らせてやることのほうが、目ざめさせるうえでは一番キキメがあると思う。ひとつ勇気をだして、池田批判を実行してもらいたいと希望する。東京のある大B長は次のような痛烈な批判を下している。

 「池田は自分で書くのかどうかわからないけれども、いろいろな本を書いて偉そうなことを言ってますがネ。実際にあの人が、藤原さんに会った場合、最初のうちはいろいろな話がでて、間がもてるかもしれませんが、長く時間がかかってくると、自分の程度というか、能力がわかるから、それで会談もお断りしたほうが無難だと考え、逃げたのだと思います。
 何故かというと、『聖教新聞』、『大白蓮塞』、あるいは学会発行の機関誌等を見ると、池田の対談が載っているんです。その対談の相手は、ほとんどが学会員の幹部か、学会と関係のある文化人とか芸能人とか熱烈な池田信者というのが多いんです。
 また会長の講演を聞いていても、あれが何千人の前で話す言葉かと思いますよ。彼がよく使う言葉『いいですか、皆さん、ね、よく理解して下さいよ、まちがいないようにね』これなんか少人数で話す場合ならいいんですが、あのような大勢の前で使う言葉ではない。またそれを聞く人も聞く人ですがね。
 また、最近は本だけではなく、学会に対するいろいろな批判が出ています。これだけ学会員がいるのですから批判も出るはずです、われわれの耳にも入るのですが、学会の最高幹部はこういうことは知っているのです。もう皆んなの耳に入っただろうということをね、.すると、『皆さん,いろいろなことを聞いていているでしよう。あのようなことは聞かないようにしなさい。学会本部で打ち合わせたこと、私の言うことだけは聞きなさい』とこういうのです。
 池田は人に会ったとき、非常に低姿勢だし、人なつこい感じはたしかにあると思います。あれは一つの処世術です。特に学会の会合に老人が来たりすると、いやに親切にしたり、子供を非常に大事にするのは作為的なものがたくさんあると思います。
 それから仏教の話は、過去の多くの高僧の話などを統一した見解に基づいて説くのではなく、自分勝手な新解釈のようなものをしているんです。これは仏教そのものを卑下しており、一種の冒涜だと私は思います。
 それにですね、学会員なら皆知っているんですが、お寺にいっても、総本山にいっても、日本全国の末寺にいっても、学会の先生が講義するだけであって、坊さんは絶対しませんよ。お寺にいったときぐらい、坊さんが講義するのは当然だと思いますがね。
 ただ、月に二回、『御講』というのがあるんですが、これは学会の人も、何百年もつづいている檀家の人も来ますから、この場合は坊さんが説教するわけです。
 それから学会がわれわれを召集した場合、すぐにこう言うわけです。『学会には派閥がない。七百五十万の人が団結する』と。
 ところがこれは嘘です。池田が会長に就任したとき、反対した連中がいたわけです。その連中はいまはみんな冷飯をくっているからです。
 例えば品川の小泉隆という人は戸田時代の理事長でしょう。それで最高顧問、何年か勤めて、戸田の後をずっと守ってきた人ですよ。三代目会長に誰がなるかというときに、非常なトラブルがあったはずです。悶着があったわけです。なにしろ昨日、今日あたり入ってきた人間が総務待遇だということで威張っているのですからね。
 公明党でもそうでしよう、竜年光。東京都議会の副議長なんかもやったし、初期の公明党の大幹部だし、いまの竹入や矢野にかわってしかるべきでしよう。
 こういうのは誰がみても感ずるわけですが、学会が政治的感覚が低いということですね。いずれにしても、そのへんのところは気がついていても黙っているのか、具合が悪いからでしょう。
 また学会では『わが師は池田だ』というんです。師というのは宗教、教義上からいうと今の第六十六世日達猊下が師であって、池田は“檀那”であるわけですよ。このへんを間違えてる学会員が大半ではないですか。」

 また千葉県の嫌崎一夫さんはこうも言う。
「池田はすごいエゴイストですよ。戸田の息子を顧問からはずしたり、三億円も寄付して信心の厚かった船橋市の塚本総業の社長をきり捨てたりするのですからね。戸田系の人は皆嫌なんですね。」
 さらに末端会員でも東京都の長谷川玲子さんは
「私が考えるには、池田大作って人間は悪人ですよ。大泥棒です。結局、暴力で金を奪うのと、口先舌先三寸で、うまいこと言って人の心を強迫して奪うのとの達いだけです。外見のいい強盗で大犯罪人です。貧之人に幸福がくるからご供養しろと欺して、金をまき上げる。本当に貧乏人を助けるのじゃあなく、これじや自分の金儲けですよ。あの男は......。」
 と言つているほどである。

