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一ノ谷の戦いの日。源義経らが「鵯越の奇襲」により平氏に圧勝した

2008-02-07 | 歴史
世に言う 一ノ谷の合戦とは、平安時代の末期の1184年(平家方 : 寿永3年、源氏方 : 治承8年)2月7日のこの日に、かつて平清盛が都とした摂津国福原を中心に、東は生田川から西は摂津国境三の谷に、南は海岸から、北は背山の山間部にわたる、旧神戸市市街全域にわたる広範囲で行われた合戦の総称でり、治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つである。
こうした一ノ谷合戦を考えるための文献史料としては、九条兼実の日記『玉葉』、同時代の日記形式で記述した歴史書『吾妻鏡』、それによく知られている『平家物語』がある。
源平の合戦は、単に源氏と平氏の戦いと言うだけではなく、古代貴族社会が大きく中世武家社会へ転換してゆく契機となった戦いでもあった。
一の谷の合戦は一の谷付近に仮のご在所を設けていたことのある平家の本拠地を突くのが源氏の目標であったからこの戦いを源氏は最初から、一の谷の合戦と呼んでいたのであろう。ここで源平2氏が一の谷で戦うことになった経緯をたどってみると、寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう。
情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。
この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月26日、屋島を発して福原へ向かい経ヶ島(日宋貿易の拠点である大輪田泊に交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島)に上陸して、福原の東西に陣を張った。東の木戸生田の森には平知盛が陣し(副将には平 重衡)し、西の木戸一の谷には平忠度が守った。安徳天皇をはじめ総大将平宗盛らは、経ヶ島の大輪田泊の船上にあった。一方平資盛らは、河東郡の社の北方三草(みくさ)に陣をしいて、丹波路を経て播磨を通ってくる源義経の群に備えた。
平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。
寿永3年(1184年)2月4日、源氏方は、京を発し、矢合せを2月7日と定め、源範頼山陽道を生田の森を目指して進み、義経は三草で資盛らの陣に夜襲をてかけてこれを破る(三草山の戦い)と、前哨戦に勝利した義経は小野のあたりで、本体を土肥実平に授けて敗走した資盛、有盛らを追撃させ、自分は少数精鋭を卒いて、鵯越路をとったという。ここで、有名な義経の逆落としはどこかについて、それが、一の谷か?、鵯越麓か?の意見が2説に分かれている。
この説に対して、私は、地元・神戸の歴史を詳しく調べておられる郷土史家の落合重信の説をとりたい。落合は『ながたの歴史』の中で、当然の事として鵯越麓説などの説を取っている。
”先ず、一、義経が、本体を土肥実平に授けて、少数精鋭を卒いて鵯越路をとったということは、敵の東・西両陣にたいして、中央突破を狙ったものであり、それが、一の谷へ出たのでは、軍を分けた意味が無くなる。それに鵯越路をとって後、一の谷へ出ることは困難である。一、『平家物語』によると、平家軍は万一に備えて、生田の森にいた平通盛、教経、盛俊を鵯越麓の山の手の陣へ廻している。これに対して、義経は鵯越の上に立って、坂下の平家の陣へ馬を落としてみたところ「鞍おき馬三匹、越中前司(盛俊)が屋形のうえに落ちゐて、みぶるいしてぞ立たりける。御曹司(義経)是をみて『馬共はぬしぬしが心得ておとさうにそんずるまじゐぞ』くはおとせ。[『義経を手本とせよ』とて、まず卅騎ばかりまっさきかけておとされけり・・・」
範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。とあるから、逆落しを鵯越麓以外に考えられない。一、世に「逆落し」というので、坂に石でも落とすように思って、鵯越にはそんな急峻な坂はないということで、鵯越説を否定しようとする人があるが、「落す」というのは、「城を落す」と言う言葉もあるように、敵の陣を攻略することにも言うのであって、坂下の平家の陣を攻略したしたということである。別に逆落しと言うような特別急峻な坂を必要としないのである。一、それにもかかわらず、逆落とし一の谷説がいつまでも言い続けられるのは、『平家物語』自体に「一の谷のうしろ鵯越」ということがたびたび出てくるからであるが、これは、『平家物語』の作者自身がこの地方の地理に必ずしも詳しくなかったことに過ぎない。”・・・という。
又、兵庫歴史研究会会長梅村伸雄の以下参考に記載の「兵庫歴史研究会・義経の実像・一の谷合戦における鵯越の逆落とし」には以下のように書いている。
”一の谷合戦に登場する一の谷は、鵯越の麓、つまりJR兵庫駅会下山の麓に展開していた大きな湖で、湊川が流れ込み、その湖からまた湊川となって和田岬より海に流れ出ていた、川と湖が美しいために一の谷と名付けられた谷である。”・・・と。
