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画家の丸木位里と赤松俊子連作『原爆の図』がはじめて発表された日

2008-02-08 | 歴史
1950(昭和25)年の今日(2月8日)、画家の丸木位里と赤松俊子連作『原爆の図』がはじめて発表された。
丸木位里は、1901(明治34)年6月20日広島県安佐郡飯室村(現・広島市安佐北区)の太田川のほとりの農家に生まれたそうだ。上京して田中頼璋(※1参照)後に川端龍子に師事。日本南画院(※2参照)、青龍社に参加。戦争前後は戦争に批判的なグループ美術文化協会(※3参照)などで日本画の旗手として活躍。
赤松俊子は、北海道雨竜郡秩父別町生まれ、女子美術専門学校(現女子美術大学)で洋画を学び、卒業後千葉の小学校で代用教員をしながら二科展に出品していたようだ。戦前はモスクワミクロネシアに長期滞在し、スケッチを多数描いていたという。
1941(昭和16)年、両者は結婚。両者とも1946(昭和16)年まで、美術文化協会展に出品。広島に原爆が投下されると、丸木は広島市郊外に住んでいた父や母を始めとする実家の家族の安否を気遣い原爆投下から3日後に、俊子も後を追うように1週間後に広島に入り救援活動に約1ヶ月携わる。俊子は被爆後の広島に入り体調を崩し、翌・1947(昭和22)年から神奈川県湘南片瀬の山小屋のような住居で絵筆をとっていたという。湘南には戦中から多くの知識人・文化人が戦火を避けて住み着き、戦後も平和問題懇談会などといった会合を持っていたようで、俊子もその中で最も積極的行動的に振舞っていたという。そして、「明るい建設的な人民の姿を描けといわれても、現実が暗い。痛手を背負って生きている。」・・・そんな痛手と言う言葉に、目撃した広島の惨状を重ね合わせていたという。そして、片瀬へ来てから、夫の位里とともに描いたおびただしい人体デッサンをもとに『原爆の図』に着手、1950(昭和25)年の今日・2月8日、『原爆の図 第1部 幽霊』が発表された。絵の大きさは、タテ:182センチ、ヨコ:720センチだという。
場所は、東京上野美術館での日本アンデパンダン展(1950.2.8-17)で、このとき、この、『原爆の図 第1部 幽霊』は「八月六日」の題で発表されたそうで、1950(昭和25)年2月24日の『婦人民主新聞』に、初めて『原爆の図』という題で作品が紹介されたそうだ(以下参考に記載の「丸木美術館学芸員日誌2008/1/11《原爆の図》展―1950年の軌跡」より)。
はじめは1作だけ、その後は3部作にと考えていた「原爆の図」は、第2部「火」、第3部「水」が1950(昭和25)年夏に完成、その後も次々と製作され「原爆の図」は、とうとう15部を数え、最後に”長崎”が描かれた1982(昭和57)年までの32年間、夫妻は「原爆」を描き続けた。なお、赤松俊子は、1957(昭和32)年位里の母スマの不慮の死を機に丸木俊と名を改め、以丸木夫婦の「原爆の図」といわれるようになったようだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
1966(昭和41)年、埼玉県に、原爆の図丸木美術館を設立。1965(昭和40)年に原水爆禁止日本協議会の理事長を辞任した安井郁が館長を務めている。「原爆の図」は日本をはじめ、世界各地で巡回展示され、世界中の人々に原爆の恐ろしさを伝えた。なお、丸木位里は1995(平成 7)年、丸木俊は2000(平成12)年に亡くなっている。
1945(昭和20)年8月6日の午前8時15分17秒、B-29爆撃機エノラ・ゲイ号から核爆弾リトルボーイが自動投下された。その投下目標は、広島市の中央に流れる太田川にかかる相生橋であったという。相生橋は、広島市中心部を流れる本川(旧太田川)元安川の分岐点に掛かる橋で、橋の形状は全国的にも珍しいT字型の橋であり、T字の足は広島平和記念公園(旧中島地区)につながっている。このT字型の橋は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれたのだそうだ(しかし、正確な爆心地は、相生橋よりやや東南の島病院上空と戦後に分析されているという)。
丸木位里はこの太田川の辺りの百姓の子であったという。私は、昭和30年代前半大阪の商社に勤めていたころ、広島に出張してきた時、相生橋付近川の前の旅館によく泊まった。そうすると、必ず、夕食など部屋に運んできた女中さんに、「原爆が投下された時、水を求めてこの川まできて亡くなった人が多かったんですよ」・・・と涙ながらによく聞かされたことを思い出す。
広島市は、人類史上初めての原弾が市中心部の上空約600メートルでさく裂し、壊滅的な被害を受けた。1949(昭和24)年 8月6日 日本では初めての住民投票で9割以上の支持を得て、「広島平和記念都市建設法」が公布された。世界に向けて人類の平和を願い訴える目的と過去の過ちを繰り返さないために、爆心地に近いこの周辺に公園の建設が計画され、1954(昭和29)年4月1日に完成した。 毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられている。
最初のものは戦後2年目の、1947(昭和22)年に「広島平和祭」として第一回が催され、当時の広島市長である浜井信三が平和宣言を行った。このときはGHQによる占領統治時代であったため、検閲で平和への思いが消されないためにどうするか苦労したという。
画像は、『朝日クロニクル「週刊20世紀」』1973年031号より転載の「新「原爆の図』」である。注書きには、”広島市の依頼を受けて丸木位里・俊夫婦が製作中だった縦4メートル、横8メートル、畳20枚分に当る新『原爆の図』が完成。広島市の平和記念館正面玄関に展示されることになった。「構想も下絵もなしでスタート、それぞれに表現したいものを思う存分、画面にぶつけていった(「アサヒグラフ」3月30日号)”とある。丸木美術館の”おもなあゆみ”に、「1973年 広島市の依頼で「ひろしまの図」制作(広島市現代美術館所蔵) 」とあるので、今は、「ひろしまの図」と呼ばれているものだろう。広島市現代美術館には、現在この「ひろしまの図」と「原爆の図」初期3部作の再制作版とがあるようだ。
以下参考に記載の「原爆の図-丸木美術館公式HP」では、沢山の原爆の図が見れるよ。この絵を見て、アメリカという国が日本にどんなことをしてきた国であったかを、少しは思い出してみるのもよいのではないだろうか。
(画像は、新『原爆の図』1973年アサヒクロニクル「週刊20世紀」より。「アサヒグラフ」3月30日号掲載分とある。)
原爆の図丸木美術館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E5%9B%B3%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
原爆の図-丸木美術館
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/index.htm
広島市への原子爆弾投下 - Wikipedia
>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B
※1:田中頼璋
http://www.iwami-dp.net/sanka/bijutu/bjt_1.htm
※2:日本南画院
http://www.medialine.ne.jp/nihonnangain/
※3:美術文化協会
http://www13.ocn.ne.jp/~bibun/
丸木美術館学芸員日誌2008/1/11《原爆の図》展―1950年の軌跡
http://diary.jp.aol.com/454hpkhtj/890.html
広島平和記念公園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92
広島平和記念資料館公式ページ
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
広島市現代美術館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8