 さらに神奈川県の森谷正雄さんによると大ウソツキの実証がでる。
 「池田は正本堂建立を期し、題目を三百五十億ぺン御本尊様にあげられたというが、これだけ本当にあげるには約千年かかるはずである。ウソつきですね。」

末端会員は下(外)道扱い
 民主主義にとつて重要なのは相互の意志疎通である。だから為政者は意志が円滑にかようように最大の注意を払っているものだ。そういう交流がないと、上意下達だけの一方通行になり、やがて独裁化するこというまでもない。
 アメリカでは犬統領がしばしば一市民の投書に応えている。日本でもようやくそういう風潮がみえ始めたが、まだアメリカ並みにはいってないというのが現状であろう。
 最も庶民の団体組織であると自他ともに認めている学会・公明党がこういうルールを全く無視していることもそれこそ無視できない。その面でもやはり一種のファシズムであるといってもよいわけである。池田に手紙を何回出しても全くの“梨(無し)のツブテ”だというのは学会員なら皆知っているという皮肉な結果になったのは昨今のことである。
 当初、池田の講演とか著作物を読んだ学会員は、当然何んらかの形で返事が来るものと信じていた。事実、そのような雰囲気が十分に盛られていたから入ったのである。だがエラクなってしまった池田にはそんな気持にサラサラ持ち合わせてないし、幹部もそういうことをワザワザ金をかけてやる意志がないらしい。
 多人数を相手とする場合は、ごく一般論を話しておけば結構それで用が足りる。ところが個人を相手にすると時間と努力が何倍も、何十倍もかかるし、具体策を率直に述べるには、それだけ受ける側もかみしもを脱いでかからねばならない。池田は自分自身の裸を見られたくないし、見られたら困るのである。“馬子にも衣裳”の諺のように、裸になると本質がすぐに誰にでもわかつてしまうからだ。小心者がよくやる所作である。
 池田大作よ、君の部下の裏切られた怒りの声を聞き給え!!

 「私は二月十五日に富士大石寺に登山すべく、登山費を払ったとき、これを読んで判を押して池区部長に渡してくれと言われて渡された用紙を家にもち帰り読んでみたところ、その文面が納得できないのでその理由を書きそのの用紙を同封して池田会長宛に昨年(四十六年)十二月二十七日に書留速達で郵送した。
 しかし何んの返事もない。書留である以上、本人か代理人が受け取っているに違いないので、そのことを調べてもらう為に、創価学会本部の大白蓮華編集部門の上条陽子さんという人に依頼するついでに、学会員としてあの言論出版妨害が、私たちの人格をどんなに傷つけたかを、私の憤りとともに便箋三十枚に書いて同じく書留速達便で送りましたが、全く返事がきません。このことは私としては不問に付すわけにはいきません。
 私は座談会で常に、私たち学会員は何処まで行っても日蓮正宗の信者以外の何物でもない。池田会長その他の幹部は私たち信者の良き指導者ではあっても、断じて支配者ではない。如何なる場合でも他人の権益を犯さないと同時に、自分自身の権益も、どのような地位の人からも絶対に犯されることの
ない、差良な文化的社会の一員として社会に貢献できる人格達成に努力を払わねばならないと主張しています。これに対し婦人部長から、『創価学会員であることを决して忘れてはならない、学会員としてふさわしくない危険信号的なことだ』と言われてきたので、これが間違いかどうかもあわせて池田会長に質問しているわけですが、いまだにナシのツブテなんです。」      (大阪市 枝元栄熊さん)

 また名古屋市の池田藤男さんも同じく言う。
「愚妻が数年前に家族の反対を押して入信、ところが名古屋市議選の折、選挙活動に数々の無理をしたため脳出血で倒れました(現在も右半身不随で療養中)。私は池田大作に抗議文を送りました。
 大衆のための宗教、何人にも不幸を与えてはならない等々いうが、現に人間一人を廃物にし、その家族、特に年老いた親、子どもに与える影響は言うに言えぬものがあります。精神的、肉体的打撃に一顧もあたえないのかという内容のものでしたが、もちろん何んの返事もありません。利用だけするが、マトモな返事すらかえつてこないゴウ慢さは何としたことでしょう。」

 もちろん池田大作は多忙だろう。こうした会員からの手紙にいちいち返事は書けないかもしれない。しかし個人収入も相当あるし、秘書だって使っているだろう。それに、『聖教新聞』なり出版物はもっており、それを使用すれば十分できるはずである。それさえやらないということは全く会員をバ力にしている。会員に対する誠意皆無といわれても弁解の余地はあるまい。
       ---------(184P)-------つづく--

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