では、平家が築いた難攻不落な一の谷城とは、何処にあって、どのような城であったのか。”『吾妻鏡』『平家物語百二十句』では、「一の谷の後ろ、摂津の国と播摩との境なる鵯越」と記しているが、これを逆説的に言えば、鵯越の前面、即ち兵庫の地に一の谷があると伝えている。 因みに、鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り、鵯越の麓には大きく美しい湖があったと伝えているが、これこそ大きさと美しさで「一の谷」の名をつけられた湖である。この湖は、湊川の一部であって、天王谷川と烏原川が清盛の雪御所の南で合流して湊川になり、大開の辺りから大きな湖を形成、真光寺(ここ参照)の南辺りからまた狭い湊川となって和田岬の内懐より海に出る「一の谷は口は狭くて奥広し」と言われた湊川のことであった。”・・・と。
平家の陣である東門「生田の森」と西門「一の谷」を、源氏軍が挟撃して、義経が中央を割る三方攻めの作戦を行った。鵯越の坂落としという背後からの奇襲を受け火を放たれた平家の陣は、たちまち浮き足立ち、東の「生田の森」も、西の「一の谷」もつぎつぎと破れた。
しかし、奇襲を掛けられたからと言って僅かな手勢に大軍の平家軍が負けたのだろうか?
是に関して、この一ノ谷の合戦、勝敗を決定づけた最大の要因は義経の奇襲「鵯越の坂落し」ではなかったかも知れない。そこには、後白河法皇が平氏へ講和の提案を行い、大幅に武装解除させる一方で、鎌倉政権軍と連携して対平氏攻撃を着々と準備した計略であったという説も有力である。それは、一ノ谷の合戦後に平宗盛が都に書状を送っており、そのことが『吾妻鏡』に記録されているという。書状の内容は以下参考に記載の「源義經研究六 一の谷合戦 」を見られるとよい。
源氏軍は一ノ谷を急襲し、あちこちで火を放った。平氏は大混乱に陥り、安徳天皇・建礼門院を守り,屋島に落ちていった。合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、この後、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。
一の谷合戦における鵯越の逆落しについては、先ほど紹介した兵庫歴史研究会会長梅村伸雄の以下に記載のものが詳しいので、一度見られるとよい。
兵庫歴史研究会・義経の実像・一の谷合戦における鵯越の逆落とし
http://www2.ocn.ne.jp/~umeno87/
画像は、コレクションの絵葉書より源平錦絵「一ノ谷合戦」豊国画。神戸市・大本山・須磨寺所蔵のものを同寺が絵葉書にしたもの。海岸で戦っているのが向かって左:無官太夫敦盛、右:熊谷次郎直実。崖を下っているのが先頭源九郎義経、続いているのが武蔵坊弁慶。)
一ノ谷の戦い - Wikipedia
 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
神戸市文書館「平家物語」
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/heike/heike.html
玉葉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%91%89
※古典文学ポータルサイト・やたがらすナビ・中世目次
http://yatanavi.hp.infoseek.co.jp/linkjp/chuse.htm
神戸長田まちの情報館・円山地区
http://i-town-nagata.com/02/cont-02-08.htm
須磨観光協会 - 【源平合戦と須磨】
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/tinyd0/index.php?id=2
丹波里学・丹波の義経伝説その③:三草山の戦い
http://www.tambagumi.com/user/bureau/knows/satogaku/17_yoshitsune3.htm
落合重信 作品一覧: 紀伊國屋書店BookWeb
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%97%8E%8D%87%8Fd%90M/list.html
兵庫歴史研究会・義経の実像・一の谷合戦における鵯越の逆落とし
http://www2.ocn.ne.jp/~umeno87/
源義經研究六 一の谷合戦
http://www.st.rim.or.jp/~success/den_y6.htm
長田区HP会下山
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kc/kc01/kc01020.htm
兵庫区・源平ゆかりの史跡マップ 大輪田泊コース
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/84/genpei_map/map_oowadanotomari.html